23.メイ
その日の六時限目はロングホームルームだった。
文化祭の準備が本格的に始まるようで、クラスの出し物を決めることになった。
喫茶店やお化け屋敷といった定番が候補に上がるが、みんななんとなく挙げてみたという程度なので決め手に欠ける。
あまり強く主張すると仕切り役を押し付けられかねないため、みんな消極的になっていた。
クラス全体で決め事をする時の常で、なんとなく牽制し合うような空気が流れる。
私の苦手な雰囲気だった。
学級委員が今日壇上を右往左往する。
「ただの喫茶店じゃつまんなくない?」
「じゃあどうすんの?」
「メイドさんとか」
「うわー、ベタ。誰がメイド?」
「女子選抜。選抜作業で揉めるか」
「男子は何するの?裏方?なんか不公平じゃない?」
「喫茶店って長居されると面倒らしいよ」
「じゃあ、ほんとにお祭りっぽく、テキ屋とか並べてみる?」
「あ、いいかも。射的とか金魚すくいとか」
「生き物ってダメなんじゃなかった?あと銃なんて用意できる?」
「あ、じゃあ、カラオケ喫茶とかどう?ゲーム機のカラオケ入れて、お客さんに歌ってもらうの!採点して景品出したりして!」
「あー、なんか楽しそうだけど、ハードル高いね。お客さん歌ってくんないかもよ」
「クラスの誰かがサクラになって歌ってれば、みんな参加してくれるって」
「誰かって。矢島お前歌う?」
「絶対ヤダ」
「なんだよー、言い出しっぺだろー」
候補が挙がり、深掘りし始めると問題に直面して別の候補に話が逸れる、その繰り返しだった。
時間がもったいない。
こんなことをしているくらいなら、ヒロカと練習がしたい。
私はルーズリーフを取り出して、バンド名のヒントになりそうな単語を列挙してみることにした。
思いつくままに、すらすらとペンを走らせる。
やり始めてみて、まるで心理テストのようだと思った。
自分の頭の中に浮かぶ文字をそのまま書き記していくと、自分でも自覚していなかったような無意識から、様々な言葉が溢れ出てくる。
クラスの皆が話す声が、スローモーション動画の低くくぐもった音声のように聞こえる。
表面だけでは収まりきらず、裏返して書き続ける。
「あ、それだったら、冴木さんとか」
突然名前が挙がって、私は我に返った。
慌ててルーズリーフを畳み、机の中に放り込む。
何の話だっただろうか。カラオケ?
……高橋君、まさか。
「冴木さん、バントバトルにボーカルで出るんだって!適任じゃない?」
クラスの視線が窓際の後ろ、私の方に集中する。
私は血の気が引いた。
「こらこら、一人に押し付けるのはナシ。冴木だけに頼るなー」
学級委員に進行を任せていた武井先生が七三頭をかきあげながら注意した。
「でもみんな普通にカラオケとか行くだろ?歌うの好きじゃないの?」
「そりゃ、友達とならいいけど、文化祭だと全然知らない人とかもいるんでしょー?」
「人様に聞かせるってなると、ちょっとねぇ。あんまり下手くそじゃ客寄せにもなんないし」
「そのへん、バンドやってる人なら大丈夫だろうし……。冴木さん、どうかな?」
高橋君は悪意のない笑顔で聞いてくる。
こんなことならバンドバトルの話は明日まで待っておくべきだった。
「ほら、多分最初だけだって!後はお客さんも入ってくれるだろうし!」
「冴木さん、度胸ありそうだし、ね」
高橋君と矢島君が畳み掛けてくる。
本間先生とのあの一件のことを言っているのだろうが、まさかこんな形で返ってくるとは……。
なんとなく、私がみんなに向けて放った言葉に対する仕返しを受けているように感じた。
一人一人にその気はなくても、集団としての総意を束ねて向けられる側からはそうとしか思えなかった。
臨時学年集会の時と同じ憤りが私の中に湧き上がっていた。
