20.メイ
一旦ヒロカの家に戻って荷物を置き、私達は再度大通りへ繰り出した。
せっかくなので今買った服に着替えて行くことにした。
昼が近づくにつれて気温は上がり、小春日和とはこのことという陽気だった。
アーケードの下を並んで歩く。
休日だというのに相変わらず人通りはまばらだ。
でも今はそんなことも気にならない。
すぐ隣をヒロカが嬉しそうに、行進するように大きく手を振って歩いている。
鼻歌でも飛び出しそうな勢いだったが、気がつくと私の方が先にそうしていた。
口ずさんだのは『Some Might Say』。
ちょっと陽気なメロディに乗せて、全く意味不明な歌詞を歌うその曲が、私はかなり気に入っていた。
ヒロカも一緒になって歌う。
二人の歩調を合わせて、両足のリズムに合わせて。
間奏のギターソロはヒロカがエアギターしながら口笛で再現してくれた。
引き継いで、私は続きを歌う。
全く適当な鼻歌なのに、息が合ってるとこんなにも楽しい。
音楽ってすごい。
ヒロカと私の相性もすごい。
電気屋のショーウィンドウの前、ビデオカメラのデモをしていた。
撮った店頭の様子をリアルタイムで大型テレビに映している。
私が新しいブーツのチェックをしていると、後ろでヒロカが私の真似をしてポーズをとる。
なんだかプロモーションビデオのワンシーンみたいだったので、私はサングラスをかけてカッコつけながら歌うフリをする。
後ろでヒロカがデタラメなダンスをする。
店員のおじさんがガラスの向こうで拍手してくれたので、二人で気取ったお辞儀を決めてやった。
呉服屋の三毛猫に二人で挨拶をして、移動販売のクレープを買ってぱくつきながら、私達はさらに大通りを進む。
ゲームセンターのクレーンゲームで冗談みたいに大きなウサギのぬいぐるみを見つけて、九百円かけてゲットした。
ヒロカにプレゼントすると大はしゃぎでぬいぐるみを抱きしめて頬ずりしていた。
やっぱり私は男の子みたいな役回りらしい。
クレープを食べ終わるまで、一旦通りのベンチに腰掛けることにした。 ヒロカは隣にぬいぐるみを座らせてご機嫌顔だった。
「はい、メイ!」
「え?」
ヒロカがスマホを取り出して自撮りモードにしていた。 ヒロカ、ウサギ、私のスリーショットが画面に映っている。
「いくよー、せーの……ってメイ顔が硬い!笑って笑って!」
「う、うん、難しい……」
「もー、女子高生でしょー?ほら、顔の下でピース!ニッコリ!」
「こ、こう?」
「そそ、いいねー!はい、いくよー!」
カシャっとシャッターが切られる。
まだ自分でも見慣れないコート姿の自分が画面に映し撮られた。
「メールで送っとくからね!メイと初デート記念っと」
スマホを操作するヒロカの頭上に音符が飛んでいるように見えた。
彼女のあどけない顔立ちは、楽しげな表情が一番似合うと思った。
自分と一緒にいてこんなに楽しそうに笑ってくれることが嬉しくて、私も頬が緩んでしまう。
このまま、楽しい時間が続いてくれるなら、もう他に何もいらないかもしれない。
そう考えている自分にはっとなった。
いけない。
目的を忘れかけていた。
「ヒロカ、早く制服受け取ってこよう。そしたらもう一回家に戻って、アンプとギターとマイク持って出かけよう」
「え?どうしたの、急に」
「練習しなきゃ。どこか、大きな音出しても大丈夫な場所探そう」
「……やばい、楽しすぎて忘れてた。私の方が必死で練習しないといけないのに」
「デートの続きは、文化祭が終わった後ってことで、いい?」
「うん!約束ね!」
私達は揃って、クレープの残りを口に放り込んで立ち上がった。
木村屋からの帰り道、高架下なら人が来なくていいかもということで話がまとまった。
私達は再度ドタバタと紺野書店に戻り、荷物を置いてアンプとギター、マイクを拾って外に出た。
ヒロカがキャリーを出してくれたので、アンプはそれに乗せて私が転がして運ぶことにした。
とりあえず駅に向かい、人の少なそうな方向に向けて歩き出す。
