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Whatever  作者: けいぞう
21/78

21.ヒロカ


 左手に触りなれない感触がある。

 つやつやしてコシのある、自分のそれとは全く違う、長い三つ編みの髪の触感。

 昔母のストレートヘアを羨ましがって、何度も編ませてもらったのを思い出した。

 その髪の持ち主が母ではなくメイだと気づくまでに少し時間がかかった。

 そうか、メイに泊まってもらったんだった。 


 時刻は六時。

 早めに寝付いたせいかいつもより早くに目が覚めた。

 目を開いて最初に視界に入ったのは、メイの無防備な寝顔だった。

 私の方に体を向けて寝ていたことがちょっと嬉しかった。

 膝を抱えるように丸まって、すうすうと静かな寝息を立てている。

 私は持ち主が眠っているのをいいことに、三つ編みをそっと掴んだ。

 癖の全くない見事な直毛が、窓から射す微かな朝日を反射する。

 その艶めきがあまりに綺麗で、作り物にさえ見えてしまう。

 頬ずりをしてメイの髪の匂いを嗅ぎたい。

 そんな欲求を気持ち悪いとは思わなかった。

 こんなに綺麗で素敵なものなら、誰だってそうしたくなるだろうと思ってしまった。

 だから素直に欲求に従おうとした。 


 が、三つ編みに顔を近づけかけたところでメイの目がパチリと開いた。 


「あ……おはよ」

「ん……」


 私はさりげなく髪を離した。 もう少し早く目を覚ましていれば……。

 残念。 


「よく眠れた?」

「うん、大丈夫……」


 ゆっくりと体を起こしたメイの表情は、返答とは裏腹にひどく眠たそうである。

 左目を擦る仕草が、毛繕いをする黒猫を思わせた。

 今度はメイ本人に抱きついて頬ずりしたくなる衝動に耐える羽目になった。

 これも、私に変な趣味があるわけではなくて、メイのすらりとした四肢や、上品なのに少し隙のある仕草がそうさせるに違いない。 


「メイ、もう少し寝てても大丈夫だよ。まだ六時だし、うちはみんな八時くらいにならないと起き出さないし」


 それを聞いたか聞いていないか、メイは体育座りの姿勢から自分の両膝に頭を乗せたまま動かなくなった。

 本当に猫みたいに体が柔らかい。 


「ほら、寝るんならちゃんと横になって、お布団かけないと」


 私はメイの肩を抱いて布団に寝かせようとする。

 非力な私では彼女の上半身をうまく支えきれなくて、ほとんど一緒に倒れこむようにして二人で布団に横たわった。 


「……」


 髪の匂いどころか、メイの胸元から漂う芳香さえ嗅ぎ取れてしまう距離。

 ばくんと跳ねる心臓。

 これは……ラッキーというか……かなりやばい。

 幸いなことにメイは目をさます様子はない。

 幸い?いやいや、まずい、なぜこんなにドキドキするのか。 私、まさか……。 


 頭の中で頼子さんが私をからかった言葉が蘇る。

 颯爽と現れて私を助けて、連れ去ってくれたメイの凛々しい姿と、目の前の無防備すぎる寝顔が私の頭と胸を埋め尽くす。

 少女漫画だったらキュンって音が私の頭上に浮かんでいるかもしれない。 


「メ、メイ?私も一緒に寝てもいい?」


 小さな声で一応許可を求める。

 当然返事はない。 


「い、いいよね?寝ちゃうからねー」


 ゆっくりと、メイの胸元に頭を寄せる。

 メイの腕枕……。

 側頭部がそこに着地する寸前、メイの両腕が私の頭をぎゅっと抱き寄せた。 


「……っ!?」


 寝ぼけてぬいぐるみか何かと間違えているのか、私の頭を抱え込んで鼻先を擦り付けてくる。

 私の硬直した体がみるみるうちに熱を帯びて、顔が真っ赤に染まっていくのを自覚した。

 頬に当たる柔らかな二つの膨らみ。

 それが何か分かった時、頭の中でボンッと音がした気がした。

 きっと私の顔はエレアコのボディよりも真っ赤に違いない。

 駄目だ、これ以上は……後戻りできなくなるかもしれない。

 まずい、やばい、呼吸が止まっている。

 ていうか、息ができない。 


「め、メイ……。ちょっと、あの……」


 しゃべろうとするも、鼻と口が塞がれていてもごもごとしか声にならない。

 なんとか頭をずらして酸素を補給すると、甘い香りが一緒に脳天に直撃する。

 もうダメだ。

 一気に全身の力が抜ける。

 骨抜きとはこのことだ。

