27.メイ
とりあえずヒロカにシャワーを浴びるようにお願いした。
「もっとこう、感動の再会みたいな反応はないの?」と膨れられたが、風邪を引いて欲しくないと説得するとしぶしぶ応じてくれた。
脱いだ下着とキャミソールと靴下だけ受け取って、私はコインランドリールームに持って行った。
洗濯機に放り込んで、備え付けの洗剤を入れ、スイッチを押す。
四十分後に、今度は乾燥機にかけなくては。
それにしてもなぜこんなに下着までびしょ濡れなのだろう?
駅からホテルの玄関まで、走れば三十秒もかからないのに。そんなに雨が強かったのだろうか?
部屋に戻り、ブレザーとスカートをハンガーにかけ、とりあえずクローゼットの中に吊るした。
ヒロカがシャワーから出てきたら、浴室乾燥機能を最強にして中で乾かそう。
二時間もあればあらかた湿気は取れるだろう。
ギターケースはバスタオルで拭いておいた。撥水性の素材なのでギター自体は濡れていなかった。
カバンの中の教科書とノートは水気が染み込む前に取り出しておくことにする。
一通りの作業を終えて、私はやれやれとベッドに腰掛けた。
ユニットバスの中からシャワーの水音と、ヒロカの鼻歌が聞こえてくる。
聞いたことのないメロディだった。
――ヒロカが、ここにいる。私が、いつも一人で過ごしているこの部屋に。
第一声をなんと言っていいのか、昨日からのことをなんと切り出そうかと決められないままだったので、ある意味雨が降っていてくれて良かったのかもしれない。
問題は、この後だ。どう説明すればいいんだろう。
一晩考えてもわからなかったから学校を休んで時間を稼ぐことにしたのに、ヒロカはそれを許してくれなかった。
私が思っていた以上に彼女は強引で行動的な面がある。
でもそれを図々しいとか無神経だとは感じない。
むしろ、嬉しいと思ってしまっている。当たり前だ。好きな人が、私のためだけにここまでしてくれるんだから。
好きな人。
私が、好きになってしまった人。
昨夜から、ヒロカのことを考えれば考えるほど胸が苦しくなった。
でも今、扉一つ隔てたところに彼女がいると思うと、それだけで嘘のように楽になっている。
この部屋にいる限り、ヒロカは私だけを見てくれる。
ヒロカは私のもの。
例え束の間であったとしても。
結局考えがまとまらないうちに、シャワーの音が止んだ。
用意しておいたホテルのガウンを羽織って、ヒロカが浴室から出てきた。
「はー、あったまったー」
頭をバスタオルでゴシゴシ拭きながら、私の隣に座る。
少しだけベッドが軋んだ。
「すごいね、ホテル暮らしなんて!なんか羨ましい」
「……そう?まだお父さんの通勤先がはっきり決まらないから、しばらくはこんな暮らしになっちゃうんだよね」
「あ、じゃあ、今度私ここに泊まりにきてもいいのかな?」
「え?うん、シングルの部屋だけど補助のベッドもあるし……。二人で泊まっても料金変わらないみたいだし……」
「やったー!じゃあ今度は、お泊りセット持って来よっと!」
ヒロカは歓声をあげてベッドに体を横たえた。
「あー、憧れのベッド……。マットレスって柔らかくて気持ちいいよねぇ」
ゴロゴロと転がって寝心地を確かめるヒロカ。ガウンの裾がめくれて太ももが露わになる。覚悟していたつもりだったが、どきっとしてしまった。
「あーー、メイ今どこ見てた?なんかやらしい視線……」
「なっ!?」
「やば、そういえば今ノーパンなんだった。無防備な格好してるとまたメイに襲われちゃう」
ニヤニヤしながら、ヒロカはわざとらしくガウンの胸元をかき合わせる。
「あ、あのね!またってなに!?」
「きゃー!赤くなってるー!図星だなー?やらしいこと考えてるなー?メイのエッチ!ムッツリスケベ!こっち見ないで!!」
枕が飛んできて私の顔に直撃した。
「この……ヒロカーーー!!」
「きゃーーーー!」
布団をかぶってガードされる前に、私はヒロカの腕をがっちりと掴んだ。
そのまま馬乗りになって脇腹をおもいっきりくすぐってやる。
「あっ!ちょっ、やめっ!あははははは!嘘!嘘だからっ!あははははははははっ!」
「何が嘘よ!このっ!!人の気も知らないで、馬鹿なことばっかり言って!!」