出来るだけ住宅が少ない場所を探す。
十五分ほどでほとんど人の気配は無くなり、代わりに雑木林や竹林などの緑が目立ち始めた。
「ここなら、大丈夫かな?」
周囲に住宅どころか、建物自体がない。
こういう面では田舎というのもいいものかもしれない。
高架下につきものの落書きも見当たらない。
ということは不良がたむろするような場所でもないということだ。
私達は高架の支柱そばで準備を始めた。
アンプに電池を入れて、包装から取り出したマイクのプラグを刺した。
ヒロカは軽くチューニングの確認をしてギターとアンプをシールドで繋ぐ。
電源を入れると、確かに両方の音が同時に出るようになった。
「あ、あ。少しマイクの方の音量小さいかな?」
「えっとね、かなり口近づけて、チューするみたいにして歌ってみて。カラオケのマイクとかと少し感覚が違うみたいだから」
言われた通り口を近づけて声を出してみる。
なるほど、カラオケよりも自然な声のままで音量が増幅されている感じがする。
ギターの音ともよく馴染んでいる。
「『そばかす』、イントロはまだ弾けないから、E、から、A。これの半拍後。Eが1,2,3,4、A、のこのあと、ここで歌い出して」
指の形を見て覚える。
私が頷くと、ヒロカがイントロの演奏を始める。
マイクとの距離を意識しながら、私は歌い始めた。
『Whatever』の時よりヒロカのストロークが細かく速い。
左手の動きも右に左にと忙しなくて大変そうだ。
でも音が途切れたりずれたりすることがないのは流石だ。
膝で小さくリズムをとると、ヒロカも乗ってきたのか、頭を振ったり、肩を揺らしたり。
二番になるとストロークにも細かいミュートを織り交ぜたりして工夫し始めていた。
私も負けじと声に気持ちを込める。
二回目のサビの入りは少し声量を抑えて寂しげに。
ヒロカもすぐに意図を理解して、アルペジオを切り替える。
最後のサビに向けてクレッシェンド。
元気に、お転婆に、伸び伸びと声を張り上げる。
楽しい。
一発目なのに、なんだかこのままでもいいような気さえする。
勢いのままに押し切ってしまえる曲だと思った。
「うーん、メイ、歌はもう出来上がってる気がする……」
ヒロカは眉根を寄せて申し訳なさそうにしている。
「イントロとアウトロ、あと間奏をなんとかしないと。雰囲気でないや」
「そうかな?これはこれでいいと思うけど」
「ううん、もっと完成度上げないと、バンドの演奏には負けちゃう気がする。やっぱり少し研究してみるよ」
ヒロカは楽譜とペンを取り出して近くにあったコンクリートブロックに座った。
タブ譜を見ながら弦を抑えてストローク、少し左手の形を変えてまたストローク、納得いくと何やらメモをして、その繰り返し。
「ゴメンね、メイ、暇になっちゃうよね」
「うぅん、そんなことないよ。ヒロカの伴奏がどうやって出来るのか、見てみたい」
「じゃあ、こっち来て。行き詰まったら意見聞かせて」
右隣に座ってメイの膝の上に広げられた楽譜を見る。
曲の始めからごちゃごちゃと数字が並んでいて目眩がしそうだ。
ネックの一番左の方を掴んで力強く弦を掻き鳴らし、小節の最後だけ一瞬でボディの近くまで左手をスライドさせる。
その滑る過程で出る音が高低の音を滑らかにつなぐ。
イントロで鳴っているエレキの音を再現しようとしているのだと分かった。
低音と高音の行き来を三回リピートした後、少しずつ左手を低音側へずらしながら細かなピッキングを繰り返す。
なるほど、これで歌いだしに繋がるのか。
何度もそのリフを練習して、つかえたり間違えたりしながら少しずつ原曲の速度に近づけていく。
「どうかな?こんな感じでスタートすれば、スムーズに歌に入れるかな?」
「そうだね……。確か、声が入る直前にドラムが鳴ってるよね?たたんって。あれがあると歌い出しがすごくわかりやすいんだけど……」
「あ、スネアだね?ブラッシングしてみようか。ちょっとやってみるね」
もちろん、ギターにブラシ掛けするわけではなかった。
