02.メイ
職員室を出ると、すぐ横に楽器か何かのケースが立てかけてあった。
さっきの女生徒のものだろうか?
私は特に気に掛けることもなく、入ってきた玄関の方へと歩き出した。
校舎の中でスリッパを履いていると、なんだか落ち着かない気分になる。
パタパタとうるさい自分の足音を気にしながら、早く外に出ようと歩調を速めた。
職員室にいた教師は億劫そうではあったが、一人で転校の手続きを済ませに来た自分に親切にしてくれた。
腫物を扱うような口調は少しストレスだったが。
見かけた女生徒が着ていた制服を思い出す。
白地に薄いグレーのラインをあしらったブレザーと、ラインと同色のプリーツスカートだった。
可愛いデザインだとは思うが、自分には可愛すぎてちょっと似合わないような気がした。
正面玄関から外に出て、秋晴れの空の下で一つ溜息をついた。
正面に広がる校庭では、野球部が威勢のいい声を上げながら練習に励んでいる。私は目を逸らすように俯いた。
すぐに帰っても時間を持て余すだけなので、少し敷地内をうろついてみることにした。
クラスメイトに案内してもらわなくても済む程度には、校内の様子を把握しておきたかった。
生徒用の昇降口の横を通り抜けて、裏側にまわる。
休日なので当然、下駄箱にはほとんど上靴が収まっていた。
マイナーなラインナップを並べた、百円均一の自動販売機が置いてある。
特に飲みたいと思う商品はなかった。
校舎の裏手側に進んでいくと、ハンドボールコート、ピロティのある体育館、学年ごとに仕切られた駐輪場が続いている。
前の学校よりも敷地はかなり広く、設備が充実しているようだった。
さらに奥には部室棟らしき二階建ての建物が二棟並んでいた。
落書きや、忘れ物、ひびが入ったまま放置されている窓ガラス……。
職員室から距離が離れるほど、風景は雑然としてくるようだった。
本校舎と並んでL字を描いているのは、渡り廊下で繋がれた旧棟……先ほどの教師は「芸楽館」と呼んでいた。
たぶんその名の通り、美術や音楽の教室が入っているのだろう。
文化部は休日に活動するほど熱心ではないようで、旧棟側に人気は全くない。
敷地内を半周し終えた。
残りの半周は校庭とテニスコートだから、見て回らなくてもいいだろう。
当然ながら別段驚くようなものはなかった。
別に期待していたわけでもないが、敷地の広さ以外は今まで通ってきた学校と特に大差はないようだ。
引き返そうと踵を返した時、楽器の音色と歌声が聞こえてきた。
芸楽館の上の階の方、一つ窓が開いている部屋があって、そこから漏れ聞こえてきているらしい。
ピアノでも吹奏楽器でもない。
これは、ギターだ。
女子生徒が歌っているらしいメロディは、どこかで聞いたことがある気がする。
歌っているのは、甲高くて可愛らしい声だ。
歌詞は英語で、妙に発音がいい。
音楽の知識なんて学校のお勉強レベルしかないから詳しいことは分からないが、不思議と惹きつけられる。
聞いていて心地良いと思える演奏だった。
私は芸楽館の外壁に背中を預ける。
ひんやりとした感触が少し気持ちよかった。
ポケットからスマホを取り出して、出鱈目に操作した。
演奏は絶え間なく続いた。
たまにつかえたり、歌い直したりするが、繰り返すたびに段々上手になっているのが分かった。
一曲通して歌い通した後、ほんの数秒の休憩を挟んで、また最初から歌い出す。
一曲五分弱の曲を、何度も何度も繰り返している。
凄い情熱だと思った。
ここまで熱中できることがあったら、きっとこんな風に無駄な時間潰しなんてしなくて済むのだろう。
そう考えると、歌っている女子生徒が少し羨ましくなって、また少し自分が嫌になった。
私がこんなことをしている間にも、周りの人たちはどんどん先へ進んでいく。
色んなことに挑戦して成功したり失敗したり、笑ったり悩んだりしながら、いわゆる青春と呼ばれる時間を過ごしていく。
――自分はこれからどうなっていくんだろう。
目まぐるしく移り変わっていく周囲の景色に翻弄されるばかりで、何も出来ていない。
ただ無為に時間を浪費している。趣味もなければ友達もいない。
一日ごとに世間と少しずつズレていって、取り残されて行っているように感じる。
何より問題なのは、そのことに焦りを感じもしていないということなのかもしれない。
漠然と現状に問題を感じながらも、何かアクションを起こそうという情熱は、このがらんどうの様な体の中のどこにもなかった。
気がつくと、もう日が傾き始めていた。
いつの間にか、ギターの音は聞こえなくなっている。
すっかり冷えた二の腕をさすりながら、私は校門に向けて歩き出した。
いつもより時間の経過を早く感じられたのは、多分歌を聞いていたおかげだろう。
同じ曲の繰り返しだったのに、退屈だとは思わなかった。
聞いているうちに覚えてしまったそのメロディを、鼻歌で口ずさむ。
来た道を戻る。
下駄箱に続く角を曲がったところで、女子生徒と鉢合わせになった。
はっとして、鼻歌をやめる。
危うくぶつかりそうになった相手は、職員室で見かけた娘だった。
かなり小柄で、私より頭一つ分くらい背が低い。
暗めの栗色の髪が緩やかにウェーブして、小学生といっても通用しそうなあどけない顔立ちを飾っている。
何より目を引いたのは、彼女の目だった。
榛色というのだろうか。
薄暮の日陰の中で、その色は淡く輝いているように見えた。
歌っていたのを聞かれただろうか。
気恥ずかしさもあって、私は会釈もせずに足早に逃げる。
――鼻歌なんて、似合わない真似をしなければ良かった。
後悔が、駅に向かう私の足取りを少し重くした。