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涷亰零落

作者: 鳥兜附子

壱.


――川邊步けば、今宵も水面に月が映えていませう。

――草露に濡れて、彼女が影は散り惑いけるや。


 詩人としての才は、僕にはないのだろうか。實際に川緣を步みつつ、そう思うのでありました。

 それでも微風は我關せずと僕の側を素通りするのです。

 草木搖るがす貴方のように、人の心を動かさんと志して三年。遙か遠くの古里(ふるさと)を出でて、東京まで來たものの、新聞社にて随筆やら評論やらを書き續けてしかいないのであります。吹けば飛ぶような稼ぎで日々を暮らしていく。實家にも仕送りをせなばならぬ。幸いにも社長は善人でありまして、時折僕の詩を紙面に載せてくれるのではありましたが、その反響もなく、このままでは立ち行かないのです。最近は、私の感性を刺激するような出來事もなく、ただただ勞働で磨り減っていく心を感覺するだけなのでありました。

 このままではいけない、と思いはします。しかし、太平の世では私を震わす物などみつからぬ。今日も、興味もない學校敎育について、論じるだけの人生。


 突如、風に乘って、一筋の調が耳に流れ込んできました。この唄は、いまラヂオで流行っているそれです。私はしかも、この歌聲の主を知っている。

 閒違おうにも閒違えようがありません。一點の曇りもない、一抹の濁りもない、一粍の歪みもない。どこまでも透明な旋律。川面に彈ける光が笑っている。土手で遊ぶ螇蚸が舞っている。

 彼女は下町の歌姬なのでありました。


「あら、正恭さん。お仕事の歸りですか?」

 私に氣付いた彼女が語りかける聲で、私の意識は現實に引き戾された。

「……いや、一寸、氣晴らしにね」

 暮れかかった斜陽に照らされる彼女は、まるで後光射す天使のようでありました。

 言葉を失う私に、猶、優しい言葉を掛けてくださるのです。

「次の詩集、樂しみにしておりますね」

「ええ、きっと」

 それでは……と彼女は自分の仕事に戾る。

 私も一層、制作に勵まねばと思うのでありました。


 とは言え、こう步いていても、下宿させてくださっている社長のお宅に歸って机に向かい唸っても、作品が生まれないのは事實。


――小川に沿って朝散步

――向こう側から君の歌

――光に


 違う。

 原稿用紙を丸めて投げ捨ててしまった。紙だってそんなに安くはないというのに。

 身近な所に素晴らしい題材はあるのです。ただ、私にそれを描ききる技量がない。それが、どうしても悔しいのでした。

 この感動があるのに、この感情があるのに、言葉が無いせいで、傳えられない。

 言葉でしか、傳えられないのに。

 修行不足を痛感せずには居られませんでした。いい歲をして、こんなにも溜まった心勞を、どのようにして取り除けばいいのかも分からない。私は井の中の蛙だ。大人に成りきれていないのだ。

 感情を言葉にすることも出來ず、淡々と作品を產み出すことも出來ない。こんな私に、詩人を目指すなんてことを言う資格なんて無いこと、分かっている。自分でも分かっているのです。社長の慈悲にも、何時までも縋っていられないことも。


 日は完全に暮れてしまっている。また今日も、何もしていない。これでは遊民と何が變わらないというのだ。東京に憧れてこの町へやってきた時の意氣を忘れてしまったのか。


 とんとん、と襖を輕く叩く音、こんな時閒に一體誰でしょう。

「もう夜も遲くなりました……。あまり根を詰めすぎてもお身體に障りますよ」

 襖の向こうから顏を覗かせているのは、夕暮れ、河原であった彼女――社長のご令孃――だった。

「お孃さん、お氣遣いありがとう御座います。しかし、どうしても、私には書くことしか能が無いものですから……」

 お孃さんはそんな言葉から、私の心を見透かしたかのようにクスリと笑われた。

「良い物は、きっといつか、自然に出來る物でありましょう。今はまだ、辛抱の時なのです」

 私はなにも言い返せなかった。

「何事も體が資本ですよ、正恭先生」

 年相應に惡戲っぽく笑うと、彼女は自室に歸っていったのです。

 私はただただ呆然として、座り盡くしていました。

 この三年閒で、彼女の心優しさには隨分と助けられましたが……。

 この女神のような神性を、叫びたい。

 救濟を、屆けたい。

 遍く大地を照らす春の陽を。

 どうしても。


 今、私に出來ることは、只管に筆を走らせることだけなのでしょう。

 それが正しいと信じて、魂魄の殘響を言靈に映す已而。

 上手く言葉のでない時、私はよく師の言葉を思い出します。

『正恭君、“言葉に出來ない程”という常套句は我々詩人にとっては禁句でありますよ。我々の仕事は、傳えきれない心象を傳える事。ぼんやりとして、しかし確かな、心に浮かぶ朧月を描くのです。』

心に浮かぶ、朧月……私にも、見えるのでしょうか……。




弐.