左手をミュートしたままピッキングすると、じゃっ、じゃっ、という短い音がなる。
これをドラムの音の代わりにするということだ。
「うー、難しい。ちょ、ちょっと練習させてね……」
イントロの反復練習に入るヒロカ。
練習の過程を見ているとどれだけ複雑なことをしているかがわかる。
私もこれに見合うだけの努力をしなければ。
もう歌は完成だなんて言っていられない。
私は立ち上がってストレッチを開始する。
体をほぐすといつもより素直に力強い声が出る気がしていた。
あとは、呼吸法だ。
できるだけ多くの酸素を吸い込んで、それを均一な強さで長く吐き出せるように、自分の人差し指をローソクに見立てて息を吹きかける。
何だか不思議なトレーニング方法だが、真面目にやるとかなり疲れる。
疲れるということはそれだけ鍛えられているということだ。
歌唱の訓練はすぐに成果が見えるものではない。
ただ正しい音を出すだけならそう難しいことではない。
声量を高め、メリハリをつけて、言葉に感情を乗せる。
全てをクリアしようと工夫するが、あちらを立てればこちらが立たずだ。
まずは呼吸の安定を無意識にでもこなせるようにならなければ。
反復あるのみだ。
しばらく個別練習をしていると、突然ヒロカが頭をかきむしって奇声をあげた。
「あーーー!うまくいかない!!メイ、ご褒美ちょうだい!」
「え?ご褒美って?」
「歌って!」
少しぎこちなくイントロをかき鳴らして、歌い出しのところでじゃじゃっ、とブラッシングのリズムが入る。
私はすぅっと息を吸い込んで、歌い出しをAのストロークのすぐ半拍後に合わせた。
どうやら作戦成功のようだ。 私は親指を立てて見せた。
私が彼女のギターに合わせて歌うことは、ヒロカにとってのご褒美なんだ。
その期待に応えたい思いが、私の声を後押しする。
たった一人に向けて、全力の声にありったけの感情を込めて発する。
ワンコーラス歌い終えて、微かだが手応えのようなものを感じた気がした。
ただ自分が楽しむだけじゃなく、何かを伝えたい想いに従って言葉を発することで、私の声は伸びやかになっていく。
「うん!いい感じ!」
「ね!」
「間奏はイントロと同じでオッケーだから、最初のリフをよく練習しておくね」
「あ、それと、二番のところなんだけど……。一番よりは少し抑えめで、少ししっとりした感じにできるかな?」
私の抽象的な提案を確実に演奏に反映するヒロカ。
多分、お互いが思う曲の理想が近いのかもしれない。
回を追うごとに、その理想形に確実に近づいて行っている。
街はずれでの演奏練習は辺りが暗くまで続いた。
ヒロカの家に戻ると、ヒロカのお父さんが出かけて行くところだった。
町内会の集まりでその後は飲み会になるらしい。
上機嫌なお父さんを見送るお母さんは少しあきれ顔だ。
聞けば、町内の商店同士の付き合いという名目で飲み歩いたり、草野球をしたりというのがお父さんの息抜きらしい。
「その間店番任されるのは私と寛なのよ。今日もきっと帰りは午前様だろうし、全く」
お母さんはレジカウンターに頬杖をついて不満顔だ。
ヒロカのいうとおり、流暢な日本語で愚痴をこぼすその口調は完全に日本の主婦だ。
「へぇ、ヒロカが店番してることもあるんだ?」
カウンターの向こうにヒロカがちんまりと座って接客する姿を想像するとちょっと面白い。
「もう、お母さん、メイにそんなこと言わなくていいってば。恥ずかしいなぁ」
「あら、下の名前メイちゃんって言うのね。可愛い名前ね」
ヒロカのお母さん、エリカさんはヒロカと似た明るい笑顔でそんなことを言ってくれる。
「そうですか?私、自分の名前あんまり好きじゃなくて……」
「え?なんで?冴木って名字もかっこいいし、芽衣もいい名前だと思うけど」
「……だって、牙が二つも入ってて、怖い感じがしない?」
「きば……?」
ヒロカとエリカさんは二人してぽかんとした。 ヒロカは左手に指で文字を書いて、なるほどと笑った。
「冴木芽衣、ほんとだ!牙が二本!」