「待って待って待って!!あははははははははははっ、ぎ、ギブギブ!!あはははははははっ!!死ぬっ、許して!!」
「許さない!!お仕置き!!」
一晩悩み抜いた鬱憤が、変な形で吹き出した。くすぐりの刑はそのあと組んず解れつしながらたっぷり一分は続いた。
「はーっ、はーっ、ど……どう!?もう変なこと言わない?!」
「い、い、言わない。い、言いません……。降参です……」
「よろしい……」
すっかり乱れきったベッドの上に二人へたり込む。
荒い息が弾む。
目の端に溜まった涙をガウンの裾で拭うヒロカと目が合う。
せっかくシャワーを浴びたのにその額には玉の汗が滲んでいた。
学校をサボって、真昼間に何をやっているのやら。
ヒロカも同じことを思ったのか、ぷっと吹き出した。
いつものように二人で大笑いする。
楽しい。嬉しい。
いつも寂しかったこの部屋がこんなに素敵な空間になる。
二人で笑うと、どんなに辛かったことも吹き飛んでしまう。
やっぱり私はヒロカが好きだ。
もうどうしようもないほど大好きだ。
ずっと一緒にいたい。
誰にも、髪の毛一本だって渡したくない。
なんで私は男じゃないんだろう。なんで出会ってしまったんだろう。
こんな報われない感情を知るくらいなら、ずっと一人でいられた方がマシだった。
どうして私ばかりがこんな惨めな思いをしなきゃならないんだろう。
私は笑いながら、ボロボロと涙を流していた。
視界が歪んで目の前にあるヒロカの顔が見えない。
私は今、幸せなんだろうか?
それとも不幸なんだろうか?
そんなことさえはっきりとわからない。
せっかく二人でいるのに、ヒロカが帰ってしまったあとの私を想像してしまう。
穴の開いた風船に必死に空気を送り込んでいるような虚しさ。
多分、その風船が私の心そのものなんだ。
いつの間にか、ヒロカの両腕が私の頭をそっと包んで、胸元に抱きしめてくれていた。
いつの間にか、二人の笑い声は、私の嗚咽になっていた。
駄々をこねる子供みたいに、恥も知らず大声で泣きわめいていた。
もう何年もずっと蓋をし続けていた過去の記憶まで溢れ出してきて、歯止めが効かない。
惨めな自分を直視しないように強がって、一人ぼっちでも同情なんかされないように自分から壁を作って、でも誰かに分かって欲しくて堪らなくて。
やっと見つけたと思ったのに。今もこうして、ヒロカは私を抱きしめていてくれるのに。
満たされるとすぐに、私の中には新しい欲求が生まれる。
彼女をがんじがらめにして、指先の爪の先まで余さず私のものにしたい。
その上で彼女に、変わらず笑っていて欲しい。
私さえそばにいれば他に何もいらないと約束して欲しい。
そんなこと叶えられるはずもないのに、少しでも私の思い通りにならないことがあると傷付いたり苛立ったりする。
求めるほどに応じてくれる優しいヒロカ。
この包み込むような暖かい微笑みが、驚きに染まり、拒絶と軽蔑の表情に塗り替えられていく瞬間がありありと浮かぶ。
「メイ……」
両腕を少し緩めて、私の顔を覗き込もうとするヒロカ。
私は咄嗟に両手で顔を覆い隠す。
「見ないで!!やめて……見ないでよ……」
ヒステリックに叫ぶと、ヒロカは一瞬の間のあと、また優しく抱きしめてくれた。
「……分かった。大丈夫、見ないよ。嫌なことがあったら言ってね。大丈夫だから」
そう言って、私の頭を撫でてくれる手のひら。
壊れ物に触るように慎重に、大切に思う気持ちを小さな手のひらに込めるように、丁寧に。
「ごめんね、何も分かってあげられないね。でも、辛いんだよね。何も言わなくていいから」
その言葉の声色が優しいほど、悲しくなる。
かといって突き放されたらもう立ち直れない。
私はただ、ヒロカの胸に顔を埋めていることしかできなかった。
「……あのね、そのまま、聞いててね。何も考えなくていいから」
そういって、ヒロカはすうっと息を吸い込んだ。
聞こえてきたのは、小さなハミングだった。
いつか私がヒロカにしたように、背中を優しく叩いてゆったりとしたリズムをとりながら、その旋律を口ずさむ。
さっき浴室から聞こえてきた鼻歌だった。
