15.ヒロカ
教室に戻ると、前の席の頼子さんが少し心配そうにしていた。
次の古典の小林先生は、始業のチャイムまでにちゃんと席についてないと凄くうるさいのである。
「セーフセーフ」
「珍しいね、寛ちゃん。いつも次の準備ばっちりして座ってるのに。どこ行ってたの?」
「えへへ、ちょっとね」
にやけてしまうのを抑えられない。
冴木さんをお家に誘ってしまった。
スマホにどの曲を入れてあげようか、じっくり曲目を吟味しなくては。
私はルーズリーフを取り出して、授業そっちのけでリスト作成に勤しむことにした。
「なんか寛ちゃん、楽しそうだね」
「うん、ちょっと嬉しいことがあってねー」
鼻歌交じりでペンを走らせる私を、頼子さんはしばらく眺めた後、言いづらそうに切り出した。
「……あの、寛ちゃん。この前、ごめんね」
私はかじりついていたルーズリーフから顔を上げた。
「え?何が?」
「ほら、臨時の学年集会のとき。私、寛ちゃんの髪のこと知ってたのに。転校生の娘みたいに助けられなくて」
「ああ、あれね。気にしないでよ。あの状態じゃ、しょうがないって」
冴木さんに助けてもらえたことで、むしろあの日のことはいい思い出だと思えるようになった。
もしかしたら、あれがなかったら冴木さんと仲良くなれなかったかもしれないのだ。
「でも、すごいよね、あの転校生。迷わず立ち上がって先生にハッキリ意見して、かっこいいよね」
「だよね!頼子さんもそう思うよね!話してみたらすごくいい人だったし。逆にちょっとラッキーだったかな」
「えー。どうして?」
「だってほら、憧れない?ピンチの時に颯爽と現れて助けてくれて、そのまま手を引いて連れ去ってくれちゃって!なんか少女漫画のヒロインの気分だったよ」
思い出してもなんだか顔がにやけてくる。そんな私に、頼子さんは目を丸くする。
「寛ちゃん、女の子にときめいちゃったの?」
「そうかも……。あのときの冴木さん、ちょっと王子様っぽかったんだもん……」
「えーーー、危険危険!」
私たちがキャーキャー騒いでいると、小林先生が仏頂面で教室に入ってきたので、慌てて居住まいを正した。
でも、本当に惚れ惚れしちゃうくらいかっこよかった。
私を助けてくれた時も、昨日歌っていた時も。
そんな冴木さんが機械音痴だなんて、ちょっとギャップが可愛い。
素敵な曲をいっぱいスマホで聴けるようにしてあげたら、喜んでくれるだろうか?
「ごめんね、せっかく持ってきてもらったのに、そのまま持って帰らせることになっちゃって」
「いやー、平気平気。ちょっと一気に持ってきすぎたのが悪かったんだ」
帰り道。
紙袋を両手に一つずつ下げて歩いていると、冴木さんは「一つ持つよ」と言って、私の手から紙袋を奪う。
偶然かもしれないけど、重い方を。
なんというか、彼女の振る舞いは男子力に満ちている。
道すがら、商店街の案内をする。
あそこの和菓子屋さんは芋羊羹が美味しいとか、そっちの呉服屋さんの縁側のところに、たまにおデブな三毛猫がいるとか、ここのゲームセンターはぬいぐるみが取りやすいとか。
私ばかり喋ってる気がしたが、冴木さんは子供を見守るような目で笑っていてくれた。
そうこうしている間に、家に到着した。
「……紺野さんのお家って、本屋さんなの?」
看板を見上げて、少し驚く冴木さん。
「そう。狭くて汚いけど、入って」
ドアを開いて、中に通す。カウンターの中からお父さんが声をかけてきた。
「おかえり。……お友達?」
「うん。冴木さん。ちょっと前に転校してきたんだ」
「……えらい別嬪さんだね。ゆっくりしていって」
どうも、と頭をさげる冴木さん。ちょっと緊張しているようだった。
「階段、急だから足元気を付けて」
声をかけながら先導する。バックヤードを通り過ぎて、私の部屋の前に案内した。
「なんだか隠れ家みたい」
「よく言われるんだ。もっとおしゃれなお家ならよかったんだけど」
「でも、本屋さんなら本は読み放題?」
「一応ここにあるものならね。お父さんにはちゃんと買って読めって言われるけど」
部屋の中に冴木さんを招き入れる。
畳の上にクッションを置いて勧めた。
冴木さんは行儀よく正座でその上に乗った。
押し入れを開いて、折りたたみ式のテーブルと、ノートパソコンを取り出す。
パソコンは父の仕事用のお下がりだが、私の用途には十分な品だった。
コンセントをつないでテーブルの上に広げる。