「あー、そういうことね」
「昔、今よりも色が白くて、しかもこんな髪型だから吸血鬼ってあだ名をつけられたんです」
「えー、ひどい!」
「そう?それこそかっこいいじゃない。女吸血鬼。ミステリアスでクールよ」
エリカさんの感性はなんとも独特だが、ブロンド美女の彼女に褒められると悪い気はしない。
「あ、そうだ、メイちゃん今日こそ晩御飯食べていかない?お父さん急に飲み会だなんて言うから食材余っちゃってるのよ」
「え、いやでも、悪いですよ……」
私が遠慮すると隣でヒロカが微妙な表情をする。
「うーん、そんな遠慮するようなご飯じゃないから……。っていうか、ちょっと恥ずかしいっていうか……」
「これ、何よ恥ずかしいって」
「だって……なんかメイには似合わないよ。焼き魚とか納豆とかお浸しとか……。もっとおしゃれなもの食べてそうだし」
「ちょっ、そ、そんなことない。私和食大好きだし」
「じゃあいいじゃない。なんなら泊まって行ってもいいのよ」
「あ!それは賛成!ねえ、メイ、どう?!」
ヒロカが私の腕に抱きついてぴょんぴょんと跳ねる。
この笑顔がしょぼくれてしまうのを想像すると、もう断ることはできなかった。
「親御さんには連絡入れておいてね。あと、ちょっとコンビニでお醤油買ってきて。ついでにお泊りに使うものとかも」
エリカさんがヒロカに五千円札を渡す。
「はーい、メイ、行こ!」
「うん」
夜のアーケード街。
ひんやりとした空気は、ノスタルジックな気分にさせる秋の匂いがした。
一人の帰り道とは違う、一緒に歩く人と、一緒に帰る場所がある夜道。
私たちは百メートルほど離れたセブンイレブンに入った。
コンビニの作りはほぼ全国共通で、なんとなく落ち着く気がする。
立ち読みをしている塾帰りの学生を横目に見ながら、私は替えの下着を探した。
ヒロカはカゴに醤油を放り込んで、アイスクリームが並ぶ冷凍庫を覗き込んでいる。
「メイはどれが好き?」
「アイス?うーん、これ」
私はレモンのかき氷を指差す。
「お、渋いね。アイスのチョイスまで男らしい」
「アイスに男らしいなんてあるの?」
「あるある。女子らしいのはクッキーアンドクリームとか、ストロベリーとかだよ」
確かにヒロカに似合うのは、そういう飛び切り甘そうなやつだ。
「ソーダのこれは?どっち?」
「うーん、それはまた別枠で、お子様?」
「じゃあヒロカはこれね」
『なにそれ!ショック!』
ヒロカの言葉を読んで、声を合わせる。
また二人して笑ってしまった。
ただのコンビニが、二人だととても楽しい。
ヒロカが譲らないので、私は下着と歯ブラシをヒロカの持つカゴに入れた。
泊めてもらう上に買ってもらってしまっていいのだろうか……。
なんだか申し訳ない。
「なんだかお母さん、メイのことすごく気に入ったみたい」
「そうなの?なんだかすごく良くしてもらっちゃって、いいのかなって感じだよ」
会計を済ませた商品を受け取って、せめて家まで私が運ぶことにする。
「いいのいいの、一人娘が親友を連れて来た時くらい、少し奮発してもらわなくっちゃ」
冗談めかしていたずらっぽく笑う。
甘え上手なヒロカを、ちょっと羨ましいと思った。
帰り道、袋の中にストロベリーのカップアイスとレモンのかき氷、そして宇治金時のかき氷が入っていることに気づいた。
エリカさんの分だろうか?何も言わなくても好みが分かっているという親子の関係が、私の目には新鮮だった。
紺野書店に戻ると、エリカさんがヒロカにエプロンを渡す。
夜になってお客さんが少ないとはいえレジを空にはできないため、夕飯の支度の間は店番を交代するらしい。
ヒロカが接客している姿が見てみたくてお客さんが来ることを期待したが、立ち読み目当ての人が一人来ただけだった。
「出来たよー。二人とも先に食べちゃって」
店の奥から声がして、私はヒロカに連れられてスタッフオンリーの看板の奥へと踏み込んだ。
ビーズの簾がかかったガラスの格子戸を開けると、小さな三和土の奥に突然畳敷きの茶の間があり、なんだか不思議な感覚だった。