 結局、夜更かしを重ねても滿足のいく作品は仕上がらず、氣付くと私は朝を迎えていたのでした。

 さて、私がこれから取り組まねばならない仕事は作詩ではなく、社長から命ぜられた初等敎育論。そのために、鄰市の尋常小學校へ取材にいくのです。

 どうにも、社長は日本の敎育はまだまだ外國に比べて劣っている、とお考えのようです。


 放課後の校庭では小學生がかけっこや野球をして遊んでいました。私は彼らを橫目で見ながら、事前に約束を取り付けた匿名の敎員數名から、現狀の不滿足を幾らか聞き取ることに成功したのでした。


 夕日が、叢雲の奧から此方を覗き込んでいる。赤光を浴びる童。

 その成長する先には、あの太陽のように輝かしい未來が待っているのでしょうか。少なくとも敎員達の口振りはそれを期待、否、確信していたように感じられました。

 それとも……それとも、焚火に誘われた蛾のように、眩すぎる鮮光に灼かれてしまうのでしょうか。斜陽射し、翳った宙を舞うのでしょうか……私のように。


 鴉の啼く聲と共に、彼らは段々とその數を減らしていく。その樣は、まるで天の喇叭に招かれているようだ。

 私にもこんな時代があった。あったような氣がする。あった筈です。

 何も知らずに、每日に感動するだけの生活。何も考えずに、何にも縛られずに。

 好きなことを好きなだけ、好きなようにして、家に歸れば、それだけで良かった。

 世界は、己と一對一に相對して、それで完結していた、そんな時代が。


 嗚呼、と合點がいく。

 私も氣付かぬ閒に社會に鎖されてしまったのだ……。


 詩人は、遙か古の吟遊詩人の頃より、凡そ悉く總てから、須く自由であるべきだというのに。

 そんな喉では、振り絞る聲すら出はすまい。

 不自由な心を以てしては、純粹無垢なる月影すらも湖面に亂れる虛と爲ってしまう。


 思わず、私は先生方への挨拶すらもそこそこに、其處を飛び出していました。



 日は落ちて、遠くにいた羣雲が天上を覆い、しとしと降る雨の匂いが、疊のそれと混じり合って飽和しております。


 先ず行うべきは、この不自然に歪曲せられた自己の解放であると。

 しかし、一口に魂の解放と言いましても、一體何處から手を付ければ良いのか、皆目見當もつきません。之は精神上の問題でありますから、屹度、私の心持ち一つでどうにか成るものなのでしょう。

 この價値觀の奧底まで巢喰った呪縛が、相當に根深い物ではあるのだとしても。


 地位も、立場も、世閒も、外聞も、躊躇もなく、眞っ直ぐな言葉を。

 淸らなる想いを素直に、率直に。


 あの麗しき碧空へ羽ばたかせたい。

 視界を烟る冷たい靄を振り拂って、纏わり付く幽界の霧を振り解いて、軈て訪れる柔らかな春の陽に、羽根を廣げたい。

 雙の翼に降り注ぐ溫度を感じて、鳥籠を叩き壞して、飛び出したい。


 假令、其れが蠟造りの模造品だとしても。


 さすれば、私の詩もきっと美しい物になるのではないでしょうか。



 素直に。

 自分に、素直に。


――ただ、貴女のその輝きに憧れるだけでありました。

――鄰人を觀衆として催される可憐な舞臺。

――燦々と笑う貴女を中心に、町は明るくなっていく樣でした。

――正しくこの町の看板娘と言うべき貴女に


……貴女に、何だというのか。


――私は、いつの閒にか

 違う

――一目見た、その瞬閒から、惹かれて行きました。

――どうか、私を愛しては下さいませんか。


 これが、これが私の本音。詩ではない。これでは單なる戀文ではないか……。

 蕭々たる雨音に齎された物は、少しの達成感と微睡み…………。




参.


 やおら落ちる一葉の何かを切缺に、私の目は覺めました。

 そして、あっ、という聲。

 寢ていた私の上に、つい落としてしまったのでしょう。

 頭を上げて、周圍を見囘すと……慌てた樣子のお孃さんと目が合ってしまいました。

「あっ……正恭さん……これはその勝手にお部屋に上がっているのには理由が御座いまして……」

「構いませんよ。どうせ、私が洋燈を消し忘れていたのでしょう?」

 昨晚は考え事をしている閒に、机に伏して寢てしまったと記憶しています。

「はい……」

「申し譯ありませんね。態々消しに來ていただいて」

 私は、私の顏に落ちた紙を拾い上げ……

 これは、寢てしまう直前に認めた、お孃さんへの懸想そのものではありませんか。

 選りに選って最も見られてはならないその人に、讀まれてしまうとは。

 私は其れを確認した刹那に、隱してしまおうとしましたが、時旣に遲し。

 覆水盆に返らずとはこの事です。

「あの……その……そこに書かれていることは……」

 恥ずかしさに若干目を逸らしながらも、こちらを覗き込む彼女は、私に目で訴えているようでした。

「…………」

 逡巡する。

 彼女は、私を嫌惡するだろうか。

 邊境の田舍から單身やってきた私を可愛がってくれた彼女の父の好意に甘え、職を與えて貰うに飽きたらず、宿と三度の食事まで戴いておきながら、その上彼女自身までも强慾に冀う私を、輕蔑しないだろうか。

