11.ヒロカ
左手に触れる暖かさが心地いい。
何も考えずに眠り続けたくなるような、やさしい感触が指先を包み込んでいる。
ハミングが聞こえる。
私の大好きなメロディ。
『Whatever』だ。
あれ、私、どうして……?
目を開くと、視界の左下あたりに冴木さんの顔があった。
私が目を開いたことに気づいて、彼女は慌てて手を引っ込めた。
「おはよう。落ち着いた?」
なんだか少し照れ臭そうに言う。
自分が大泣きした上に眠ってしまったのだと思い出して、身体中の血液が顔に集まっていくのを感じた。
恥ずかしすぎて毛布で顔を隠す。
この毛布も冴木さんがかけてくれたのだろうか。
なんと言っていいのか、どんな顔をすればいいのか分からない。
できることといえば毛布の中でもぞもぞと蠢めくことくらいだ。
冴木さんがぷっと吹き出して、クスクスと笑い出した。
「……?」
「ごめん、なんだか私たち、変だと思って」
「…………変?」
私、たち?どう見ても変なのは私だけじゃないか。
「そう、変。『おはよう』だって。私、男の子みたい。紺野さんの反応も、なんていうか、乙女過ぎて!」
お腹を抱えて笑う冴木さん。
意外なほどに親しみやすい砕けた笑顔だった。
つい吊られて笑う。
まだ耳が熱いけど、笑ったら体の緊張はほぐれて来た。
毛布から目だけを出して、なおも笑い転げる冴木さんを見やる。
治まったかと思ったら、また私の顔を見て笑いだす。
そんな様子がおかしくて、私もまた、今度は声を出して笑った。
やっと落ち着いて、冴木さんは咳払いをして居住まいを正した。
「あらためて、冴木芽衣です。よろしくね」
「紺野寛香、です。よろしく、冴木さん。あの、さっきは、その、ありがとう……」
「うぅん、なんていうか、災難だったね。あの先生、酷いね」
「……本間先生っていうの。生徒指導担当で、怒らせると誰にでもああなんだ。どんな不良も本間先生とやり合うのは避けるの。何されるか分からないから」
「……見せしめのつもりかもしれないけど、ちょっとやりすぎだよね。何も悪いことしてないのにあんなことするなんて。体罰だとかで問題にならないのかな」
私は驚いて顔を上げる。
「……どうして、悪いことしてないって?」
「だって、どう見ても騒音と喫煙なんて、紺野さん以外の誰かがやったことでしょう?ちょっと見れば分かるよ」
音楽室でのこと、鍵のこと、入部の経緯、先生には全部を話してもあんな結果だったのに、冴木さんは私から一言も聞き出さずに分かると言って、私を助けてくれた。
丸椅子にすらっとした長身を乗せて、冴木さんは足を組みなおす。
癖のある猫っ毛な私は、そのストレートの黒髪が羨ましい。
「あの、そういえば、さっきの歌」
私はずっと気になっていたことを聞いてみることにした。
「さっき?ああ、あれ」
少し照れたように髪をいじる冴木さん。
クールに見えて、話してみると意外なほどに照れ屋さんだ。
「転校の手続きで学校に来てた時に、職員室と玄関で会ったの、覚えてる?」
「……うん」
すごく印象的だったから、と打ち明けたらまた照れるだろうか。私はまた少し笑った。
「あのあと、特にやることもなかったから学校の中をうろついてたの。そしたら音楽室からあの歌が聞こえてきて、聞いたことある歌だったし、綺麗な声だったから聴き入っちゃったんだ。あれ、紺野さんだよね?」
今度はわたしが照れる番だった。
練習初日の音を聞かれてしまうとは、恥ずかしい。
「ねえ、あれってなんて曲?」
「『Whatever』。冴木さん、わたしが言うのも変だけど、渋い趣味だね。あの曲に食いつくなんて」
「どうして?だって綺麗なメロディじゃない」
さらりとした口調で言う冴木さん。
流行りだからとか、ビジュアルがいいからとか、彼氏が好きだからとか、女子高生の嗜好って、そういう本質的じゃない部分に流されがちだと思う。
世の中にはそれ自体が好きなわけではなく、それを好きな自分が好きという人が意外なほど多い。
でも冴木さんは凄く自然体で、それを綺麗だと言った。
彼女の言動には裏の雰囲気の気配がない。
この短時間に、どんどん彼女のことが分かっていった。
私は馬鹿みたいに素直に、この人と友達になりたいと思った。
「あの、冴木さん。さっきは、その、本当にありがとう。冴木さんが助けてくれなかったら、私みんなの前で大泣きして恥かいてたかも。いや、でも私のことはまだ良いんだけど、私一人のためにあんな目立つことさせちゃって、申し訳ないっていうか……」
