19.ヒロカ
土曜日、昨夜は夜遅くまでアルペジオの反復練習をしていたが、七時にパッチリ目が覚めた。
やっぱり楽しみなことがあると違う。
朝食はいつも通り純和風だったが、私は文句を言わずに食べることにした。
一日の活力の源だというし、頑張りたい日はしっかりエネルギー補給しておかなければ。
歯を磨き、顔を洗って、少し時間をかけて髪をセットする。
服もお気に入りのオレンジ色のパーカーとデニムのミニタイトスカートを選んだ。
気合いは十分、準備万全だ。
「ひろかー。お友達来たぞー」
一階から父が呼ぶ声がする。
姿見で全身チェックを済ませた私は、よしと一つ気合を入れて部屋を飛び出した。
階段を駆け下りると、メイは店頭に吊るされている猫のカレンダーを眺めていた。
私服はどんな感じなんだろうとワクワクしていたのに、何故か彼女は制服姿だった。
「おはよう、メイ。あれ?制服?」
「うん、実は、その、引っ越したてでまだ私服の荷物が届いてなくて……」
「そうなんだ」
少し残念だったが、まあこれからいくらでも機会はあるかと思い直す。
「上がって。色々調べたことがあるの」
「うん、お邪魔します」
お父さんに会釈をしてメイはついてくる。
部屋に入ると、スリープにしておいたパソコンの画面を表示する。
ボーカル用のマイクを紹介しているサイトだった。
「私のアンプ、ギターだけじゃなくてマイクも一緒につないで音が出せるんだ。だからマイクと電池さえ用意すればそれだけでどこででも練習ができるの!」
機械があまり得意ではないメイはそれだけのことにかなり感心した様子だった。
「じゃあ私、マイク買わないと。いくらくらいなのかな?」
「ピンキリみたいだけど、練習用なら一万ちょいくらいからあるみたい。メイ、いまお小遣い、余裕ある?」
「うん、そのくらいなら全然平気」
「じゃ、あとで見に行ってみようか!そうだ、このギター買った楽器屋さん、小さいけどスタジオがついてるんだよ!今日すぐは無理かもだけど、今度そこで練習してみるのもいいね」
大きなアンプやドラムセットもあるだけに少し割高だが、音量を気にせずやるにはやはりスタジオが一番だ。
「そうだね。まずはマイクの使い方しっかり覚えなきゃ……。あ、ヒロカ、曲の候補なんだけど、私が歌えそうなやつを選んできたの。見てくれる?」
「オッケー」
私はクッションを寄せてメイのスマホを覗き込む。 スマホのプレイリストに五曲が入れられていた。
『ギブス』、『ハナミズキ』、『ずっと好きだった』、『CHE.RRY』、『そばかす』。
自分が勧めた曲なのだから当然だが、どれも大好きだ。
これをメイが歌ってくれると考えると、それだけでじっとしていられない気分になる。
でも全部を選ぶことはできないし、ギター一本で雰囲気を出せる曲となるとかなり絞れてくる。
原曲がギター伴奏メインなのは『CHE.RRY』と『ずっと好きだった』だが……。
「『そばかす』!古い曲だけど……。みんなが聞いたことがあって、勢いがあって、ってなったらこれがいいと思う!」
メイの声でこの曲を完璧に歌ったら、それだけで掴みとしては間違いない。
私はストラップに体をくぐらせるのももどかしく、ギターを構え、指でストロークする。
私が軽く歌うと、メイがそれを引き継ぐ。
音量は控えめだが、メロディも歌詞もバッチリ覚えているようだ。
一晩で暗記してきたのだろうか。
メイのやる気を垣間見た気がして嬉しい。
ワンコーラス歌い終えるとメイは拍手してはしゃいだ。
「すごい!どうしてこんなにすぐ弾けるの!?」
「前に少し練習してたんだ。でもこれはコードを覚えて適当なリズムで弾いただけだから、まだ全然弾けるっていうレベルじゃないけどね」
特に、メイの声と釣り合うような演奏となったら、一ヶ月をこの一曲につぎ込んでも足りないような気さえする。
三曲演奏できるとしたら、『Whatever』は一曲決定として、もう一曲選んでおく必要がある。
「『そばかす』を掴みとして、三曲目につながる二曲目は……」
「難しいね……」
「メイは特にどれが歌いたいとかある?」
「それなら、ここには入れなかったけど、『Yesterday Once More』はどうかな?有名な曲だし、いろんな世代の人が知ってるんじゃないかな?」
「そっか、洋楽でもあれだけ有名な曲ならありかな。アップテンポ、バラード、ミディアム一曲ずつになるし」
お母さんに頼るのは少し悔しいが、この前弾いていたあれをコピー出来れば充分だ。 伴奏を自分でアレンジしなくて済むのは、時間がない立場としてはありがたい。
「じゃあとりあえずは、『そばかす』の楽譜と、マイクだね。他に必要なものは……」
