10.メイ
その日の昼休み、臨時の学年集会が開かれた。
昼休みを潰されたというだけで生徒たちは不満そうだったが、自分に関係のない事件の匂いを感じてか、みんな心なしか浮き足立っているように見えた。
嫌な雰囲気だった。
一年生全員が体育館に集合して整列し、腰を下ろす。
先生の合図で、六人の生徒が前に立たされた。
学年主任の説明によると彼らは軽音部員で、騒音で苦情を受けた上に喫煙疑惑も浮上したそうだった。
創部直後に不祥事とは、下らない。
そんなことのために学年全員が集められたのかと呆れていると、前に並ぶメンツの一番端に見知った顔があることに気がついた。
転校手続きの時に見かけたあの娘だ。
職員室の廊下に立てかけてあったケースのことを思い出す。じゃああれを歌ってたのは多分……。
六人の中にはその娘の他にもう一人女子生徒がいたが、記憶の中の声質と合致しそうなのは、小柄なその娘の方だった。
「一つの部活のために、学校全体のイメージが損なわれる結果になりました。部長とも相談して、生徒たちと先生方に部として謝罪する場を設けようということで、こういうことになりました」
多部先生は額の汗をハンカチで拭いながら、軽音部の面々に目配せを送る。
喫煙なんていかにも無縁そうな彼女が一応頭を下げているのに、他のメンバーはあからさまに不貞腐れていて、態度も適当だ。
入り口の脇に立って様子を見ていた眼鏡にスーツ姿の中年教師が、怒りも露わに軽音部員たちの方に歩み寄る。
男子生徒の頭を手のひらで抑え付けて、無理やり深く下げさせた。
端から順に、全員の体をくの字に折りたたんで行く。
相手が女子生徒でも全く容赦はなかった。
最後の一人だけは、強要される前からしっかりと頭を下げていた。
なのに、その教師は小柄な女子生徒の髪の毛を鷲掴みにして引っ張った。
女生徒の短い悲鳴が漏れ、場の空気がより一層緊張する。
「何なんだこの色。染めた頭下げて謝罪になると思うのかね」
女生徒が痛みに呻く。
その光景に、自分の心音が加速していくのがわかった。
思い出したくもない顔が脳裏にちらつく。
髪の毛を掴まれて自由を奪われる痛みと耐え難い屈辱が、私の中に蘇った。
女生徒は意外にもその先生を真っ赤な目で睨みつけて反抗心を露わにした。
その態度が気に食わなかったらしい先生の手が女生徒の頭を揺さぶって弄ぶ。
私は気がつくと立ち上がって、同級生たちの隙間を縫って歩き出していた。
前に出て、二人の間に割って入る。他校の制服を着た見慣れない生徒の突然の介入に驚いたのか、先生の手が緩む。
その隙にその腕を払って、彼女を私の後ろに匿った。
私の意図に気づいて、表情を険しくする先生。
私はその視線を真っ向から受け止めて、睨め返す。
睨み合う相手の身長は私と同じくらいだが、視線はギラついていて迫力がある。
それでも私は引かない。
数秒の膠着の後私は振り向いて、真っ赤になった目を見開いて驚いている女生徒に声をかけた。
「髪、染めてるわけじゃないよね?あなた、ハーフかクォーターか何かでしょ?」
女生徒ははっとなって、小さく頷く。
「先生、あなたはこの生徒の髪の色だけを理由に暴力に訴えた。これだけでも結構な問題ですが、彼女の地毛を不適切なもののように扱った。これって、立派な人種差別ですよ」
努めて冷静に、でも確かな怒気を込めて、私は言い放つ。
先生が何かを言い返そうとする前に、私は並んで座る生徒たちに向き直った。
「クラスメートの人達は?この子が髪を染めてなんかいないこと、一人も知らなかったって言うの?……なんで止めなかったの?自分が痛くなければそれでいいの?たった一言、言うだけなのに。どうしてこれだけいて、一人もそれが出来ないの?」
数百個並ぶ、鳩が豆鉄砲を食らったような顔。
私は舌打ちをしたくなるような苦々しさを噛み潰して、女生徒の手を取った。
「……保健室、行きましょう」
体育館から出ていこうとする私を制止する声の主は、私の名前すら覚えていなかった。
女生徒の手を引きながら適当に歩いて体育館から遠ざかる頃には少し頭も冷えていた。
……我ながら痛々しいことをしてしまった。
きっとこれでクラスでも完全に浮いた存在になるだろう。
それでも、私は後悔する気はなかった。
引きずるように連れ出してしまった彼女の手を放し、足を止めて向かい合う。
「ごめんなさい……。なんだか見てたら我慢ならなくて。勝手なことしたよね」
目を見開いて私の顔を見ていた彼女は、ぶんぶんとかぶりを振って、蚊の鳴くような声で答えた。
「あ、ありがとう。……助けてくれて」
それだけ言い終わるが早いか、そのまま俯いて肩を揺らして泣き始めた。
かすれた声で、嗚咽交じりにありがとうを繰り返す。
辛いならただ泣けばいいのに、窄まる喉を無理やり開くようにして、お礼を繰り返した。
私の右手の袖をきゅっと握りしめて、泣き続ける女生徒。
私は少し迷った後、その手をそっと握ってあげた。
「……もう大丈夫だから。少し保健室で休みましょう?」
彼女の足元を気遣いながら、並んで歩く。
上靴を見るとつま先にマジックで「紺野」と書いてあった。
スカートも、膝が半分隠れるくらいの長さだ。
ほとんど誰も守っていない校則を律儀に守っているあたりから、真面目な性格がうかがい知れた。
見た目で人を判断するわけではないが、この子がタバコを吸っていたなんて到底考えられない。
ということはあの謝罪だってきっとただのとばっちりだったのだ。
芸楽館そばの保健室にたどり着いて、紺野さんを中に入れる。
幸運なことに保険医は留守のようだった。
二つ並んだベットの奥側に座らせて、私も隣に腰を下ろす。
もう涙は止まったようだが、まだしゃくりあげながら小刻みに体を震わせている。
小柄な体を見ていると、ちくりと胸が痛む。
ほぼ初対面の転校生がどこまでしてあげていいものか、戸惑う気持ちもあった。
だがそれ以上に、過去の自分と直面しているような錯覚を強く感じていた。
できるだけ優しく、背中に手のひらを当てる。
とんとん、と優しく背中に叩く。
昔の自分だったら、きっとこうして欲しいのではないかと思った。
やがて紺野さんの体がゆっくりと私にもたれかかってきた。
海外製のお菓子のような、甘い匂いがした。
しばらくそのままの姿勢でいて、彼女が寝息を立てていることに気づいた。
そっとベッドにその軽い体を横たえて、備え付けの毛布をかけてあげた。
瞼を赤く腫らした寝顔は、同い年とは思えないほどにあどけない。
私が離れようとすると眉根を寄せて不安そうに呻いた。また胸が締め付けられた。
「……大丈夫だからね。目が醒めるまで、ここにいるから」
丸椅子に腰掛けて、改めてその小さな左手を握る。
指先が不自然に硬いことに気づいた。
きっとギターのせいなのだろう。
ほとんど言葉も交わしていないのに、紺野さんがどんな人なのかわかったような気がした。
彼女を助けられて、よかったと思えた。
こんなに純粋な気持ちで行動できたのは産まれて初めてかもしれない。
何故だか長年心にかかっていた靄が薄れたような、清々しい気持ちになった。
手のひらが暖かい。
こんな穏やかな感情が、自分の中に芽生えたことに驚いた。