 私が大人しくなったのをいいことに、メイは更に両腕の拘束を強くする。

 クールな普段の素振りからは考えられない、情熱的な抱擁。

 こんな風に抱かれたら、いよいよもうダメだ。

 ダメ?何が?私の理性とか常識?色々なものが粉々に砕かれて、私の中で再構成される。

 ここはもう布団の中ではない。

 もはやお花畑だ。

 蜜の香りがして、蝶が飛んで、鳥が歌う。

 背徳感は甘い甘いキャラメルの中の塩粒。

 こんな世界があるなんて。 


 お父さんお母さん、ごめんなさい。

 私はもう、帰れないところに来てしまいました……。 


 どれくらいそうしていたのか、メイの体がビクッと跳ねて、突然現実が戻ってきた。 


「ひ、ヒロカ……?」


 声をかけられても、顔なんてあげられるはずがない。

 どんな顔をすればいいのか、さっぱり分からない。

 出来るなら一生ここに顔を埋めていたい。 


「メイ……。私もうダメみたい」

「ええっ!?」


 メイの声が裏返る。

 頭上で私の顔を覗き込む気配がしたので、私は更に深くうつむいて防御体制をとる。 


「わ、私……何を……?」


 混乱するメイの顔は、きっと私とは正反対に真っ青なのだろう。

 その体はワナワナと震えんばかりだ。 


「……メイ?」

「は、はい!?」

「こんなこと、私、口にする日が来ると思ってなかったんだけど……」

「な、なに?」

「私もうお嫁にいけない……。……責任、とってくれる?」

「……せ……」


 メイもそんなことを言われる日が来るなんて思ってもいなかっただろう。

 剥製みたいにカチコチに固まって、完全に思考停止しているようだった。

 

 私は顔を見せないように少しずつメイの腕の間から這い出て、そのままころりと転がって背を向ける。


「メイは寝ぼけて覚えてないかもしれないけど、私、このこと多分一生忘れられない……。こんなの……もう、無理……」


 そのまま布団に顔を埋めてイヤイヤしてみるが、当然記憶がふるい落とせるはずはない。 


「ひ、ヒロカ!ごめんなさい……!私……なんてことを……!」

 

 背後でメイが跳ね起きて狼狽える気配がする。 


「なんてことっていうか、一体何を……?」

「……この上、私の口からそれを言わせるの?メイ、ドSだね……」

「ドエ……」


 また固まるメイ。

 そろそろ恥ずかしさよりも可笑しさの方が大きくなってきた。

 もう少ししたらなんとか笑ってごまかせそうだ。 


「……ごめんなさい!ヒロカ!」


 ごつんと鈍い音に驚いて振り返ると、なんと、メイは正座をして床に額を押し付け、いわゆる土下座の姿勢だった。

 明後日の方向に散らばる二本の三つ編みがその勢いを物語っていた。


「私、大切な友達に酷いことして、しかも覚えてないなんて……。なんてお詫びすればいいのか……。本当にごめんなさい。ヒロカ、私……ヒロカに嫌われたりしたら……私……」


 必死の口調が、最後の方は震えていた。

 まずい、ほかにやりようが思いつかなかったとはいえ、これはやりすぎだ。

 とはいえ、嘘だよ、なんともないよ、とは言い切れない。

 だってまだドキドキは静まる気配すらないのだ。 


「ヒロカ、お願い。なんでもする。すぐに許してなんて言わない。ヒロカが許してくれる気になるまで、何してもいい。私のこと無視しても構わないから……だから、お願い。置いていかないで!」


 その口調の切迫ぶりに、なんとなく恥ずかしいなんて言っていられない迫力を感じて私も体を起こした。 


「め、メイ、顔上げて?」


 今にも泣き出しそうな、すがりつくような表情のメイが私を見上げる。 


「ヒロカ……。顔が、真っ赤……。私、本当に一体何を……」

「あ、あのね、何て言っていいのかわからないんだけど、体は平気なの。うん、なんともなくて……」

「……体、は?」

「精神的な問題っていうか……目覚めてしまいそうだったっていうか……」


 モゴモゴ言う私を潤んだ瞳で見つめるメイ。

 私だって、こんなことでメイとの関係が微妙になってしまうのは嫌だ。

 こんな風にメイが必死に謝っているのを見るのも胸が痛い。 


「と、とりあえず、普通に座って、メイ。嫌いになったりしてないから」

「……本当?」

「ホントホント」


 頭を上げて、正座の姿勢になったメイの顔を直視しないように、私は明後日の方向を向いて続けた。

 