 しかし、ここで噓を吐いては何も變わらない。

 私は產まれたばかりなのだ。死を迎える前の決心を、無駄には出來ない。

「ええ。私の本心です」

 屹度これは、私が私で在る爲の、とても大事な試煉なのだろう。

「……何とお返事させて頂ければ良いのか……その…………」

 私は固唾を飮み込んで、聞き惚れるしかなかった。

「ありがとうございます、以外に何と言ったら良いのか…………」

 はぁ……と大きな、とても大きな溜息が口から漏れた。

 謀らず、自分が思いの外緊張していたことを知る。

「昔から、正恭さんのことお慕い申し上げておりました」

 なんと言っても、私は正恭さんの愛讀者第一號ですから

 そう言って、彼女は照れ笑いをしました。

 春先、まだ少し寒い中一番に咲く、見過ごしてしまう程に小さな花のような幼氣な笑顏に、心ノ臟が搖さぶられる思いがしました。

 薄紫の霞手が胸骨を摺り拔けて、私の心をぎゅっ、と締め上げて居るのです。

 强く打つ拍動はぐっ、と押し込められて、それに反抗する音が頭蓋で反響しています。

 どくどく、と。

 血が昇って、響きが激しくて、視界の搖らぐ眩暈。まだ點けたままの洋燈の明かりが浮動して、私の平衡は橙に溶けてしまったようなのです。

「大丈夫ですか、正恭さん」

 薄くぼんやりと聞こえるも、私の腦は外部情報を處理しきれない。

 上體がぐらり、と傾く。

 きゃあ、と小さく悲鳴を上げるお孃さんを下敷きにして、私は蒲團に倒れ込んでしまいました。

 顏が、近い。

 どこからともなく鼻腔に充滿する、蜜のように甘い馨りに、腦髓の奧まで融けてしまいそうです。

 お孃さんは著物の袖で顏を覆って、表情を隱してしまわれた。

 橫顏は、時々刻々と變化する仄赤い光に照らされて、濡羽色に流れる髮の隙閒から覘く、白磁の項が、艷やかに私の視覺を刺激しています。

「私は……私はもう、抑えられそうにありません」

 小さく呟いただけの筈であったその音は、いつの閒にか雨も止んで靜寂に包まれた部屋に、いやに大きく響いたのでした。

 私の言葉が屆いたのか、彼女は流し目で此方を見返し……淡く頷いたのです。

 刹那、頭の中で釦が押され、理性が途切れる音がしました。

 私は無我夢中でお孃さんと唇を重ね合わせました。嘩尼拉のように甘く、檸檬のように涼やかな風味が私を滿たし、繫がり合った二人はお互いの官能を確かめ合いました。


 そして、萬象から解き放たれた夜の獸は、朝日がそれを驅逐するまで、柔き肢體を蹂躙し、貪食したのでありました。




肆.


 氣付くと、外はもう靑くなっていて、雀が互いを呼び合っている。


 鄰には愛すべきお孃さんの寢姿が見えておりまして、一人、嗚呼、之が幸福と謂う物なのか、と合點のいく所なのでありました。

 吹き拔ける靑天井に、私の創作意慾も高まりを感じ、朝食も攝らぬまま、机に向かい、新たに詩を認めます。

 氣持ちの惡い程に氣持ちよく筆が進み、直ぐに數篇の詩ができあがりました。淸々しい晴天のような詩は、私自身から見ても最高の出來で、丁度開催されていた詩作の賞に應募することにしたのでした。


 日中は、運の良いことに、記者としての仕事で用が出來たので、路面電車に乘り東京市の中心へと向かっています。

 市内の有名な私塾では海外の良い敎育方法を取り入れ始めている、という取材の序でに、詩人の集まる喫茶店があるというので、そこで少し、他の同業者の方々と話をしてみたいと思ったのです。自分に自信がでたから、なのかも知れません。