「いいですよ。歌っても」
自分が思うよりもはっきりした声で私は言い切った。
おー、という歓声が上がる。その時点でうちのクラスの出し物は決まったようなものだった。
「ただ、同じ人が何度も歌ってたらおかしいだろうから、私の後が必要な場合は、矢島君、その次は高橋君が歌ってね」
げ、と呻く二人。
でも心底嫌そうではない。
案外歌ってもいいという人はいっぱいいるのではないだろうか。
でも自分から手はあげない。
歌うしかないという状況になるまでは黙っている。
どうして集団になると、やってみたいことも言えなくなってしまうのだろうか。
「さいきさん、かっこいい!」
前原さんが囃し立てる。私は肩を竦めて見せた。
私がバントバトルでやろうとしていることは、こういうしがらみに対する決別を宣言することなのかもしれない。
それなら前哨戦にちょうどいい。
私にはヒロカが大好きだと言ってくれた歌がある。
『その気になればブルースだって歌ってやる』。
「へー!カラオケ喫茶!面白そうだね」
放課後、私とヒロカは四階の空き教室でこっそり練習をすることにした。
喉のこともあるので本気で歌いはしないし、ヒロカもアンプ無しで『Yesterday Once More』の伴奏練習のみにするらしい。
ヒロカは教室の後ろに雑然と積まれていた椅子を一つ窓際に移動させて、腰掛けて弾いている。
アルペジオの伴奏はストローク中心の演奏よりも立ってやるのが難しいらしく、本番でも椅子を用意できるか高橋くんに相談しようということになった。
「ヒロカのクラスは、何やるの?」
全身の柔軟を続けながら、私は聞く。
「それがね、A組の田岡君の実家、アーケード街のあの和菓子屋さんなんだって!だからお菓子提供してもらって、甘味処をやることになったの」
「A組も飲食系なんだね。お客さん取り合いになっちゃわないかな?」
「方向性が違うから大丈夫じゃない?そっちはカラオケがメインっぽいもんね」
話しながらも、ヒロカの右手はサウンドホールの上で複雑な動作を繰り返している。
歌い出したいのを我慢して、私はアキレス腱を伸ばす。
「歌うとしたら、どんな歌がいいのかな?」
「うーーーん、本番で歌うやつはとっときたいよね。私もあんまり最新の曲って聞かないから、どういうのが受けるのか分からないなぁ」
ヒロカがそれだと、彼女のお勧めしか知らない私はもっと頼りない。
誰でも知っていて、景気付けになるような曲……。何かないだろうか?
なんだか本番の演奏以外のことで頭を悩ませてばかりのような気がする。
早く、何も気にしないで思い切り歌いたい。
「何を歌うにしても、見に行くからね。決めてきちゃって!バンドバトルの宣伝になるように!」
ヒロカに言われると、俄然気合が入ってしまう。
ヒロカのパートナーとして、半端な歌は歌えない。
私はストレッチに力が入るのを感じた。
伴奏をしながら、上のハモリパートを歌うヒロカの歌声。
私のパートよりもずっと高い音程なのに至って楽しそうに発声している。
甘い声、綺麗な発音、聞いていると喉がウズウズしてくる。
秋の優しい日差しが窓から降り注いで、床に四つの平行四辺形の日向を作る。
ヒロカの髪の色がいつもより明るく、金髪のように輝いて見える。
舞い上がる埃の粒さえ、キラキラと光を反射してヒロカの周りを飾る宝石のように見えた。
「ねえ、ヒロカ?」
「んー?」
「ちょっと、こっち向いて」
「え?」
きょとんとした顔が私を見る。
日差しの中で見る彼女の目は、少し緑がかった金色に見える。
「あのね、ヒロカの目って、凄く不思議な色で綺麗」
「……なに、急に?」
「前から思ってたの。光の加減で金色みたいに見える。虹彩っていうの?瞳の周りがグラデーションになってるよね」