「わ、私は、大丈夫ってことにするから!大丈夫だから!」

「でも……!」

「でもはなし!……うん、大丈夫。なんともなくはないけど、嬉しくなかった訳でもないし……」

「……?」

「とにかく!許すとか許さないとかじゃないから、もう謝らないで!」

「……本当に、大丈夫なの?」

「うん、大丈夫!気の迷いって誰にでもあるでしょ?そういうのだと思うから、だから問題なし!」


 首を傾げるしかできないメイ。

 私は手のひらで顔を扇ぎながら、なんとかその顔を見ることができるようになったことに安心した。 


「はー。もう、鼻血が出ちゃうかと思った……」


 照れ笑いをしながら言うと、メイは更に深く首を傾げたが、はっとなって両手で私の肩を掴んできた。 


「私、ヒロカに乱暴したの?!そんな、鼻血が出るほど強く?」


 せっかく落ち着きかけていたのに、メイはまたごめんなさいモードに入ってしまった。 


「わーー!違う違う!ごめん、今のは私の失言!今のナシ!!ちょっ、は、離れて、メイ!」


 私も私で、まだちょっとアップになられると辛い。

 鎮火しかけたものがものすごい勢いで再燃しかける。


「二人とも、朝からどうしたの?喧嘩してるの?」


 騒ぎを聞きつけたお母さんがドアの向こうから声をかけてくれた。

 助かった。

 ナイスタイミングだ。 


「違うよ!大丈夫だから!気にしないで!」

「そう?もうすぐ朝ご飯できるから、起きてるなら出てきて食べちゃって」

「は、はーい!メイ、いこ!」


 半ば強引にメイを立たせて、背中を押して一階に下りることにした。

 メイはまだ訝しげなままだったが、私がいつも通りに振舞っているのを見るうちに安心したようだ。 

 漂う味噌汁の香りのおかげで、私が迷い込んだお花畑の記憶は少しだけ薄れてくれた。 


 出汁巻き卵、肉じゃが、辛子明太子、人参と大根の酢の物、なめこ汁と白いご飯。

 昨日の夜同様、頑ななまでに純和風なお膳を二人で平らげ、着替えて歯磨きと身支度を整えた。


 昨日と同じく高架下の広場で練習をすべく、ギターとキャリーを持って出かけることにする。

 朝の事件のことを頭の中から追い出すにはギターに熱中するのが一番だと思った。

 早く思いきりギターをかき鳴らしたい私の歩調は自然と早くなっていた。 


「あれ、ヒロカ。みて、これ」


 アーケード街のお花屋さんの前でメイにそう呼び止められて私は振り返る。

 まだちょっとだけ顔を直視するのはドキドキしてしまう。

 私は距離感が不自然にならないように気をつけながらメイが指差す先を見る。 


「ほら、これってうちの文化祭、だよね?」


 お花屋さんのショーウィンドウの端に、A4判サイズのポスターが貼られていた。

 麻生高校の校門を描いた版画を中心に、麻校祭の文字のレタリング、開催日とイベント情報などが印刷されている。

 