 大通りから一本裏に入った路地沿い、鈴の音に迎え入れられて、その喫茶店に入ると百家爭鳴の喧噪が響いていたのでした。


「初めまして、新人さんですか」

 入り口近くにいた常連客らしき方が、足が竦んだ私を見かねて話しかけてくださいました。

「初めまして。まだ地方新聞で載せて頂いている程度ですが、一應詩作の方を……」

「おおっ、私らなんて、まだ自分の端書きにしか載ったことのないような無名ばかりですよ」

 彼は大仰に驚いた。

「一應あの奧にいる大柄の彼は、今年ある文學賞を取れそうなのですけど、その程度ですね」

 なぁ、畠山くん、と有馬さんが呼びかけると、大柄の男は體格に似合わず人見知りなようで、こちらに少し會釋すると、そそくさと姿を隱してしまった。

 有馬さんは、少し困ったように含羞みました。

「あ、御挨拶が遲れてしまいましたね。私は有馬といいます。一應、この集まりの主催をさせて頂いています」

 人懷っこい笑みだ、と思いました。

「小笠原と申します。宜しくお願いします。」

 同じ道を目指す物同士、私達は直ぐに意氣投合しました。

 似たような惱みで共感し合い、互いに自作の詩を讀み合い、襃め合い、とても樂しく有意義な會でありました。

 特に有馬さんは話を囘すのが上手く、彼の作品にもその氣遣いの纖細さがよく表れていました。


「本日は、どうも有り難う御座いました」

「いえ、また、是非いらしてください。新しい風は、いつも私達の意慾を向上させる」

「そうおっしゃって頂けると、非常に嬉しいです」

「あっ、そうだ。確か、最近あまり書けないと惱んでらっしゃいましたよね」

 そういえば、そんな話をした氣がします。

「實は、私の親が貿易商をしておりまして……いま歐羅巴で流行している飴玉を仕入れてきたのです」

「飴玉……ですか」

「ええ。昔から、砂糖は腦の榮養と言うでしょう。この飴玉を舐めると、本當に集中力が增して、よい作品が書けるようになるんです」

 私は少し疑念を抱きましたが、續く

「あの畠山くんも、この飴を使いだしてからぐんぐんと評價が伸びてきてね」

 という言葉に、流石に興味を覺えざるをえませんでした。

 結局、錻の罐に入ったそれを、私は貰い受けてしまったのです。自室に持って歸り、洋燈の明かりに透かしてみて、匂いを嗅いでみても、別段怪しい物のようにも見えませんでした。


「正恭さん、今少しお時閒、よろしいですか」

 襖の向こうから私を呼ぶ、お孃さんの聲がしました。私は慌てて、手元の飴を罐に押し込み、その罐を、戶棚の奧に隱しました。

「え、ええ。大丈夫ですよ」

「失禮します」とお孃さんは、襖を開けて私の部屋にいらっしゃいました。

「貴方樣にお話申し上げたい事が御座いまして……」

 彼女の聲を聞き、彼女の姿を見るや否や、昨晚の嬌聲と妖姿媚態を思い出し、赤面せずにはいられないのでした。

「なんでしょう、言ってごらんなさい」

 と言うと、彼女も恥ずかしさがあるのか少し目を背けながら話し出しました。

「昨日もいつものように歌を口遊みながら、お手傳いをしていたのです。そうしたら、知らない男の方に話し掛けられて……」

「大丈夫だったのかい」

「はい、その方が、實は有名な事務所の方で、是非、歌手として賣り出してみないか、と……」

 彼女はあまり話したがらない樣子でした。そして、私は思いの外、動搖してしまっていたのでありました。

 職業歌手として賣り出す。それは屹度、舞臺女優に憧れていた彼女にとっては夢のような話なのでしょう。喩えるならば、私が文壇に上げられるようなもの。しかし、彼女は素直に喜べておらず、何かと葛藤をしているようでした。

「何か、問題があるのかい」

「若し事務所に所屬するとなると、每日の練習や日程管理の爲に、入寮せねばならないらしいのです……」

「そうすると……」

「はい、そうすると、貴方樣と離れ離れになってしまう事に……」

 氣丈な彼女は決して淚を見せはしませんが、いま、哭き叫びそうな程に惱んでいるのは、側からも容易に見て取れるのでした。

「折角……折角結ばれましたというに……あんまりです……」

 私に、私に若し事務所近くに家を買えるだけの收入があったなら……若し私が人氣ある作家だったら……そういう事ばかり頭を巡ります。

 しかし、彼女の夢長年のを此處で諦めろ、と今も夢を追う身である私が言える筈もありません。

「私は、きっと文豪に成って貴女を迎えに行くから、それまで、少しの閒待っては貰えないかね」

 これが私の示せる精一杯の誠意であります。

「ええ……わかりました」しかし彼女は少し淋しそうに微笑んだのでした。

 私は、選擇を誤ったのでしょうか。


 直ぐに、お孃さんの引っ越しは決まりました。

 と言っても、殆ど荷物も無いので、大きめの鞄に全て詰め入れて、單身、大都會へと繰り出すのでした。

 最後の日まで、每日、二人で夜更けまでお話をしました。

 將來のこと、夢のこと、好きな御菜のこと、他愛もないこと、、、そんな事ばかり。

 貴女の色々な表情を見たくて、燒き付けたくて、お話しました。勿論、每晚、終夜彼女と枕を共にし、その羞恥に歪む恍惚すらも、幾度となく。この惜しむ感情を忘卻という暴力から守り拔く爲に。其れは屹度、貴女の方でも同じだったのでしょう。目を細めて訝しみ、にやり口角を上げて惡戲をし、破顏する貴女を、失いたくなかった。

 電車で行けば直ぐの所ではあります。しかし、多忙な貴女には逢う時閒すら赦されないでしょう。

 それに……いや、これ以上は考えたくありません。




伍.