「えへへ、本当は、お母さんと同じ青い目が良かったんだけどね。この色は、ヘーゼルっていうんだよ」
少し誇らしげに、両目を見開いてみせるヒロカ。
私にとって初めての親友が、こんな特別な色合いを湛えた目を持っている。
思えば彼女との関係の発端は、この目の色だった。
人の生まれや人種について貴賎があるなんて思いはしないけど、これは今まで私が得られなかった幸運に対する埋め合わせなんじゃないだろうかと思ってしまった。
神様が与えてくれた、特別な宝物。
何か今、バンド名のヒントを掴んだ気がした。
今日帰ったら、もう一度よく考えてみよう。
思いつく限りの体中の筋を伸ばし終えてしまったので、引き続き呼吸のトレーニングをする。
伴奏をよく聞いておくことも重要だろう。
頭の中で歌うイメトレをしながら、私は指に息を吹きかける。
始めたばかりの頃よりも吐き出せる息の量が増えた気がする。
僅かな変化でも歌唱力の向上に繋がるなら嬉しい成長だ。
ヒロカのギターを聞きながら、ひたすら呼吸に集中する時間。
たまにヒロカをちらりとみると、彼女は決まってにこっと笑ってくれる。
この瞬間だけは、私は心穏やかでいられる。
「あれ、紺野じゃん」
突然、私達の時間に水を指すように、廊下から女子生徒の声が聞こえた。
放課後とはいえこんな校舎の隅の空き教室の前を通りがかる生徒は少ないはずなのに。
「あ、神山先輩。どうしたんですか、こんなところで」
ヒロカが返答すると教壇側の入り口から神山と呼ばれた女生徒が入ってきた。
シャギーの入ったセミロングの髪と日焼けした肌。
どことなく軽薄そうと感じるのは、リボンをしていないブレザーや膝上十五センチのミニスカートのせいだろう。
「文化祭の実行委員ってやつで、いろいろ面倒事。演劇部の小道具に使えそうなもんとか、かたっぱしから集めてんの」
「先輩、そういう仕事やるの、相変わらず好きなんですね」
「好きとかじゃないよ。なんか押し付けられちゃってさ、アタシ良い人だから断れないの」
しし、と歯を見せて笑う神山という先輩。
上靴の色から二年生だと分かった。
「メイ、この人は神山結子先輩。私と同じ中学で、中学時代に生徒会で一緒だったの」
私はとりあえず会釈してみるが、神山先輩はちらりと一瞥をくれただけだった。
「っていうかなにそれ、紺野ってギター弾けたの?」
「高校入ってから始めたんです。今は軽音部に入ってて……」
「へー!あの真面目な書記さんが、ギター!高校デビューってやつ?」
「まあ、そんな感じです」
ヒロカは頬を掻きながら答える。照れ笑いというよりは、愛想笑いといった感じだ。
「じゃあ、紺野もバンドバトル出るの?」
「え?はい、出るつもりですけど……”も”っていうのは?」
神山先輩は濃い目のチークを塗った顔をだらしなく歪めながら笑う。
「アタシのカレシも出るんだ。ギターやるんだって」
「そうなんですか。神山先輩の彼氏も、軽音部なんですか?」
「うん、部長の安藤。知ってるでしょ?」
「あー、いえ、まだ出来たばかりの部なんで、まだ部員の名前と顔が一致しなくて……」
軽音部の部長。一度も会ったことはないが、良い印象は無かった。創部早々問題を起こすような集団というイメージと、高橋くんから聞いた話も影響しているだろう。軽音部の部長が自分の”カレシ”だと誇らしげなこの先輩の話し方も、あまり好きにはなれなかった。
「ねぇ、なんか弾いてみてよ」
なんとも投げやりな口調で、神山先輩はヒロカにリクエストする。
「えと、ごめんなさい、先輩。今、メイと一緒に練習中で……」
「いいよいいよ、練習中のやつでも」
軽音部部長の彼女の自分が聞いてやる、とでも言いたいのだろうか?