「ほんとだ!昨日まではこんなのなかったのに!多分生徒会か実行委員みたいな人達が商店街のお店に配って回ってるんだね」

「見て!イベント一覧の一番下!」


 私もほぼ同時にその内容を見つけていた。 

 そこにあったのは、“バンドバトル”の文字。 


「……これって、多分そういうことだよね……?」

「うん。そうだと思う」


 開催時間は午後一時から、場所は芸楽館裏特設ステージとあるだけだが、その内容は想像がつく。

 本当にあるかもわからないまま目標として定めた、私たちの本番。

 高校学祭の花形イベントだが、軽音部がなかった去年までは開催されていたか定かではない。

 だが、私たちにとって問題なのは今年、今回だ。

 手書きのイベント一覧の中で、その文字だけ気持ち大きく書かれているように見えた。 


「……メイ、行こう」

「うん」


 それ以上話す必要はなかった。

 私たちはさっきまでよりも早い歩調で、高架下広場に向けて歩き出した。 



 その日曜日は、昼食をとることも忘れて練習し続けた。

 本番の存在が私たちの集中力を高めてくれているのを感じた。

 夕方、西の空が茜色に染まり始める頃に、メイの喉が限界を迎えてその日の練習はお開きとなった。 


「無理しすぎもよくないもんね」

「うーん、なんかもどかしいな……」


 少しかすれかけた声でメイは悔しそうに言う。 私はかりんののど飴を袋ごと渡した。 


「明日は様子見て、それから火曜以降の練習どうするか決めよう?こっちはバッチリギターの練習しておくから」

「了解。私は喉は使わないでトレーニングしてることにするよ」


 帰り支度を始めると、なんだか少し寂しくなった。

 次一緒に練習できるのは一番早くても明後日か。

 苦手なリフの練習は一人で黙々とやったほうが上達が早いのは分かっているが、メイの歌声を乗せてもらえるのが一番の励みになる。

 今日だって、二人だからこうして時間を忘れていられた。

 逆にご褒美無しの練習はなかなかの苦行だ。

 サボるつもりなんかないが、出来れば早くメイに歌ってほしい。 


「ね、ヒロカ。明日文化祭のこと、先生か実行委員に聞いてみようね」

「ん?聞くって?」

「ほら、"バンドバトル"ってやつのエントリー」

「あー!そっか!そうだよね。募集の連絡とかまだ来てないよね?」

「……多分。でももし軽音部が中心になって開催してるとしたら気をつけなきゃ。あの人達勝手に色々決めちゃいそうだし」


 確かにその通りだ。

 どうして軽音楽をやる人間はああも排他的というか、付き合いづらい雰囲気なのだろうか?


 偏見かもしれないが、彼らは自分たちがカッコつけられればそれでよくて、その妨げになるものにはとことん冷淡で陰険な気がする。

 学校でわざわざタバコを吸ったり、機材を粗雑に扱ったり、正直全く何を考えているのかわからない。

 きっとギターをやっていなかったら一生関わり合いになることはない人達だ。 


「大丈夫だよ」

「え?」

「もうヒロカ一人に嫌な思いをさせたりしない。職員室も音楽室も、必ず一緒に行こうね」

「……」


 私の表情から何を考えているのかを読み取ったかのような言葉だった。 

 秋の風が優しく通り過ぎる。

 メイの長い髪がその風の行く先に向けてそよぐ。

 乱された髪を耳の後ろに戻しながら、メイは少しはにかむように笑った。 


「私たちは二人だけだから、しっかり支え合わないとね」


 二人だけ。

 数字にすればとても心許ない。

 でもそこに内包されている意味はとてつもなく大きい。

 二人きり。

 誰も割り込むことの出来ない、邪魔者のいない関係。 


「……二人だけど」

「ん?」

「二人だけだけど、私たち、他のバンドに負けたりしないよね?」

「もちろん。ヒロカのギターがあれば、私、負ける気なんかしない」


 メイ。

 一緒にいると楽しい友達。

 音楽を通じて一つになれる仲間。

 そして、こんなにも私の胸を高鳴らせる存在。

 

 この胸の苦しさについて思い悩むのは止めよう。

 ありのまま、ただひたすらギターの音色に変換して、メイに捧げよう。

 メイの歌声を完璧に包み込む伴奏が出来た時、その時にはもうそれだけで幸せすぎて、この感情の正体なんてどうでもよくなってしまう気がする。 



 その夜、私は一心不乱にギターの練習に没頭していた。

 サイレンサーを二つ重ねていたが、それでもお母さんにうるさいと注意された。

 そのついでに『Yesterday Once More』の伴奏を教えてくれと頼み込んだものだから呆れられた。 


「よほどメイちゃんと演るのにハマってるのね」

「いいから、教えてよ!ほら、そこ座って!」

「あんたね、教わるのになんでそんな偉そうなのよ」


 しぶしぶ私の隣に腰を下ろし、あぐらをかくお母さん。

 そんな投げやりな仕草でも絵になってしまうのが妬ましい。

 もし私がお母さんみたいに綺麗だったら、きっともっと堂々とメイの隣にいることが出来ていた。 


「いい?知ってるかもしれないけど、コードはシンプルよ。教則本の練習曲になってるくらい。使うのは基本的にC G F Am Em Dmくらい」

「うん、コード譜でそのまま弾いてみたけど、全然パッとしなくて」

「Aメロは特に工夫はいらないと思う。ただ、ベース音のリズムだけ気をつけて。やってみせてあげる」


 ギターを渡すと、小さく咳払いをして弾き語り始める。

 親指が弾くベース音に注目する。 確かに、曲の流れの中で必要なタイミングに低音弦を弾いているのが分かる。 


「はい、ここまでやってみて。私が歌うから、イントロのCから……」

「こ、こう?」


 見よう見まねで右手を動かす。

 フィンガーピッキングのアルペジオなんてほとんどやったことがない。 


「あー、ダメダメ。そんなリズムじゃ歌う側が可哀想よ。八分音符を均一に!歌い出したら八分の一と四にベース音!」

「む、難しいって!」

「んじゃ、まずはひたすらイントロだけ。リズムキープできるようになるまでずーっとやってなさい。静かで助かるわ」

「うー、しんどい……」


 私はしぶしぶ、スマホのメトロノームアプリを立ち上げて、言われる通りにCのアルペジオを繰り返すことにした。

 