 お孃さんが行って了われた後、私は、一層件の喫茶店に通い詰めるようになりました。

 氣の置けない相談相手であった彼女の不在は、豫想していたとおり、否、それ以上に私の心に空虛を齎したのでありましょう。そのぽっかりと開いた黑い穴を少しでも埋めるために、私の足は自然と、其處へ向かっていたのであります。

 私は、未だ有馬さんから戴いた飴を食べてはいませんでしたが、其處にいる者の中には、彼の空閒で執筆をしている者もおり、更には私の目の前で其を食する者まで居たのであります。

 然らば、私の穩やかな知的好奇心が珍しくも頗る興味を唆ることも致し方あるまい。

 何より、有馬さんはとても優しい方でしたので、私の事を氣に掛けて下さった、という思いが强くありました。東京市の中心部は非常に怖い所でありまして、初見の方からの貰い物などは普通訝しむべきなのでしょうが、私の心は、それ以上に、その魔法の藥を試してみたいという氣持ちで滿たされていたのです。

 幸いにも、明日は終日用事はありませんので、創作活動に精を傾けられます。寢る前に少し……ほんの少し。眠氣を覺ます爲に、薄荷……なのでしょうか、白く半透明な飴玉を、口に含みました。

……甘い。

 飴なのですから、甘いに決まっています。西歐の上質な砂糖を使っているのでしょうか、口溶けがよく、美味しい飴でした。薄荷の淸涼感も合わさり、急激に目が覺めて行くのを感じました。

 五感が冱え渡っているようです。すごい、と素直にそう思いました。

 心臟が早鐘を打っていて、體の奧底から無限の活力が溢れんばかりに湧き出ているのを、ひしひしと感じています。

 何か無性に叫びたい氣分であります。勢いに任せて筆を走らせると、山のように言葉が躍り出てくるのです。

 寡默な私の心が、竟に產聲を上げてくれたような氣がしました。

 四肢五體が綜合として神經束そのものへ置換せられたような銳敏さが在りました。

 風が戰ぐ度に、“冷たさ”という槪念に軀が掩われるような、脊髓に氷柱を突き立てられたような、そんなような感覺です。


 革命的に進化した私は、そのまま三日三晚と文字通り飮まず食わずして筆を執っていました。


 流石にあの飴が尋常ならざるものであるとは理解できました。


 倂し、頭の中の知らない領域から出てくる洗練された文章はとても魅力的でありました。

 自分でも不思議に思います。

 このような表現、一體何處の誰が考えついたのでしょうか……それは紛れもなく、私なのですが。

 彼の飴の效能は凄まじく、原稿料を稼ぐという經濟面でも、休まずに働けるという肉體面でも、書こうと思えばいつでも書ける餘裕という精神面でも私を安息させました。

 つまるところ、私はすっかり、身も心もあの邪惡な飴玉の虜になってしまったのです。


 そしてやはり、夢のような三日閒が過ぎた後は、夢のような……夢は夢でも惡夢のような、刻が訪れたのです。


 全身を苛むのは無盡藏の倦怠感でした。蒲團から立ち上がることは疎か、呼吸するために肺を動かすことすら億劫なそれであります。

 ああ、きっと今までの疲勞がでたのだろうな……三日三晚と晝夜問わず作業をしていたのだから仕方ない……。

 そう思って休もうにも、どうしても、“あの覺醒”を忘れられないのです。

 思考の奧底で魔性が、私に囁きかけるのです。

「飴さえ舐めれば、この苦痛もすっかり消えてしまうのではないか」

「三日に一度くらいなら、大して問題もないだろう」

 そう、何度も何度も、呼びかけるのです。

 苦しい。

 苦しい。

 ……淋しい。

 そう思ったときには旣に、私の舌は、あの冷感を摑んでいたのでありました。



 錻罐はすぐに空に成ってしまいました。

「有馬さん、その……とても言い難いのですが」

 彼に相談しようとすると、彼は頬を弛めました。

「飴のことでしょう、氣に入って頂けたようでなによりです」

「あ……その、あれは一體……」

「飴です。元氣になれる、飴ですよ」

 彼の相好は崩れません。彼はもしかして、とても危險な人閒なのではないか、と遲ればせながら、私は思い始めました。

「實は手元にありはするのですが……」彼は店の奧から見覺えのある黃銅色の罐を取り出してきました。

「此方も商賣ですから、無料で差し上げる、ということも中々……」

「っ……」と私は唇を噛んでいました。豫想していたことではありましたが、やはり、お金を拂ってあれを買う、という事實は私に罪惡感を植え付けるに充分すぎました。

 それでも、あの絕望的な倦怠感はどうしても、避けたかったのです。

 そんな生活を續けていると、當然すぐに變化が起こりました。

「正恭くん、最近あまり食事を攝らないみたいじゃないか……まぁ、あの娘が行ってしまって寂しい氣持ちはわかるが、體が資本だよ。頬が瘦けてきているように見える。ちゃんと食べなさい」と、社長から諭されてしまいました。確かに、どうにも以前より瘦せているようにも感じます。

 ただ、“あれ”の效果中はどんな食べ物も美味しく感じられないのも事實ではあります。


 やはり、一度しっかりと斷つ必要があるのかも知れません。




陸.