せっかくヒロカと二人でいたのに。私ははっきりと自分の苛立ちを自覚した。
「それが……えーっと……」
「すみません、私今喉を痛めてしまっているので、とても地味な練習をしてるところなんです。きっと見ていただいても退屈なだけですよ」
私が口を挟むと、神山先輩は少し黙った後、
「ふーん、あ、そ」
と白けた様子で踵を返した。
そのまま、無言で教室を出て行ってしまった。
残されたのは私達二人と、微妙な空気。
「……中学の時は、副会長をやるくらい真面目な人だったんだけどね。実はその時からちょっと苦手だったんだ」
「分かる気がする」
「全然悪い人ではないんだけどね」
「ごめん、ヒロカ。私、感じ悪かったかも……」
練習時間に邪魔をされたくなくて、無意識に言葉が刺々しくなっていたような気がする。
「うぅん、いいんだ。今は集中して練習しないとね」
演奏を続けるヒロカ。
小さな手が弦を爪弾いて、ボディ内の空洞で反響した音が教室内に広がる。
アンプを通さない生の音は、暖かくて優しい。
ヒロカが奏でる旋律。
油断すると聞き入ってしまいそうになる。
「……ねえ、ヒロカ。すっごく、勝手なお願いしても良い?」
「え?なになに?」
「……一曲だけ、ヒロカの歌って聞かせてくれない?」
さっき練習しないといけないとヒロカが言ったのに。
ヒロカの先輩に聞かせてくれと頼まれて、私自身が断ったのに。
私はそんなことを口走っていた。
少しだけきょとんとしたヒロカだったが、すぐに最高の、満面の笑みを浮かべてくれた。
それだけで返事がなくても分かる。私は、自分が特別なんだと実感できる。
何だろう?最近、やたらと身勝手で歪んだ気持ちに衝き動かされる気がする。
私は小さな罪悪感を無視して、椅子をもう一つ持ってきて向かい合うように置いて座った。
私の違和感を他所に、じゃらん、と綺麗なコードを弾いて、ヒロカは椅子に浅く座り直して構え、小さく咳払いをした。
「何かリクエストはありますか、お客様?」
「……じゃあ、ゆっくりな、ラブソングを」
「畏まりました!」
ヒロカはギターのソフトケースからカポタストを取り出して、第三フレットにはめる。
静かなストロークのイントロから始まって、低めに抑えた声が歌い始める。
『歌うたいのバラッド』。王道的なラブバラードだ。
好きな人を想う気持ちが、照れくさくなるほどストレートな歌詞で描かれた名曲で、もちろん私のスマホに入っている。
お気に入りの星マークも付いている。
ヒロカは目を閉じて、原曲よりも少しゆっくりしたテンポで歌い上げていく。
この曲をすぐに思いついて歌ってくれるヒロカを、今すぐ抱きしめたいような気持ちだった。
滑らかで規則正しいストロークの伴奏と、甘い発音の歌声。
聞いていると、自分の思いがどんどん歌詞に重なっていって、胸の中がじんと熱くなる。
ワンコーラス終わって、間奏を奏でるヒロカと目が合う。
照れたように細められた目が、私を見ている。
宝石のような、二つのヘーゼルの輝き。私は胸の中心を射抜かれたような衝撃を感じた。
自分の心臓が跳ねただけだと気づくまでに、たっぷり五秒はかかった。
――ああ、そうか。
私はヒロカのことが好きなんだ。
友達でも親友でも音楽のパートナーとしてでもなく、もっと特別な感情をいつの間にか抱いていたんだ。
じゃなければ、無意識にラブソングをリクエストなんてしないし、その歌詞に感情がリンクしたりなんかしない。
私は、ヒロカが好き。
好きということは、大切に想うこと、失いたくないと思うこと、そして何より、誰にも渡したくないと思うこと。
ヒロカを独り占めしたい欲求。
自分を特別に扱ってくれることが何より心地いい。
自分だけを見ていて欲しい。
他人に笑いかけてほしくない。
その身勝手な欲求は、底を見せないどころか日を負うごとに強まってさえいる。
自覚してすぐ、今までの自分の不条理な振る舞いや感情の矛盾に納得がいった。
同時に自己嫌悪が、真水にどぼどぼと墨を垂らしたように広がっていった。
私は、満たされない自分を慰めてくれる存在に依存するあまり、自分の性別さえも忘れてしまったのだろうか。
綺麗な声。綺麗な音。最高に綺麗なメロディ。