「これで、音楽が転送できるんだ?」
冴木さんが興味津々という様子なのが面白い。
スマホを受け取る。
なんとケースも保護シートもつけておらず、裸のままだった。
私のスマホとは接続端子の形が違ったが、父のが同じスマホだったのでケーブルを拝借してきた。
CDの中身はすでにパソコンの中に入っているので、ルーズリーフにまとめておいた曲目をピックアップして転送するだけでよかった。
「今、転送中。かなり数が多いからしばらくかかると思う。本棚の本でも見て待ってて。飲み物取ってくるから」
「あ、ありがとう」
私は一旦階段を降りて、店舗一階の奥にあるリビング、というか茶の間に入った。
冷蔵庫を開けるが、常備しているはずのオレンジジュースが切れていた。
なんと間が悪い。
仕方なく、私は財布を片手に店の外の自販機でお茶とオレンジジュースのペットボトルを買って来た。
「冴木さん、おまた……」
「そうなの。それは大変ね」
私の部屋に居たのは、お母さんだった。
冴木さんと母は二人して正座のまま向い合って座っていて、まるで何かの対局でもしているかのようだった。
「……お母さん、何してるの」
「あ、お帰り。寛、めずらしいわね、他の学校の友達連れてくるなんて」
私の居ない隙に勝手に部屋に上がり込んで、冴木さんと話していたらしい。
「他の学校じゃないよ。冴木さんは転校生なの。もう、また勝手に私の部屋に入ったでしょ」
「洗濯物もってきてあげたのよ」
「もういいから、出てって。ほら!」
私は母の背中を押し出すようにして部屋から追い出した。
「冴木さん、ごゆっくり。なんだったら夕食も……」
「いいってば!もう!」
半ば強引にドアを閉める。
「ごめんね、お母さん、馴れ馴れしくて」
「うぅん、綺麗な人だね」
「そうかな?見た目はあんなだけど、もう完全に日本の主婦だよ。おせんべい齧って昼ドラみてる、みたいな」
「あはは、あ、転送、終わったみたいだよ」
画面を確認すると、転送処理のインジケータが消えていた。
「オッケー。これでもう入ってるはずだよ」
私は携帯からケーブルを外して、冴木さんに手渡す。
冴木さんは恐る恐るミュージックプレイヤーのアイコンをタップして、目を輝かせた。
「すごい、こんなにいっぱい」
「全部私のおすすめのやつ。気にいるのがあるといいけど。あ、冴木さんのスマホは、お気に入りの曲にスターがつけられるんだね」
二人でスマホの画面を覗き込むと、冴木さんの黒髪が肩に触れた。
爽やかなシトラスの香りがした。
「私のはね、ハートマークが付くの」
私がスマホを並べて見せると、冴木さんは興味深そうに眺める。
別々の機種のプレイヤー画面に、同じ曲目が並んでいるのを見て感心している。
本当にほとんどスマホを使っていなかったらしい。
今時の女子高生にしては珍しいが、なんとなく彼女らしいとも思った。
「えっとね、例えば……これとかどうかな?」
私は『Wonderwall』という曲をタップする。
アコースティックギターのイントロが流れ始めた。
ワンコーラス聴き終えて、冴木さんは何度も頷きながら、早速スターマークを付ける。
「かっこいい。ギター一本でもすごく合いそう」
「ちょっとやってみようか。この曲は簡単だからすぐ弾けると思う」
私はギターと楽譜を取り出して、『Wonderwall』をコード確認しながら弾く。
サイレンサー付きなのが残念でならない。
楽譜は冴木さんが開いて抑えて、曲が進むとページをめくってくれた。
二回目のサビのメロディを、冴木さんが鼻歌で重ねる。それだけで少し背筋がぞくっとした。
「うーん……。英語だとすぐ歌えないのがもどかしい」
「そうだよね。あ、だったら、こっちは?一人で練習してたんだけど、歌いながらは難しくて」
冴木さんのスマホを操作して、目当ての曲を再生する。
『リルラリルハ』。
「あ、聞いたことある」
小刻みなエレキギターのリフが印象的な曲だが、アコースティックで再現しても案外様になる。
一回通して再生して、冴木さんはメロディを覚える。
私の方のスマホに歌詞を表示しておいた。
冴木さんはまだ少しメロディを探りながらだったから、私も一緒に歌ってガイドする。
間奏のところの小刻みなスライドが難しい。
ここは要練習だ。
三、四回繰り返し、今度は音源の再生をなくして、ギターだけで試してみる。
冴木さんは女性ボーカルの曲でも音域的には全く問題ないようだ。