 一方、創造性と作業效率が强化されたからでしょうか、私の體調とは反比例して、仕事は萬事快調に進んでおりました。中央の大きな出版社から、小さな連載を頂き、そこで評論のようなものを書かせて頂けることになり、私は定期的に中央に通い始めました。

 それは彼の喫茶店へ通う頻度に拍車を掛けましたし、また、街中でお孃さんを見かけることも……ありました。

 お孃さんは、小洒落た店へ高級そうな背廣と時計とを身につけた男と二人で、樂しそうに入っていったのでした。

 また、或る日は、二人で路面電車に乘っていたり……。

 氣が狂いそうでした。

 私はこんなに苦しんでいるというのに、貴女は……貴女はっ!!


 全ての笧から目を逸らすために、結局また魔法に賴ってしまうのです。


 その時だけは、私は自由の身でした。


 倂し、あれの魔性は、それだけではなかったのです。

 最後の決め手となったのは、お孃さんが家をでてしまってから一月程後の事でしょうか。

 いつも通り、有馬さんの所へ向かうと、閑靜なその店は、いつもと違い賑やかでした。

 薄い壁の向こう側から、なにやら騷がしい聲が聞こえてくるのです。

 どうしたのでしょう、と訝しみながらも戶を開けると、眼前に廣がっていたのは、饗宴でした。


酒池肉林。


 そう形容した方が、より本質を捉えているのではないか。

 普段、男ばかりだった店内には、一絲纏わぬ姿の女がいくつか轉がっていて、牀は種々の液體が水溜まりを作っていました。牀に臥している女達は皆白目を剝いており、氣を失っているようでした。

 猥りがわしく澱んだ空氣、そこかしこから獨特な臭いが漂って來て思わず噎せてしまった。

 私の咳拂いの音で氣付いたのか、奧の牀で女を組み伏せていた有馬さんが、いつものように……全くいつものように、その顏に薄く笑みを貼り付けてやって來たのです。

「なんだってこんなこと……」

「お見苦しい所をお見せしてすみませんねぇ」

 私の言葉を遮り、胡亂げに言う。全く濟まないとは思っていないようである。

 まだ店内には私を氣にも留めず(氣付いていないのかも知れないが)一心不亂に營んでいる者ばかりである。體と體がぶつかる音、黏液が溢れ零れ跳ねる音、言葉に成らない荒い息遣いが、厭でも耳に入ってくるのです。

「正恭さんも、お一つどうです。忘れられなくなりますよ」

「い、いえ、そんな……」

 私は未だ、彼女との綺麗で淸廉な思い出を穢したくはなかった。

「そう遠慮しないでください、最近ご無沙汰なんでしょう」

 ……どうして私生活を。

「それに……この空氣をそれだけ攝取していらっしゃったら、もう我慢は出來ないでしょう」

 この臭い、あの飴の……。そういえば、あの飴を舐めた時は、色慾を持て餘していたようにも思えます。今の今まで、お孃さんの居ない寂しさの所爲だと思っていたのですが……。

「ほら、女ならその邊に轉がっているのを使えばいい。どれも上等な若い女ですよ。唆るでしょう」

 彼は一人の髮を摑んで引き上げ、私に向き合わせた。

 まだ若い女だ。だらりと開けた口の端から唾液が毀れている。肌理の細かく張りのある肌が、汗や體液に塗れて、照明を反射している。

「もう完全に出來上がってますからね」

 ぱっ、と摑んでいた手を離し、地に落ちた彼女を、古くなった玩具のように足で蹴り轉がし、下卑た笑みを貼り付けて笑っている。

 いま、私は確信した。漸くです。自分の人を見る目の無さに惘れすら出來ない。

 これは、惡魔だ。

 私はどうやら、惡魔に魂を捧げてしまったらしい、と。

 全ての狀況が腑に落ちるようでした。

 店に犇めいている、ただ呻いて快樂を吐き出すだけの肉塊を見て、忌諱の感情しか浮かびませんでした。

 あんな下等生物と一緖にしてくれるな、と詩人としての精一杯の矜恃が叫んでいます。

「大丈夫です。それは異常なことではありませんよ」

 彼は私に耳打ちします。

「剩りの快に失神してしまったものを見て、忍べる譯がありませんよ。人閒は、人閒であるよりもずっと以前から、動物なのですから」

「自分でも鼓動の昂ぶりを感じているのでしょう。もう惱むことなどありません。さぁ、樂に成ってしまいましょう」

「本能のまま貪るのです」

 彼の言葉がそれほど廣くもない店内に反響していきます。

 催眠でも掛けられたかのような、足元の覺束ない私の閒隙に、甘言がじっとりと染み込んでくるのです。

 崩れかけの理性が其れを拒否しても、私の慾求・衝動は、麗らかな女の裸體を見て、忍耐の限界に達している。

「自分に素直になって」

 擊鐵の打ち下ろされた音がしました。

 楔の千切れた音だったのやも分かりません。

 どちらにしろ、同じ事です。


 そうだ、私は自由。


 丁度目を覺まし起き上がった人型に、私は襲いかかっていました。


 其の見知らぬ女に覆い被さると、驚く樣子も無いどころか旣に蕩けた目をしていて、私はすぐに常習者だ、と感じました。彼女も又、“私が誰であるか”を問わないのです。自分が快感を得るための道具としてしか、男を認識していない。

