26.ヒロカ
制服の袖で涙を拭って、私は発券機の上の路線図を見上げた。
薊橋、麻生から一駅だ。
切符を買い、改札をくぐる。
少し前、メイが手を振ってくれた場所。
記憶の中のメイを追いかけるように、私はエスカレーターを駆け上がった。
電車は一時間に二本しかこないが、タイミングが良かった。
三分ほどで焦げ茶色のレトロな車両がホームに滑り込んできた。
数人の学生が降車すると、乗客はほぼゼロになった。
この路線を利用するのは中学の遠足以来だ。
独特の支払いシステムに戸惑いつつも、私は車輌に乗り込んだ。
大げさな音を立ててドアが閉まり、電車はゆっくりと走り出した。
この中でいくら急いでも仕方ない。
私は降車側ドア近くの席に座って制服と髪の乱れを直した。
窓の外を流れる街並み。
一分もするともう市街地は見えなくなり、川を越えてからは見覚えのない風景だった。
収穫を終えた田畑と枯れ草が生い茂る畦道。
たまにぽつりと木造家屋。
この季節の農地は本当に寂しい。
メイは毎日、どんな気分でこの電車に揺られていたんだろうか?
『いま、電車に乗ったところだよ。すぐ着くからね』
じっとしていられず、メールを打った。
文面とは裏腹に、電車はなかなか減速しない。
気が急くほど、一秒が長く感じる。
見つめる鍋は煮えないというやつだろう。
学校をサボった上に普段は乗ることのない電車に乗って、私はメイの所へ急いでいる。
昔ならこんな選択肢すら思いつかなかっただろう。
何があってもまずは学校へ。
どんな急用でも無条件で学校より優先度は低かった。
でも一度その決まりを破ってしまうと、別に強制力があることでもなかったんだと拍子抜けしてしまった。
あとでバレたらこっぴどく怒られるかもしれないが、そんなのはもう覚悟の上だ。
本当に自分がしたいこと、しなきゃいけないと思うことに従ったんだ。
誰にも文句なんか言わせない。
決意を新たにしたところで、スマホが震えた。
『ヒロカ、私ね、ずるいんだ。ヒロカが私を心配してくれること、分かってたのに。来てくれるって言ってもらったら、自分のためにヒロカが悪い事するのが嫌で、嘘ついちゃった』
そのメールの文面を読んで、もし逆だったらと想像してみた。
私が何かの事情でどうしようもなく落ち込んでいて、それを知ったメイが私のために学校をエスケープして私に会いに来てくれたとしたら。嬉しい。
でもそれ以上に申し訳ない。
自分なんかのために、メイが親や教師に怒られるようなことになったら、きっと泣くほど後悔するだろう。
私が今していることは、そういうことなんだ。
だからといって、引き返そうなんて思わない。
だって、本心では来て欲しいと思っていることが分かるから。
どちらにしようか悩んでしまうような場面だったら、私たちはきっと一緒にいるべきだ。
臆病で、でも繋がりが欲しくて、器用になんかなれない。
ちょっとくらい無理したっていいじゃないか。
だって、そばに居たいんだから。
『悪い子だね。めっ!……なんて、学校サボった私もだけど!』
おどけたメールを送り返して、メイが少しでも笑ってくれるといいなと思った。
突然、電車が急ブレーキをかけた。
荷物と一緒に座席から放り出されそうになって、手すりを掴んでなんとか踏ん張った。
「えー、お客様にお知らせいたします。ただいま、車体が通常とは異なる振動を検知したため、緊急停車致しました。車両の点検を行いますので、そのまま少々お待ち下さい」
乗客が二、三人しかいないせいか、車掌さんの放送の声はあからさまにやる気が無い。
車両の古さは見ての通りだけに、しょうがないでしょとでも言いたげだ。
よりにもよって、なんだってこんなときに……!