もの悲しげで、繊細で、最愛の人との別離を惜しむような、降り止まない雨を思わせるような……そんな曲だった。
「……この曲ね、私が作ったんだよ。曲名はね、『紫陽花の棺』」
耳を疑った。それは……。
「ごめんね、机の中のメモ、見ちゃったんだ。でも読んだ時から胸の中がざわざわして、曲をつけてみたいって思ったの。作曲なんてしたこと全然ないのに、やってみたいって」
鳥肌が立った。別離。雨。長く閉ざしていた鍵が開いたような感覚。
思い出した。
お気に入りのクマのぬいぐるみ。
名前はトマス。
父に買ってもらって、両親が離婚したあとに母が捨ててこいと言って。
最後の思い出にと、よく父と一緒に行った公園を散歩した。
もうすぐ捨てられるのに、優しく微笑んでいるトマス。
ベンチに座って、私は飽きもせず話しかけていた。
私が声をかけ、腹話術で返事をする。
思い出話は大いに盛り上がった。
初めて家に来た時のこと。
食卓に一緒に座らせて一緒にテーブルを囲んで、四人家族だねとみんなで笑ったこと。
私が蜂蜜を舐めさせたせいでしばらくベタベタだったこと。
寂しい夜もトマスが話し相手になってくれればなんとか寝付けたこと。
一緒だととても楽しくて、本当の家族みたいに思っていたと伝えたかった。
でも、お別れしなきゃいけないことを伝えて、私は何度も謝った。
トマスは大人ぶって、出会いがあれば別れがあるものだよと私を慰めてくれた。
笑顔を絶やさない彼は最後までポジティブに、弱音を吐く私を支えていてくれた。
夕方になって、家に帰る時間になって、雨も降り出してきて、私は紫陽花の茂みの間に彼を横たえた。
せめて綺麗な花が見えるようにと。
私はトマスに言われて、無理やり笑顔を作ってお別れをした。
私がそこに置き去りにした瞬間、トマスはもう二度と喋ることも動くこともなくなった。
「すごく切ない詞だよね。どうしてあんな言葉がメイから出てきたのか、私にはわからないけど、きっと何か悲しいことがあったんだよね」
そう、悲しいことだった。
私も、トマスもきっと離れたくなんてなかったのに。
全部、私だった。
私が私に謝って、慰めて、励まして。
大丈夫なふりをするために、弱い私を支える何かを自分の中に作って、少しでも痛くないように。
顔を覆い隠していた両手に、ヒロカの手のひらが触れる。
「私、安心したんだ。やっと少し、弱いところ見せてくれたね。私の事、頼ってくれるんだよね?」
涙で濡れた私の両手を、ヒロカの両手が包んでくれた。
「こっち向ける?私の目、見て」
滲んだ視界の中でも、その色はすぐに見つけることができた。
私の大好きな輝きを湛えたヒロカの瞳。
「どんな気持ちも、私にぶつけてよ。今はまだ全然下手だけど、ひとつひとつ歌にしてみるよ。そうすれば、忘れることができなくても、私たちの繋がりになるよ」
穏やかな口調。
両手の温もり。
ただの言葉だけじゃない、私のためにヒロカがしてくれることの重さ。
私の声にならない、私自身も忘れていた出来事に対する嘆きを拾い上げて、あんなに素敵なメロディに仕上げてくれた。
どれだけの言葉で慰められるより、不思議な力が私の中に湧いてくる。
私の頭の中に渦巻く出口のない葛藤とは独立した、喉の奥の疼き。
どんな感情でもいい。
思い切り歌いたい。
そしてその隣には、ヒロカがいてほしい。
私の体に入りきらない感情が、泣き声と涙として溢れ出した。
ただ悲しいだけではない。
感謝、欲求、後悔、懺悔、どれだけの言葉を並べても、この気持ちを表現することはできない気がした。
私は何十分も、言葉にならない声を上げながらヒロカに縋り付いて泣いた。
その間ずっと絶え間なく、ヒロカは私の頭を撫で続けていてくれた。
「わたしも……」
「ん?」
「……私も、歌って、いい?ヒロカが、作って……くれる歌……」
喉の震えの合間を縫って、やっとのことで絞り出したその質問に、ヒロカは大きく頷いた。
「もちろん。そのために作るんだよ。私の楽しみ。私、メイの声、大好き」
もう一度、ヒロカは私を抱きしめた。
柔らかくて、暖かくて、いい匂い。
私は暫くの間、ヒロカの優しい抱擁の中で、ただ涙を流し続けた。