「……メイちゃん、楽しそうにしてる?」

「え?」

「ほら、手休めない。話しながらでもリズムキープ」

「う、うん。最近一緒にいる時は楽しそうだよ。どうして?」

「……なーんかね、あの子、若い頃の私に似てる気がするのよ。だからなんか気になっちゃって」


 あぐらのまま両手をおしりの後ろについて、天井を見やるお母さん。 


「昔のお母さん?」

「そ。あんたのグランマと、バーミングハムに二人暮らしでね。でもほとんど家には一人でいたから、他にやることもなくてギターばっかり弾いてた。あんまり楽しいって感じじゃなくて、一人で何もしてない時間を埋めるのにちょうどよかったんだよね」


 思えば、こんな話をお母さんに聞くのは初めてだった。

 女手一つで育てられた彼女の子供時代については、あまり踏み込んではいけないような雰囲気があった。

 

「あの時に、あんたたちみたいに一緒に音楽やって楽しいって思える相手がいたらさ、なんか違ったんじゃないかなーとか思っちゃうのよ」


 右手は反復運動をしたまま、自分が一人でギターの練習をしていた頃のことを思い出した。

 そのときの私は一人でもそこそこ楽しめていたが、それもいつまで続いたかは分からない。

 もしかしたらすぐに飽きて、このエレアコはお母さんのクラシックギターみたいに物置で埃をかぶる事になっていたかも……。

 想像するとちょっと恐ろしい。 


「正直羨ましいよ。せっかくのパートナーなんだから、大事にするといいよ。誰かと一緒に熱中できることなんて、なかなか見つけられるもんじゃないからね。あんたはラッキーよ」

「うん。分かってる」

「……あーあ、ママはこんなこと言ってくれなかったなぁ。勉強しなさい、家の手伝いをしなさい、女らしくなるトレーニングをしなさいって、そればっか」


 家のことを愚痴っている自分とお母さんの口調がダブる。 

 それでも、お母さんはイギリスに一人暮らししているおばあちゃんをとても大切にしていることを私は知っている。

 よく電話しているし、私の写真をメールで送ったりもしている。

 私が二歳の時に一度だけ日本に来たことがあって、大層可愛がってもらったらしいのだが、残念ながら覚えていない。 

「いつか、おばあちゃんに会える機会があったらビートルズ弾いてあげなさい。きっとノリノリで喜ぶよ」

「どんなのが好きなの?」

「うーん、『Help』とか、『twist and shout』、『Revolution』とか?

「い、意外」

 

 写真で見た穏やかな笑顔から、もっと大人しめな曲名が出てくると思っていた。


「あ、『Yesterday Once More』はダメよ。アメリカの歌は聞かない主義だから」

「もしかして、結構頑固な人なの?」

「うーん、そうかもね。一時期は女軍人みたいな雰囲気だったかなぁ。あの時代に女一人で稼いで娘を食わせていくためには、そうなるのも仕方なかったのかもだけど。その時はそんなこと分かるはずもなくて、ガミガミ言われるたびにお隣さんに文句言われるくらいの大喧嘩して。結局家出同然で家を出て、挙句に日本で本屋の嫁になりますだなんて、よく今でも勘当されずにいるもんだよ」


 そう呟くお母さんの顔は、親でありながら誰かの子供でもあることを感じさせた。 


「だからあんたにあんまりうるさく言うのはやめとこうと思うんだけど、親心ってのはそんなに単純なもんじゃないのよね」

「……わかんないけど」

「わかんないってのもわかるわ。まあ、言いたいのは、好きなことは一生懸命やりなさい。危ないことじゃない限りは応援するから。何かあったらお父さんに話す前に私に相談なさい」

「……ありがと」


 なんだか照れくさいけど、お母さんは私の返事に満足そうに笑って頷いた。 


「って、あんた、出来てるね」

「え?あ、ほんとだ」


 いつの間にか、話しながらでも音の粒を揃えていられるようになっていた。 


「好きこそもののなんとやらね。じゃ、次のコードだけど……」


 結局その一晩で、お母さんからのレクチャーは終わった。

 あとはひたすら繰り返して、体に染み込ませるだけだ。 


 この曲を選んで良かったのかもしれない。

 文化祭での演奏がうまくいったら、お母さんにちゃんとお礼を言おう。

 これもギターと音楽が私にもたらしてくれた変化なのかもしれない。 


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