25.ヒロカ
次の朝、スマホのアラームで目覚めたのはいつもより十分遅い時間だった。
二回めのスヌーズまで気づかずに眠りこけていた。
昨夜の無理がたたっているようで、まだ酷く眠い。
ボーっとする頭で携帯のアラームをoffにしてから、昨日のメイのメールに返事をしていなかったことを思い出して青くなった。
眠気がどこかに吹き飛ぶ。
しまった。歌詞のことで頭がいっぱいになっていた。
あの内容をスルーは絶対にまずい。私はメールアプリを立ち上げ、取り急ぎ一通送信した。
『返事してなくてごめん!メイ、大丈夫?』
あまり具体的なことには言及せず、それだけ聞いてみる。
電車通学の彼女は私よりも早くに起きて登校の準備を始めているはずだ。
画面を気にしながら、朝の支度を急いで終わらせる。
今日も朝食を摂る余裕はなかったので、オレンジジュースだけ一気飲みして歯を磨き、鞄とギターを両肩に引っ掛けて家を出た。
日ごとに冷たくなる朝の空気に首を縮こまらせながら歩く。
空は薄灰色の雲に包まれて、なんだか息が詰まりそうな天気だった。
メイからの返信はまだない。
商店街を早足で進み、ショートカットになる公園の中を歩いている時に、メールの受信音が鳴った。
私は慌てて画面を確認する。
『ごめん、ヒロカ。私今日、学校休むね』
私はピタリと足を止めた。
休む?どうして?
やっぱり昨日様子が変だったのは、何かあったから?
頭の中に色々な可能性が浮かんでは消える。
私が何かまずいことをしたのだろうか?
その不安が、胃の下あたりに重石としてぶら下がる。
簡素な文面は、追及されることを拒否しているように見える。
それでも聞かずにはいられなかった。
『どうしたの!?体調悪い?心配だよ……』
返事は来るだろうか?
返信した瞬間から、私は画面から目が離せなくなっていた。
心臓を握り締められているかのような圧迫感。
生まれて初めてのその感覚は、私がどれだけメイのことを大切に思っているかを自覚させてくれた。
メイに会いたい。
会って何があったのかを確かめたい。
ただの風邪か何かで、なんだ、と安心できたらどんなに楽になるだろうか。
あんなに強くてしっかりしているメイが理由も言えないなんて、きっとただ事じゃない。
もし私が何か、メイを傷つけるようなことをしてしまったんだとしたら、許してもらえるまで謝らなければ。
私に関係ないことだったとしても、何かできることをしたい。
いや、しなければ。メイは私を助けてくれた。
私はメイに、まだ何もしてあげられてないじゃないか。
私は学校に向けて走り出す。
いくつもの背中を追い抜いて、校門をくぐる。
目指すのは教室ではなく職員室だ。
カバンとギターを昇降口の隅に隠して、上靴を履きつぶしたまま二階へ上がる。
深呼吸をして強引に呼吸を整える。
額に汗が浮かんでいたが、逆に好都合かもしれない。
私はお腹を押さえて前傾姿勢をとり、苦しそうな表情を作って職員室に入った。
担任の吉岡先生の席は入口のすぐ近くだ。
「紺野、おはよう。どうした?」
白衣姿の吉岡先生が、こちらに気づいて先に声をかけてくれた。
「あの、すみません、学校に着いてから突然お腹が痛くなって……。少し熱もあるようなので、来たばかりなんですが、早退させて欲しくて……」
不安が渦巻くお腹は、本当にシクシクと痛む気がする。そのおかげか吉岡先生はすぐに騙されてくれた。
「おー、大丈夫か?保健室で休んでてもいいぞ?ご両親に迎えに来てもらうか?」
「あ、いえ、家はすぐそこですので、大丈夫です。すみません……」
「そうか?じゃあ、気をつけてな。途中何かあったらお家に電話しろよ?」
「はい、分かりました」
私は一礼してよろよろと職員室を出る。
ドアをぴしゃりと閉じると、前傾姿勢をやめ、すぐに走り出す。
荷物を回収して校舎を後にする。走っている姿を職員室の窓から見られると面倒なので、遠回りになるが裏門から出ることにする。
駅に向けて走りながら、電話帳アプリを起動してメイの電話番号を表示する。
思えば電話をかけるのは初めてだ。少し緊張しながら、番号をタップした。
ぷっ、ぷっ、ぷっという音の後に呼び出し音が鳴る。コール音が三回、四回、五回……。
「お願い、出て。メイ……」
七回目のコール音が中程で途切れる。繋がった!
「……もしもし?」
少し弱々しいメイの声。それが聞けただけでなんだか鼻の奥がつんと痛くなるような気がした。
「メイ?もしもし?大丈夫?!」
荷物を抱えて走りながら、私はほとんど叫ぶように言った。
「あの、ヒロカ……。ごめん、心配かけちゃって……」
「うぅん!メイ、いま家にいる?私、今から行くから!」
「え?!来るって……今から?でも、学校は?」
「いいの!!駅、どこだっけ?上り方面だよね?!
「待って!ヒロカ!」
電話の向こうから、強い口調でメイが私を呼んだ。
「……メイ?」
私はカラオケ店の前で立ち止まって、メイの次の言葉を待った。
「駄目だよ、学校、さぼったりしないで」
「でも……」
「私は大丈夫だから。少し、体調が悪いだけだから」
尻窄まりなメイの声。彼女らしくない、消え入りそうな言葉。
胸が苦しい。どうしてそんなことを言うんだろう。
「……嘘だよ」
「……嘘なんかじゃ……」
「嘘だよ!私に分からないと思うの!?」
自分でも驚くような大声が出た。
電話口のメイが息を飲んだのが聞こえた。
「ねえ、メイ。わがままなこと言うけど、何があったのか聞かせて。もしどうしても言えないことなら、せめてそばにいさせて。いますぐメイのところに行きたいの。どこにいるか教えて!じゃないと、私ずっとメイのこと探すよ。どこにいるかわかんないけど、見つけるまで止めたりしないから」
我ながらメチャクチャだ。これじゃ自分を人質にして脅迫しているようなものだ。
「お願い、メイ。メイが一人で辛い思いしてるなんて耐えられないの。私、頼りないかもしれないけど、出来ることなら何でもするよ」
必死に呼びかける声とは裏腹に、指先はひどく震えていた。
もし拒絶されたら?返答の代わりに、この電話を切られてしまったら?
そんな不安を打ち消すように、更に言葉を重ねる。
「もしかして、私メイに嫌な思いさせるようなことしちゃってたかな……?もしそうだったら、怒ってよ。謝らせて。私だって、メイがいなくなっちゃったら、どうしていいのかわかんないんだ。私……メイ……」
昨日の朝と逆だ。
でも私はメイほど強くなくて、途中から言葉が出なくなってしまった。
懇願するように、私はメイの名前を呼び続けた。
「ヒロカ……。泣かないで」
穏やかな声が、私の名前を呼ぶのが聞こえた。
これじゃ立場が逆だ。まるで私が慰められているみたいだった。
「メイ……」
「薊橋駅。駅前のホテルの302号室。待ってても、いい?」
私は締め付けられる喉を何とか開いて、私はもう一度メイの名前を呼んだ。
「メイ……待ってて。すぐに行くから」