「あの、ちょっと関係ない用事なんだけど、ヒロカ、付き合ってくれる?」
「うん?なぁに?」
なんだか言い出しづらそうにもじもじしているメイ。
「制服、注文したまま受け取りに行ってなかったんだ。大通りの木村屋っていうお店なんだけど、付き合ってもらってもいい?」
「うんうん、もちろんいいよ!」
メイがうちの高校の制服。 なんだかちょっと新鮮だ。
「じゃあ、早速行こっか。楽器屋さん、九時からやってるから」
私たち二人で紺野書店を出ると、大通りを歩き出した。
十分もせずにナカシマギターショップにたどり着いた。
赤いエレアコを買ったときのことがなんだかひどく昔のことのように感じる。
今はメイと一緒だから、一人で訪れたあのときよりはずっと心強い。
自動ドアをくぐると、湿度調整された空気と『Change the world』が出迎えてくれた。
あまりじっくり見たことはなかったが、奥の方にバンドスコアが大量にあるのは知っていた。
私はお目当の曲が都合よくあるものだろうかとドキドキしながらアーティスト索引を辿っていく。
――あった。 曲ごとのピースで売っている。
余計な出費が抑えられるのでとてもありがたい。
開いてみるとメロディ、ギター1、ギター2、ベース、ドラムの五つのパートが記載されている。
これらを四、五人で演奏するバンドに対して、私はギター一本で立ち向かわなくてはならない。
かなり研究と試行錯誤が必要だろう。
私は気合を入れてそれをレジに持って行く。
メイが店員さんにマイクのことを尋ねていた。
スキンヘッドにいかつい髭面の店主は思ったより丁寧な接客で応じてくれた。
「初めてで練習用だったら、shureのこれがいいと思いますよ」
「では、それを御願いします」
お互い会計を済ませて、同じデザインの紙袋を下げて店を出た。
「はー、なんか緊張した!」
「あ、やっぱり?私もあそこでギター買ったとき、すっごくビクビクしてた。慌てて見た目重視であの赤いの選んじゃって、予定の予算よりかなり高い買い物になっちゃったの」
結果的に音も気に入ったし、アンプにつなげるタイプだったことは正解だったのだが。
「あのギター、可愛いもんね。いくらくらいしたの?」
「えーっと、八万円くらいかな?」
「そ、そんなに高かったの?さっき見たら一万円とかのもあったよ?」
「……どれくらい焦ってたかがわかるでしょ?」
「う、うん。でも、あれはヒロカにピッタリだよ。結果オーライじゃない?見た目だって大事だもんね」
「そういうこと!あ、見た目って言えば!」
私はメイに向き直って、スラリとした長身の上に乗っかった美貌を覗き込んだ。
「衣装はどうしようか?折角みんなの前に立つなら、可愛い格好がいいよね!?」
「う、そっか、制服ってわけにはいかないもんね……」
メイの口の右端が引きつる。 パソコンのことを話したときもこんな顔をしてた気がする。
「衣装選びもやっちゃおうよ!」
「えっと、でも、まだ文化祭が本番って決まったわけじゃ……」
「えー!じゃあもう衣装じゃなくてもいいから、服見に行こう!この前メイに似合いそうなコート見つけたの!」
「ひ、ヒロカ、脱線……」
「はい、けってー!いこいこ!!」
私はメイの右腕をぐいぐい引っ張って歩き出した。
「このコート!こっちのブーツとジーンズで、中のシャツは……黒で!」
大通りから一本裏に入るとカフェや美容院、アパレルショップが軒を連ねる、通称ビー玉通りがある。
地面のタイルの間に色とりどりのビー玉が散りばめられた通りで、この市内で唯一と言っていい若者のためのスポットだ。
私はお気に入りブランド、ループレールのテナントにメイを引きずり込んだ。
おすすめどころを拾い上げて渡し、そのまま試着室に押し込む。
メイは楽器屋にいる時よりもガチガチに緊張していたようだった。
あんなに綺麗なくせにあまりオシャレに気を使ったことがないようなので、私は少しお姉さん風を吹かせて強引に試させることにしたのだ。
「着終わったら教えてね!ここで待ってるから!」
「う、うん、了解……」
シャっとカーテンを閉じて、私は試着室の壁に背中を預けた。
マニッシュなファッションは私には絶対似合わないので今までは目に止まらなかったが、メイと友達になってからはやたらと気になってしまっていた。
実は今渡したコーディネートも、事前にチェックしていたアイテムの組み合わせである。 彼女の試着が終わる彼氏って、こんな気分なのかもしれない。
メイは不思議だ。
スマホはむき出しで使ってるし、パソコンもろくにいじったことないらしい。
とにかく、いわゆる今時の女の子らしいことと無縁なのだ。
転校する前はどんな風に過ごしていたのだろうか?勉強一筋だったとか?