正方形の八畳間にあったのは、飴色の木製テレビ台と、二十四インチの液晶テレビ、綺麗に磨かれた仏壇、壁には野球選手のカレンダー、部屋の角には新聞と週刊誌が積まれていた。
部屋の中央に置かれた長方形の食卓の長辺それぞれに座布団が置かれ、卓の上には純和風の御膳が並んでいた。
白いご飯、豆腐とわかめのお味噌汁、アジの開き、ほうれん草のおひたし、なめこおろし。
「なんか、いつもより余計に和風っぷりが強くなってる気がする……」
「メイちゃん、お代わりもあるから、足りなかったらヒロカにいってね。ごゆっくりどうぞ 」
「あ、すみません、ご馳走になります」
膨れるヒロカからエプロンをむしり取って、エリカさんは店番に戻っていく。
「ごめんね、メイ。なんだかすごく普通のご飯で」
「うぅん。最近こんなにしっかりした和食なんて食べてなかったから、嬉しいよ」
「ならいいけど。じゃ、食べよ!」
二人で向かい合って座布団に座り、手を合わせていただきますを言った。
鼻歌を歌いながら納豆をかき混ぜるヒロカ。
改めて向き合ってみると、髪と瞳は外国人然としているのに顔の作りはあまり起伏がなく、あどけない。
箸を使って和食を食べる姿も全く違和感がない。 私の視線に気づくと、にへらと笑った。
「メイとご飯ー。お醤油、どうぞー」
と変な歌を歌う。
私は醤油の小瓶を受け取って、ヒロカを真似て納豆に入れてかき混ぜた。
なんだか妙な感じだ。
そもそもこうやって人と一緒に食事すること自体久しぶりすぎて、なんだか照れくさい気さえする。
「お魚、美味しい」
「そう?普通のアジの開きだよ?」
「でも、美味しい。お味噌汁も、なんだかほっとする味」
「メイっていつもどんなもの食べてるの?洋食が多いの?」
「うーん、洋食っていうか……。家族が忙しくて、コンビニで買ったものとかが多いから、こうやっていろいろ揃ってるご飯っていうのが新鮮かな」
プラスチックの容器はそのまま捨てられるから気楽だが、こうして陶器のお茶碗を持つと安心する。
自分も日本人だということなのだろうか。
「こんなんでよかったらいつでも食べに来ていいからね。っていうか、うちの子にならない?」
「ヒロカの、お姉さん?」
「あれ、後から来たのにお姉さんなの?」
「妹って感じじゃないもんね」
「うー、確かに」
ご飯の上の納豆がなくなると、今度はなめこおろしをご飯にのせるヒロカ。
私も当然真似した。
ほぼ同じペースで食事を平らげた。
こんなところも私たち二人のリズムは似ているような気がする。
食器を片付けて、エリカさんと店番を交代する。
今度は私もカウンターの中に入って、お客さんが来ないのをいいことに閉店時間まで本屋さんごっこを楽しんだ。
ヒロカはお風呂まで一緒に入りたがったが、さすがにそれは恥ずかしいので我慢してもらった。
なんだか本当に甘えん坊の妹ができたような気分だった。
年季の入ったタイル敷きの浴室に、金属製の風呂釜が置かれた風呂場。
シャワーヘッドだけ妙に新しい節水型のものに替えられていた。
足を踏み入れると、ヒロカの髪と同じ甘い匂いがした。
シャンプーやボディソープを借りていると、なんだか少しずつヒロカの日常に染まっていっている気がしてくすぐったい。
長風呂は苦手なので少し湯船に浸かってすぐに上がる。
脱衣所には先ほど買った替えの下着と、ヒロカのスペアらしいピンクの寝まきが用意されていた。
少し小さいが、伸縮する素材なので問題ないだろう。
温かくて優しい肌触りが嬉しかった。
着替え終えると、ヒロカがドライヤーとヘアブラシを持って脱衣所に駆け込んできた。
「メイ、そこ、鏡の前座って。髪乾かしてあげる!」
「な、なんか悪いよ。わざわざやってくれなくても……」
「いいってば!お客さんなんだから、偉そうにしてて!」
「うーん……じゃあ、お願いします」
「はいはーい」
多分、ヒロカは姉か妹がいる生活に憧れていたのではないだろうか?