イントロや間奏のあとの歌い出しは私が、さん、はい。と声をかけていたが、やっているうちに私の動きや目配せだけで通じるようになっていた。
「音、ちょうどいいかな?高くする分にはカポつければすぐ調節できるからね」
「うん、この曲はこれでちょうどいいみたい」
「寛?ちょっといい?」
母親の声と一緒にノックの音。
返事の前にドアが押し開けられる。
「ケーキ買ってきたから、冴木さん、良かったら召し上がって」
「あ、すみません、わざわざ……」
お盆に載せられていたのはベイクドチーズケーキとショートケーキ。
チーズケーキは私が好きだから選んでくれたのだろうが、母が視線で私を牽制して飛びかせない。
冴木さんに先に好きな方を選ばせるつもりのようだ。
冴木さんはショートケーキの方を選んだので、結果的に問題なかった。
「どうしたの?ケーキなんて珍しい」
「なんとなく朝からケーキが食べたかったの。そこに寛がお友達を連れてきたから、それを口実に買ってきたのよ」
おばちゃんみたいな身振り手振りをつけて母は言う。
「あら、ギター弾いてたの?冴木さんも楽器やるの?」
「いえ、私は全然。だから寛香さんが羨ましいです」
「こんくらい大したことないのよ。ほら、寛、ちょっと貸してみなさい」
「えー、邪魔しないでよ」
ひったくるように私からエレアコを奪う。
Cのコードのアルペジオに乗せてさらりと歌い始めた。
『Yesterday Once More』だ。
昔家族でカラオケに行った時にも歌っていたのを思い出した。
悔しいが、伴奏も歌声も非の打ち所がなかった。
こうして洋楽の弾き語りなんかしていると普通の外国人だ。
中身はコテコテな主婦なくせに。
サビに近づくに連れて盛り上がっていく声と伴奏。
私はこらえきれずに一緒に歌い出していた。
すると、母は上のパートにシフトして、私のメインパートとハモり始める。
隣りに座る冴木さんが息を呑むのが分かった。
私も大好きなメロディだったが、彼女も気に入ってくれたようだった。
ワンコーラス終わると、冴木さんが拍手をした。
私がカラオケでWhateverを歌った時より大きいような気がする。
私は悔しさに歯噛みする。
お母さんはじゃかじゃかとコードを鳴らして拍手に答える。
「紺野さん、私この曲も、歌ってみたい」
ボソリと、冴木さんが言う。
「あ、さっき転送した中に入ってるよ。ベスト盤」
「問題は英語の発音かな……。当たり前だけど、紺野さんもお母さんも、発音綺麗ですもんね」
「あら、そんなの気にしなくていいと思うけど。っていうか、あなた達、デューオゥを組んだの?」
「デューオゥ?あ、デュオね」
「まだ、組んだなんてものじゃないんですけど。紺野さんの弾き語りが凄かったから、私も歌ってみたくて」
「それで。寛が最近ドタバタしてると思ったら」
「そういうこと。だから邪魔しないで」
お母さんからギターを奪い返す。
「……じゃあアドバイスだけ。ストロークだけじゃなくて、アルペジオも覚えた方が良いよ。バラードなら特にね」
「それは……確かに」
「あと、サブパートもね。今のギターだけなら、誰でもちょっと練習すればすぐ真似できちゃうんだから」
「……」
図星過ぎて何も言い返せない。
簡単な曲のコードのストロークだけなら私も三ヶ月もあればできるようになっていたんだし……。
「んじゃ、頑張って。冴木さん、ごゆっくり」
澄まし顔で、お母さんはお盆を抱えて出て行った。
珍しくちょっとはしゃいでいるに見えた。
「お母さん、凄いね。昔やってたの?」
「そうみたい。私がお母さんの古いギター見つけたのが始めたきっかけなんだよね」
「いいな……。羨ましい」
「羨ましい?あれが?」
お母さんが出て行った扉を指差して言うと、冴木さんは躊躇わずに頷いた。
「ほら、こんな身近に一緒に音楽ができる人がいるなんて、さ」
「うぅん、なんか、家族とやるのはちょっとなぁ……」
それより、私は冴木さんと一緒がいい。
あの広い音域と、惹きつけられる声質。
もっと思い切り、何も気にせずに演奏してみたい。
そのためにも、まずは練習だ。
『Whatever』の時なんか比較にならないくらい反復練習しなくては。
私の気持ちを読んだかのように、冴木さんがスマホをタップして『リルラリルハ』を再生する。
私は気合を込めて、手首のスナップを利かせてストロークを奏でる。
それから二時間、私たちは暗くなるまでひたすら練習し続けた。