今度、この町に来る前のことも聞いてみよう。
一緒にいると音楽のことばかり話してしまいがちなので、たまには普通の友達らしい会話もしてみたい。
「……ヒロカ、こんな感じ、だけど」
「んー、見せて見せて」
私はプレゼントの箱を開けるときのようにワクワクしながらカーテンを開いた。
ファーフード付きのグリーンのミリタリーコートと、ダメージ加工のタイトジーンズ、編み上げの黒いハイカットレザーブーツ、ちょっと安直なチョイスすぎたかと思ったら、それが見事にはまっていた。
「うん!バッチリ!あ、でもコートは、前開けて」
「そ、そっか」
もたもたとジッパーを外す仕草が、なんともぎこちない。
インナーの黒いロンTは胸元がレースアップになっていてちょっとロックテイスト。 白い鎖骨が覗いてちょっとセクシーだ。
「あはは、メイ、なんで赤くなってるの?」
「な、なんでもないよ。なんかこういうの、慣れてないだけで……」
「うーん、いいね、初々しくて……。メイは肌が白いから照れるとすぐバレちゃうね。
「ちょっ、ヒロカ、なんか視線がいやらしい……」
「えー!なにそれ、ショック!もっとエッチな格好させちゃうぞ!」
「や、やめて!勘弁して!」
メイがあまりに本気で怯えてカーテンの向こうに逃げ込んだのがおかしくて、私はお腹を抱えて笑った。
「……ねえ、ヒロカ、この格好おかしくない?似合ってるかな?」
試着室から不安そうな声が漏れてくる。
「バッチリだよ。すっっっごくカッコいい。本当にそのままステージに上がれちゃうかも」
「そっか……」
しばらくの沈黙ののち、うん、と満足げな声が聞こえた。
「じゃあ、買っちゃうね」
「え?全部?今?」
「うん、だって、そのつもりで選んでくれたんでしょ?」
今度は私が慌てる番だった。
「いいの?完全に私の趣味だし、全部だと三万円以上するよ?」
学生向けの低価格設定とはいえ、上から下まで全部だ。
「うん、ヒロカのセンス、私も好きみたい。こういう機会がないと服とか靴とか買わないし」
「待って待って!だったら一応、もっと他も試してから決めよう!すぐ取ってくるから!」
後ろでメイがまた慌てていたが私は無視して目をつけていたアイテムをピックアップして回った。
デニムのタイトスカートや、フェイクタイ付きのボタンダウンシャツ、ビロードのジレとセットのジャケット、果てはハットやバングルまで。
部分部分取り替えているうちに、それだったらこっちも、あっちもと欲が出てきてしまう。
「ほら、サングラスしたらセレブっぽいかも!」
「セレブ……」
基本オロオロしながら私の言う通りに着替えるメイ。
スタイル的になにを着ても様になるが、当人的にはモッズっぽい雰囲気がお気に入りのようだった。
結局、最初のコーディネートプラス、ティアドロップ型のサングラスを買うことにしたらしい。
合計四万円近く。
制服に戻って会計を済ませる頃には、すっかり私のルンルン気分が感染しているようだった。
「なんか、男らしい買い物の仕方だね」
「なにそれ、ショック」
私達は笑いながらループレールを後にした。