なんだか甲斐甲斐しくいろいろやってくれる。
任せるままにしていたら髪の毛は三つ編みのツインテールにされていた。
「あはははは!似合うー!」
「そ、そう?なんだか田舎っぽくない?」
「メイならどんな髪型でもおしゃれになるよ!」
鏡の中には見慣れない自分。
隣でヒロカはご満悦だが、変じゃないだろうか?
様子を見に来たエリカさんも笑いながら似合う似合うと言ってくれたが……なぜ二人ともそんなに笑うのだろうか?ちょっと遊ばれてるような気がする。
ヒロカの部屋に移動して、入れ替わりでお風呂に入ったヒロカを待つ。
布団はピンクと水色でふた揃い敷かれていたので、水色の方を借りることにした。
三つ編みから漂う甘い香り。
今日ゲットしたウサギのぬいぐるみを抱いて、なんとなく『そばかす』を口ずさんでいた。
部屋を見渡してみる。
無機質なホテルとは違う、生活感のある空間だった。
学習机の落書き、剥がれかけたファンシーなステッカー。
おもちゃみたいに小さな化粧台には、一応とばかりにマニキュアやリップが並んでいる。
ヒロカもメイクとかするのだろうか?なんだか想像できない。
本屋の娘だけあって本棚が大きい。
漫画よりも小説と楽譜の多さが印象的だ。
小説は、ティーン向けの恋愛っぽいものが目立つ。
楽譜は渋めな洋楽中心なのがアンバランスだ。
多分、生まれてからずっとここで育ってきたのだろう。
分厚いアルバムが五冊くらい本棚に収まっている。
工作の授業で作ったものらしい紙粘土のペン立てなんかもある。
普通の女の子が普通の育ち方をすれば、こういう部屋になるものなのだろう。
なんとなく、自分との差に寂しさを感じた。
自分が特殊な境遇であることは自覚していたつもりだが、何もかもが違いすぎる。
例えば、私が今までに学校で作ったり描いたりしたものは、持ち帰るのが嫌で処分してしまっていた。
どうしてそんな風にしたのかは自分でもよくわからない。
多分、家族に見せてもなんとも言ってもらえないような気がしたからだろう。
無関心を突きつけられるより、何もなかったことにする方を選んだのだ。
「お待たせー!」
お揃いのピンクの寝まきを着て、頬を赤くしたヒロカが部屋に戻ってきた。
髪は濡れたままでいつもよりウェーブが強くなっている。
部屋を満たす甘いシャンプーの匂いがさらに強くなった。
私はなんだか照れくさくて、慌ててウサギのぬいぐるみを手放した。
「メイ、いい子にしてた?部屋の中漁ったりしてないよね?」
寝る前だというのに、ヒロカのテンションは依然高いままだ。
「漁られると困るようなものがあるの?」
「うーん、昔の写真とか?まあメイにだったらいいんだけど」
そう言って隣の布団に腰掛ける。 なんだか修学旅行の夜のようだった。
「なんか、ヒロカの部屋って、女の子って感じだよね」
「そうかな?和室だし、布団だし、おしゃれじゃなくて嫌なんだよね」
夕食の時もそうだったが、彼女の中では和風イコールおしゃれじゃない、という構図が出来上がっているらしい。
「なんだか、変な感じ。懐かしいような、新鮮なような。友達のお家に泊まるのなんて、ほとんど初めてだし」
「私も、この部屋で一緒に誰かと寝るのは初めてかな。小さい時はお母さんたちと一緒に寝てたんだけど、小学生なるからってこの部屋をもらって、でも最初は無駄に広いから怖くて、結局お母さんの布団に潜り込んだりしてたの」
「なんか簡単に想像できるね」
確かに小さい頃に二階のこの部屋に一人というのは少し心細いかもしれない。
お母さんと一緒に、か。
自分にはない思い出だ。
物心ついたときには一人で眠っていた気がする。
お気に入りのぬいぐるみがあったことを何故かふと思い出した。
あれは一体どこに行ってしまったのだろう?きっと私の知らないうちに捨てられてしまったのだろう。
そのことを覚えていないということは、私は悲しまなかったということだろうか?それも痩せ我慢したのだろうか?