 だから私は、一切の遠慮をしませんでした。客觀的には結ばれていても、結局の所お互いに、自分の事しか愛していないからなのです。私は少し、先ほどの有馬さんの行動が分かったような氣がしました。

 そんな私を、素面で交わった時とは比較にならない程の氣持ちよさが襲いました。

 全身に電流が流れて、氣を拔くと、私の腦は白霞に呑まれ、意識が遠のいてしまいそうなのです。一擧手一投足、全てが鮮やかな金色に緣取られて、熾烈な情報の海に、何も考えられなくなってしまいます。危險を感じました。でも、止められない。相手の體は蛙のように斷續的に跳ねて、口からは泡を吹いていました。

 痙攣し續ける彼女に、一切の遠慮無しに、私は自分の精をありったけ、叩きつけたのでした。


 人は誰しも、人閒であるずっと前から動物である、とは良く言ったものだと痛感しました。

 口ではどんな綺麗事を言おうが、頭の中でどれだけ潔かろうが、苦痛を避けて快樂を求める根本性質に變わりはないのです。

 飽きず肉を喰らう私は、あまりの悅びに朦朧としながらも、そんなことを考えていました。

 逆に言えば、こんな事を考えながらも、體はずっと目の前の性を食い散らかす事から離れられずにいた、ということであります。

 野蠻な、實に野蠻な獸性でありましょう。


 楚々としてお淑やかであった彼女の記憶も、今はもう、濃霧の向こう側へ隱れてしまいました。




柒.


 この日を境に、私は耽溺の坂を勢いよく滑落していく事と成ったのです。

 腦は、經驗したことのない亢奮と愉悅を忘れられず、或る種の感染症に罹患する危險があることも重々承知で、繰り返し繰り返し、彼の地で淫靡を求めました。

 段々と使用量も增え、最早飴玉では效かなくなり、葉卷に紛れ込ませて吸ったり、直接注射をしたり、自制が效かなくなっても居ました。

 私には、之しかなかった。止めてしまえば詩も書けない、お孃さんも盜られてしまった。

 私には何もない。

 私が自由だからか。

 自由とは、こんなにも不自由なものであったか。

 この頃になると、藥の裏の働きが目立つようになりました。

 時折、體中の神經に、氷の刄を突き立てられたような痛みが走るようになってきたのです。

 思う儘に成らぬ苛立ちから、ほんの些細な事で暴れることが多くなってきました。それは自覺をしていました。以前の私はもっと泰然自若としていたように思います。

 詩人らしく、萬象とゆったりと對話し、その魅力に語りかけていたからです。それも出來なくなってしまった。

 解れた絲を撚り合せるように、散逸して纏まらない思考をどうにか言語化するように努めること已而。

「果たしてそれは詩であるのか」

 疊が私を嘲笑うのです。

 巫山戲るんじゃない!疊如きに俺の苦しみが分かってたまるか!!

 鉛筆が俺の手を刺してこう言う「どうだ、注射器を打つ時の氣分はこんな感じか?氣持ちいいか?」と!よもや文房具風情に諷刺されるとは!

 これでもか!これでもか!!俺の氣持ちが!!!身を裂かれる激痛が!!

「これでもかっ!!!!」

 己の聲で我に返ると、私は一心不亂に手持ちの鉛筆を全て叩き折っていました。

 息を切らし壁に靠れて呼吸を落ち著けなければ。自分で自分が怖くなる、とは正にこの事です。自分が何をやっているのか、制御できない。自分の意識も、感情も、この手を離れてしまったようでした。

 それも當然と言えば、當然のこと。だって私は、惡魔に魂を賣ってしまったのですから。

 恨みと詛いの音が私を襲うこの部屋では生きていられない、そう思い、私は飛び出しました。


 日光に當たり、川邊を散步すれば、そうすればきっと少しは良くなるのでは、と樂觀していました。

「あの人目つきが……」

「なんかおかしい人……」

 現實は非情なものです。道行く人々が私を指さして笑っているような氣がするのです。

 狗は私にばかりよく吠えるような氣がする。

 餓鬼が俺を小馬鹿にしている。默れ。

 ……さっきから何かに尾行されているような氣がする。

 隱れるところがあるはずもない川岸だが、確かに視線を感じる。この煩い羽蟲はもしかして祕密警察の盜聽器なのではないか。そう思うと、居ても立ってもおられず、私はその蟲を掌で叩き潰すのに必死だった。

 相當に滑稽だったのだろう。

 近所の奧さん方が集まってきた。

 はっと正氣に歸った私は怪しまれないように、そそくさとその場を立ち去りました。

 一體私は何をやっているのか。

 暮れかけた日に、感傷的な私は水切りでもしようと、土手を下りました。

 手頃な石を拾おうと水面に視線を降ろすと、


 そこに寫っていたのは死神でした。


 紛れもなく、冥府の者です。此岸の存在では、ありませんでした。

 落ち窪んで翳った眼窩に腐った目、瘦けて皺のよれた頬、膿んで蕩けた齗と溶けた齒、半ば拔け落ちた毛髮に、異常に汗を掻き、而して爛々と瞳孔だけが擴散している樣を、死神ではないとすればどう形容すれば良いのか。

 腦の爛れた私では、それ以上に的確な言葉が見つかりませんでした。

……朧月は、とっくに穴だらけでありますよ。


 私は決心致しました。




捌.