車掌は無線機でどこかに報告を行った後、回覧板のようなものを取り出して何やら書き込む。
それから運転室から線路に降りて、車両の周りをぐるぐると回り始めた。
どうもすぐには復旧しなさそうな雰囲気だ。
私は矢も盾もたまらず、窓を開けて車掌さんに叫んだ。
「あの!どれくらいで動き出しそうですか?!」
レールの傍らにしゃがみこんでいた車掌さんは億劫そうに立ち上がり、腰を伸ばしながら何やらぼそぼそと答える。
「まだ何とも言えない」とか、そんな感じの内容だった。
「急いでるんです!早くなんとかして下さい!」
今度は、車掌さんは何も言わずに、車両の後ろの方に歩いて行ってしまった。
……へぇ。無視。
そういうことするんだ。
私の額の右上辺りで、カチン、という音が鳴った気がした。
私は荷物を背負い直すと、車両の反対側の窓を確認する。
古い車両なので、かなり大きく窓が開ける。全開にし、おもむろに足を上げる。
後ろの方に座っていたおばあさんがぎょっとした顔をしていたが見なかったことにする。
まず窓枠に外向きに腰掛けてから、えいっという気合いとともに車両から外へ飛び降りた。
想像より着地の衝撃が強くて軽く尻餅をついたが、すぐに立ち上がってそろそろと歩き出した。
下り電車が来たら大変だが、そこは一時間に二本の路線だ。
近くにあった踏切から、何食わぬ顔で線路沿いの道路に戻った。
我ながらとんでもないことをしていると思うが、別に誰に迷惑をかけたわけでもない。
大体、いつ終わるともしれない車両の不具合対応の間、どうしてあの中で待っていないといけないのか。
私にはそんな余裕なんかない。
メイが私を待ってるんだから。
麻生駅を出てから十分くらいは来ているので、もう大した距離ではないだろう。
私は線路沿いの道を薊橋駅目指して走り出した。
数メートル進んだ辺りで、頬にぽつりと、雫がぶつかった。まさか……。
ぱらぱらと降り始める雨。
まるで私が外に出るのを待っていたかのようなタイミングだった。
ああそう、上等じゃないか。
邪魔が入るほど胸の中で燃え上がるものを感じる。
服が濡れるくらいなんだっていうんだ。
幸いギターケースは防滴加工だ。
学校のカバンは……どうにでもなれ。
息を切らして駆け続ける。全身にぶつかる雨粒。
薊橋の駅舎はまだ見えてこない。
見晴らしのいい田園風景だけが眼前に広がっている。
負けるもんか。
何キロだって完走してやる。
オレンジジュース一杯分のカロリーを使い果たしても、自分の体力とは別のところからエネルギーが湧いてきて、私の足を前へ前へと推し進める。
辛くも苦しくもない。もうすぐメイに会えるんだから。
やがて、ステーションインという看板のついたビルが見えてきた。
濡れた制服がずしりと重い。
靴の中の水ががぼがぼと鳴って気持ち悪い。
途中、点検を終えたらしい電車が私に追いついてきて並走を始めた。
こうなるともう意地で、この電車の乗客より一秒でも早く駅にたどり着いてやらなきゃ気が済まない。
駅が近づくほど減速する車両。
逆に加速する私。
見なさい。私の勝ち!
のろのろとドアを開くオンボロ車両に向けて内心舌を出しながら、私はホテルの軒下に飛び込んだ。
肩で息をしながら、全身の水気を払って落とす。
幸いカウンターより手前にエレベーターがあったので、従業員に見咎められずに乗り込むことができた。
膝に両手をついて息を整える。
三階にたどり着く前に、びしょ濡れの髪を軽く整えた。
ちん、と音がなってエレベーターが開く。
大げさな赤いカーペットが敷かれた廊下を進んで、お目当ての部屋を探す。
302、302……。あった!
私は逸る気持ちを抑え、インターホンのボタンを押す。
ピンポーン、という音が鳴り終わる前に、勢いよくドアが開いた。
黒いジャージ姿のメイはびしょ濡れの私を見て、驚いたように息を飲んだ。
私は一秒でも早く安心して欲しくて、それ以上にメイの顔が見られたのが嬉しくて、にっこり笑った。
「お待たせ、メイ!」