「私は、ほっとけないと思ったからやっただけだよ。ホントに気にしないで」
大したことじゃないと手を振る彼女の反応は、やっぱり嫌味がなく素直だ。
しかしこのままだと、私は冴木さんとの接点を失ってしまうのではないかと焦った。
彼女のまとう空気は少しドライで、今にも、「じゃあ」と話を切り上げて立ち去ってしまいそうだった。
「冴木さん、何か、お礼をさせて。このままじゃ私気が済まないから」
考えなしに勢いで言った言葉に、思わぬ返答が帰ってきた。
「お礼……?うーん……。じゃあ、そうだ。あの曲、歌ってほしいな。もう一回聞きたい」
五時間目はエスケープしてしまったが、六時間目の数学は出ておくことにした。
苦手科目は穴を開けると後が大変である。
しかし、せっかく授業に出席していても私の頭の中は全く別の内容が支配していて、二次関数の一つも入り込む余裕はなかった。
『Whatever』を聞きたいとリクエストされてしまった。
しかもオッケーと答えてしまった。
約束して、メールアドレスと電話番号を交換した。
とりあえず冴木さんとの関係を継続することには成功したが、代償は大きかった。
いままで誰かの前で、聴かせるために歌ったことなど一度もない。
自己満足のための趣味でしかない私の歌が、果たして本当にお礼になるのだろうか。
そもそも、冴木さんが私の歌を聞きたいと言ったのは本心だろうか?社交辞令だったのではないか?
いや、それは違う。と思う。
彼女はそんな意味のないことを言うような人じゃない。
冴木さんはきっと本当に私の歌を聞きたいと思ってくれたんだ。
彼女の雰囲気にそう信じさせてくれる誠実さを感じた気がする。
そう思うと、もうやるしかない。
やってみたい。
緊張とやる気が比率不明のまま胸の中で膨らんで、なんだか息苦しいような気分になった。
「テストの時になるとわかっていてもミスする場合があります。緊張もあるでしょうし、時間が限られていることもあるでしょう。もうそういうのは、とにかく数をこなして慣れること。考えるだけではなく、感覚でどうすればいいかがわかるようになるまで、反復練習してください」
奇しくも、数学の市川先生の言葉がどうすればいいのかを教えてくれた。
よし、と袖をまくる。開くのは数学の教科書ではなく、楽譜だった。
それからしばらく、私はギターを抱えてカラオケ通いを始めた。
音楽室が使えない以上、思いっきり練習ができる防音の個室といえばここだった。
一人で入店するのが気恥ずかしいのと、なによりお金がかかるというネックのせいで敬遠していたが、今となってはそうも言っていられない。
カラオケの装置は一切使わず、入店すると楽譜を広げてギターを取り出し、二時間みっちり弾き語る。
演奏をスマホで録音してみることにしたが、初めて再生してみて愕然とした。
自分の声が普段と違って聞こえて気持ち悪いのは分かっていたが、何よりリズムがまるで安定していないのだ。
メトロノームのスマホアプリをダウンロードして、原曲のリズムをキープできるようにした。
初めのうちは知らない内にリズムが走ったりもしたが、同じ曲を一日二時間、何日も延々演奏していると自然とテンポが身についてきた。
丸一週間、その特訓を繰り返した結果、最初の録音から見違えるほど上達していることが分かった。
リズムが安定して、コードとストロークのパターンを完全に暗記したことで歌うことに集中できるようになった。
声質はどうにもならないが、少なくとも音程を外すことはない。
ただ少し、シンプルな曲の進行のせいか、曲全体に起伏がなく平板な印象を与えてしまう。
右手のピッキングの強弱を工夫しようとしてみたが、どうも歌いながらは難しい。
あとはとにかく反復練習。
何度も弾いて何度も聞いて、うまく行ったところを残してダメだったところを直す。
お礼として聞いてもらえるレベルになったと納得できるまで、期間にして結局丸二週間、カラオケ代も結構かかった。
少しずつ、反復につれて不安と緊張の比率が変質していくのを感じた。
バッチリ勉強した教科のテストが迫っているような高揚感にまかせて、私は冴木さんにメールを送った。
『明日の放課後、一緒にカラオケに行かない?私、ギター持って行くから』