私一人に向けられたその演奏が、突然私を避けて通り過ぎていくような錯覚を覚えた。
こんなに無垢に輝く、透き通る好意の洪水の中に、私という黒い異物は沈んでいく。
どこまでも、どこまでも。
歌い終えたヒロカは、立ち上がっていつかと同じようにお辞儀をした。
私も立ち上がり、震え出しそうになる膝を悟られないように歯を食いしばりながら拍手した。
「……私、もっと頑張らなきゃ」
声が上擦らないように全神経を集中したつもりだったが、上手く行った自信はなかった。
「今のままじゃ、ヒロカ一人の演奏に勝てないや。私がもっと上手く歌えないと、いる意味がなくなっちゃう」
「え?メイ?」
「私ね、ランニング始めようと思うんだ。歌のための肺活量とか筋肉を鍛えるのにいいみたいだから。それで、ジャージとか靴とか揃えておかなきゃって思って」
一気にまくしたてて、私はヒロカに背を向けた。
「すぐ行って、買ってくるね。ごめんね、急で」
「メイ?どうしたの?……待ってよ、私も」
「ごめん」
自分の胸の一部を引きちぎるような思いで、私はヒロカの声を遮った。
不自然さを取り繕うこともできないまま、私は駆け出していた。
校舎の階段を駆け下りて、昇降口で靴を履き替える。
ローファーの踵を履きつぶしてそのまま走る。
急ぐ意識とは裏腹に、両足がなかなか前に出ない。
まるで水中を走っているようだ。やっとの思いで校門を出て、とにかく人のいないところを目指した。
全力疾走を続けているとすぐに気管と肺が締め付けられるように苦しくなった。
心因的なものなのか、それとも私の体が貧弱すぎるのか。息切れする自分の吐息が疎ましい。
こんな体たらくで何がボーカルだ。
ヒロカは、あんなに一生懸命ギターの練習をして、しかもあんなに素敵な歌を歌えるのに。
私は、何なんだ。何をやってるんだ。
気が付くと、私は高架下の広場にたどり着いていた。
誰も居ないところといえば、真っ先にここが思いついたのだろう。
高架の柱に背中をもたれかけて、荒い息をつく。汗で顔に張り付く髪が鬱陶しい。
膝に力が入らなくなって、そのままずるずると座り込んでしまった。
何かから身を隠すように縮こまり、両手で顔を覆う。
ヒロカは私の言動を怪訝に思っただろう。
ヒロカを無視した。待ってと言ってくれたのに。
必死に今まで取り繕ってきたのに。
嫌われたくなくて、変だと思われたくなくて、褒めて欲しくて。
なんて幼稚な欲求だろう。
ついさっきまで、自分が歌うことで周囲を劇的に変えられると思い込んでいた。
自分の感情を乗せた歌声なら、私をこんな卑屈な存在にしてしまった何かに立ち向かえると思っていた。
でもその感情の発端は、ヒロカにもっと自分を見て欲しい、構って欲しいと思う歪んだ慕情でしかなかった。
どんなに正当化して格好をつけてみても、私は変われてなどいなかった。
昨日の朝も、きっと私は無意識のままヒロカを抱きすくめて、身勝手な想いのままに彼女を……。
「……っ、はっ……あはははははははっ」
その奇怪で醜悪な笑い声は、私の喉から漏れだしていた。
なんて汚い声だろう。
どうしようもない。
自分でも救いようがないと思う。
私がヒロカを好きになって、それでどうしようと言うのか。
どんなに素晴らしい経験を共有したとしても、いつか彼女も誰かを好きになって、誰かと結ばれて……。
想像するだけでこんな、重油のような感情が渦巻くというのに、本当にそうなった時に私は何をしでかすのだろう。
そうなる前に、私はヒロカの前から消えなくては。
父に言って、別の学校に……むしろもう学校自体無理して通い続ける必要もないかもしれない。
どこに放り込んでみても、こんなにも性根が歪んだ人間の居場所なんて、世の中にはない。
きっと私の願いはこれからも、ことごとく最悪の形で裏切られ続けるに違いないのだから。
私を溺愛していた父が豹変した時も、唯一の心の拠り所だった母が蒸発した時もそうだった。
諦めよう。
過去と同じように、それでもなんとかやっていくことはできるだろう。
今の父にせめて迷惑をかけないように、どんな形でも自立して彼の庇護下を出ていこう。
皆が私のことを忘れてくれれば、その後、やっと自由になれる。