 以外にも、整理は直ちに終わりました。

 これまでに書いたものなど、ちり紙以下の價値しかないことなど、本人である私が承知していたからでしょうか。


 我ながら、よく此處まで不審がられて通報などされずに來られたものだと思います。

 深夜、もう開いていない喫茶店に硝子を愼重に碎いて忍び込むと、私は、この手記を書き始めたのです。

 漸くではありますが、現況の說明をできて、大分安堵しております。

 なぜなら、もう、私の周りは手の施しようのないほど火の手が囘っているからです。


 そう、私はここに火を點けました。


 彼の行動から、殆どの藥がここに仕舞ってあるのは明らかだったからです。これ以上、私のような災禍に殺される人のいないように。


 いえ、第一には、私にはもう、貴女に逢わせる顏がないから、でありますね。


 屹度もう、私のことなど忘れてしまっているのでしょうけれど……それでも、貴女をこんなにも想った男が一人、同じ世界、同じ時閒を驅けたことを認知しては下さいませんか。

 私は、都會の垢拔けて洗練された、恰好のよい男なんかには到底及ばない田舍者ではありますが、貴女への想いの重さだけでは負けないつもりであります。

 ……あれだけの恥辱に塗れた上でいうことではありませんけれど。


 夜鷹ですらなく、星にも成れないよな薄汚い俺が、金絲雀のように美しい貴女に戀い焦がれてしまったんだ……。暗い洞窟の中から、薄明かりを臨めればそれで良かったのに。

 だから、目映すぎるその煌光にこうして然え盡きてしまうのも、全く以て道理に適っているのです。

 蓋し、僞物の翼では世に舞い踊れないという事なのでしょう。

 幾ら飛ぶことが好きな蝙蝠であっても所詮は蝙蝠、鳥の眞似事は出來ても、白晝堂々と蒼天を闊步すること能わず。

 私は、詩人擬きであったのです。

 ですから、陽炎に灼かれ、蠟の翼を熔かして墜ちるのは、私に相應しい死に樣なのでは無いでしょうか。

 煙で頭が鈍っているはずなのですが、不思議と藥が拔けて思考を取り戾しているように感じます。煉獄の苛烈なる炎で、憑いていた惡鬼が落ちたのでしょうか。

 いずれにしろ、今なら、辭世の句の一つや二つほど讀めそうですね。

 この折れた鉛筆が盡きぬうちに、焦げた天井が瓦解する前に、書ききってしまいましょう。



『自ら送る挽歌、貴女へ送る相聞歌』

――我が身に淨化の焦熱來たれ

――厭離穢土

――白煙に五里霧中

――懺悔を重ねた

――欣求焦土

――唯、其の道を、我が命に換えて祝福を

――砂漠に落ちる極小の粉雪のように

――虛構に輝く一粒の眞であると

――それだけが我が譽れであると




玖.


 私の活躍を、正恭さんにも是非見て慾しかった……。

 知ってるかしら。今日で、貴方を失ってから一年が經つのよ。

 早いものね……。

 事務所の寮で每日嚴しい特訓をしているお陰で、最近はラジオにも呼ばれるように成ったのよ。凄いでしょう。

 此處まで來たんだもの、屹度全國に名を轟かす歌手になりますわ。

 それに、遺作として發表した正恭さんの作品も、段々と評價され始めてますのよ。俄雨のお蔭で、最期の手記が殘されたのは、本當に良かった……。

 だから……だから、いなくなったりなんてしないで…………私だって……。

 下唇を噛み締め、面を上げて、私は立つわ。

 弱音は吐かない。私は、貴方に贖罪しなければならないのですから。

 正恭さんをひとりぼっちにしてしまったのは、私の責任だから。

 ただ、本當に、背廣の方とは何も無いのよ。

 あの方は、ただの會社の方なの……何度も言っていますけれどね。

 私の不貞は、その汚名だけは晴らしておきたくて。

 私は貴方しか知らないし、知りたいとも思わないわ。


 喪服に身を包んだ若き婦人は、黑曜の墓標に佇む。


「そろそろお時閒です。收錄の時閒が……」

「分かっているわ」

 忙しそうに、彼女は車に乘り込み、仕事に向かう。

 背廣を著た彼は運轉席に座り、彼女を送迎する。いつものことだ。

「はぁ……」

 彼女は最近、酷い頭痛に惱まされている。原因は多忙と、愛する人の死による心勞だろう。

 運轉席の彼は人の良い、薄い笑みを口角に貼り付けて、收納から金屬の罐を取り出した。


「いま西洋で大變人氣のある薄荷飴です。お疲れでしたら、一つ如何ですか」









(了)

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― 新着の感想 ―
[良い点] ・これを最後まで書き通した作者の熱意。 ・これをツイッターに晒す作者の度胸。 ・なんか心に朧月が浮かんできた。 ・チンコのことを「萬象から解き放たれた夜の獸」と表現したあたりで爆笑した。 …
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