13.ヒロカ
少しずつストロークの速度を落としていって、始まりと同じGのコードをダウンストローク。
演奏が終わってしまうことを残念に思う自分が意外だった。
乗り切った、ではなく、やり遂げた、と思えていた。
私は自然と、冴木さんに向けて深々とお辞儀をする。
助けてくれたことに対するお礼のはずだったのに、歌を聞いてくれたことと、こんな充実した気分になれる機会をくれたことに対する感謝の気持ちのほうが大きくなっていた。
頭をしばらく下げていると、拍手が聞こえてくる。
たった一人の観客からの、力強くて迷いのない、賞賛の音。
「……すごい。なんていうか……言葉が見つからないけど……本当にすごいよ。一人でこんなに素敵な音楽ができるなんて。紺野さん、すごくかっこよかった!」
「そんな、照れるよ。あはははは……」
こんな風に人に褒められたのは、いつぶりだろう?ずいぶん昔に、しかもお父さんやお母さんにだった気がする。
真っ直ぐな冴木さんの言葉は、やっぱり素直に受け止めることができて心地良い。
変な謙遜をしないで済むし、単純に嬉しい。
笑顔で拍手をし続ける冴木さんを、昨日よりずっと身近に感じる。
頑張って練習した甲斐があった。
「ねえ、冴木さん。私、冴木さんの歌も聞いてみたい!冴木さんはどんなアーティストが好きなの?」
「……うーん、それがね」
なんだかきまりが悪そうに冴木さんは毛先を弄んだ。
「実は、ほとんど音楽とか自分で聞こうとしたことがなくて、昨日紺野さんにカラオケに誘ってもらえて、嬉しかったんだけど、ろくに歌える歌がないやって……」
「そうなの?この前聞いた鼻歌の声、凄く綺麗だったよ」
「あ、いや、あれは……」
頬を染めて両手を振る冴木さん。やっぱり彼女は照れ屋さんだ。
「でもね、一曲だけ一夜漬けで覚えてきたの。上手くできるかわかんないけど、歌ってみてもいい?」
「もちろん!聞きたい!」
「……えーっと、どうすればいいんだっけ?たしか、これで番号を入れるんだよね?」
眉間に深いシワを寄せながら、冴木さんは端末を操作する。
ぴっ、ぴっ、と電子音が室内に響く。
やがて、ディスプレイが一曲目の予約を受け付けて演奏準備を始める。
表示された曲名は、『The Hindu Times』。
「あっ!」
私の歓喜の声は、フェードインする前奏にかき消された。
冴木さんがにこっと笑ったから、私が何を言いたいかは伝わったのだと思う。
私ははしゃいで飛び上がりながら、マイクのスイッチの位置がわからなくて首を傾げている冴木さんにステージを譲った。
ギターをぶらさげたままソファに腰掛ける。
冴木さんは手持ちのマイクで歌うことを諦めたらしく、私がスイッチを入れっぱなしにしていたスタンドのマイクに口を寄せて歌い出した。
想像よりずっと低く、力強い声が部屋の空気を震わせる。
キーコントロールなしで、男性ボーカルの音域で歌ってる。
私のか細い蚊の鳴くような声とは全く違う。
芯があってずしりと来るような周波数。
少し低めなスタンドの前で歌う姿が、プロモーションビデオのボーカルの姿と重なる。
なにこれ……かっこいい。
私は無意識に立ち上がって、手拍子を始めていた。
じっとなんてしていられない。飛び跳ねたい。
頭を振りたい。肩を揺らしたい。私はその全部の衝動に従ったが、それでも足りない。
私は自分の肩にぶら下がっているギターに気づいて、はっとなって指板に指を置く。
この曲もコードだけなら分かる。
原曲キーで歌っているということは楽譜のままで音程はあっているはずだ。
幾つかコードをストロークしてみると、カラオケ特有のちょっとくぐもったような伴奏の中に生音のギターが乗っかった。
「……え、この曲も弾けるの?」
驚く冴木さんに、うんうん、と私はうなずいて見せた。私は膝でリズムをとりながら、感覚に任せてコードをかき鳴らす。
「ま、待って待って!」
慌てて冴木さんがカラオケの演奏停止ボタンを押す。私はびっくりして聞いた。
「どうしたの?ごめん、ギター、邪魔だった?」
「うぅん、違うの。あの、私、それで歌いたい」
「え?」
冴木さんが指差すのは私の真っ赤なエレアコ。
「紺野さんに伴奏してほしい。私も、そのギターの音で歌ってみたい!」
結局それから一時間、私たちは一切カラオケの機械を使わないで音楽を楽しんだ。
『Whatever』と『The Hindu Times』の二曲を、お互い個室の中で汗塗れになって何度も弾いて歌って過ごし、少し火照った顔のまま会計を済ませてカラオケを後にした。
終了五分前の電話を受けて急いで帰り支度を始めてから、割り勘で会計をするまで、私達二人の間には不思議な沈黙が横たわっていた。
左手の指先の心地良い痛みと、まだ少し普段の音量に慣れていない両耳。
どちらからともなく駅の方に歩き始めて、ガラス張りの駅舎の入り口にたどり着いた時、冴木さんが無言で私を振り返った。
長い黒髪が少し遅れて揺れる。
何か言いたそうなのに、うまく言葉に出来ないという顔。私も同じだった。
「楽しかった」なんて簡単に口にしてしまったら、さっきまでの一時間がありきたりな思い出の一つに成り下がってしまいそうだった。
言うならば、衝撃的だったのだ。
私と、ギターと、冴木さん。たったこれだけが揃ったカラオケの個室は、私の知らない世界だった。
私が弾いて冴木さんが歌う。
ギターの弦と彼女の声帯が空気を震わせる。
たったそれだけの現象が私達に特別な経験として、言葉に出来ない気持ちになって共有されていた。
このままだといつまででも見つめ合っているだけで時間が過ぎていってしまいそうだった。
そうなってもおかしくないと思ってしまうほど、私達を包む空気は異質だった。
「あの、私」
沈黙を破ったのは冴木さんだった。
「あのバンドの曲、もっと聞く。聞いて覚えて、歌えるようになる」
「……じゃあ私も、もっといっぱいギター、練習するね」
頭の中で、パチリと音がした気がした。
スイッチが入るような、パズルのピースがはまるような快音だった。
たったそれだけの言葉を交わした会話で、私達を取り囲む世界が明るくなったような気がした。
やりたいこと、試してみたいことをどんどん思いついて、じっとしていられない気分だった。
あれだけ弾いたあとでも、まだまだギターを弾きたくて仕方がない。
自分の演奏に冴木さんの声を重ねて欲しい。
彼女の声に負けない演奏ができるようになりたい。一秒でも早く、一秒で長く練習がしたい。
冴木さんも同じように感じてくれていると、確信を持つことが出来た。
「明日CD持ってくるね。私が好きな歌。冴木さんに歌ってほしい歌、あるだけ全部持ってくる」
「……嬉しい」
冴木さんは目を細めて、本当に嬉しそうに笑った。
まるで子供みたいに、素直に。
胸の中で、どくんと何かが跳ね上がった。
あぁ、もっとこの感覚を味わいたい。
冴木さんが感激するほど綺麗な音色を奏でて、その音で彼女を閉じ込めてみたい。
いけない、なんだかすごく締りのない顔をしていたような気がする。
私は自分を奮いたたせるようにして、冴木さんに別れの挨拶をした。
「……それじゃ」
「……うん」
彼女も名残惜しそうな顔をしながら、駅舎の中に入って行った。