さっきまで私が抱いていたウサギは、今はヒロカの腕に大切そうに抱えられている。
きっとこの子はずっと大切にしてもらえる。
そう思うと、訳がわからないまま泣きそうになった。
駄目だ。
目にするもの、肌に触れるもの、口にするもの、全てが私の日常とは違いすぎる。
この家の中には、私が何年も前に諦めて忘れようとしていた優しい家族の感触に溢れている。
気がつくと自分の、長い間蓋をして隠していた感情が頭をもたげて来てしまう。
「メイ?大丈夫?」
黙り込んだ私の顔を、ヒロカが覗き込んでくる。
「あ、ごめん……。少しだけ、疲れちゃったみたい」
私は目を擦る素振りをして、そんな嘘をついた。
「いっぱい歩いたし、歌ったもんね」
少し残念そうにしながらも、ヒロカは私を思いやって、早寝に付き合ってくれた。
私だって本当はもっと話していたいのに。
また私は安易な方法で、自分の歪さを直視することから逃げた。
ヒロカが部屋の電気を消すと、部屋を満たす闇と静けさが私の弱さを隠してくれるような気がして、ほっとした。
「ね、メイ?ちょっとだけ聞いてくれる?」
真っ暗な視界の中、右側からヒロカの囁くような声。
「ん?」
「私ね、メイと友達になってまだ少ししか経ってないけど、ずっと昔からメイと仲良しだったような気がしてるの」
「……それは、私も」
「なんだか不思議だよね。返事を聞く前から、メイもそう感じてくれてるって、信じられるんだもん。こんなことって初めて」
穏やかな声は、百パーセント私を受け入れて、私と過ごす時間を素直に心地いいと伝えてくれていた。
だというのに、私は胸の中にこんなにも薄暗いわだかまりを抱えている。
ヒロカのように普通の境遇で育っていたら、きっともっと分かり合えたのに。
心から共感し合えることだってもっと沢山あったはずなのに。
自分の過去が憎い。
世間知らずで、嘘つきで、臆病で、強情で、見栄っ張りで……同じ時間をかけて育ってきて、そんな風にしかなれなかった自分が恥ずかしい。
「メイに会えてよかったよ。ありがとう」
私はこんなにも正直に好意を伝えてくれる相手に自身の醜い部分を隠して接して、自分を好きでい続けてもらおうとしている。 ヒロカの真っ直ぐな親愛を騙し取っている。
「……私もだよ。ありがとう、ヒロカ」
自己嫌悪に塗れながらも、私はまた上手く返答を取り繕った。
ヒロカを取り巻く環境や雰囲気をこんなにも羨みながら、そのことはおくびにも出さずに平気なフリをした。
まだ闇に慣れない視界は真っ暗なままだったが、ヒロカがこっちを向いてにっこり笑ったのがわかった。
私の強がりはまた彼女を上手く欺いた。




