夢の空似
(一)
人生の三分の一は夢の中である。
それならば夢の中を起きている様に楽しんだって良いだろう。
いつからか、私は明晰夢のような物をよく見るようになった。
おそらく、失敗から逃避し始めた時からだろうか。
自分で夢であると自覚している、それゆえにどうせ夢ならば、とその中を謳歌しているのだ。
現実での失敗した出来事を夢の中で成功させる。
または、振られたあの人に、亡くなった恩師に、空を飛んで、海を越えて、どこかも知らない異国へ、そんな夢を見ているのだ。
と言うよりも、そんな夢の中で生きているのだ。
(ニ)
ある夜、私は妻と喧嘩をした。
原因など些細な物であったと思うが、一度ささくれ立った感情は中々元には戻らない。
口喧嘩で劣勢となった私はすぐに寝室に入り、床に就いた。
――朝起きたら謝ろう。
そして、いつもの如く夢の中へと逃げるのだった。
(三)
今夜の夢は普段とは違う夢だった。
明晰夢であるのに、自分で思うようにその中で行動できない。
いつもならば、場所や人物のみならず、人の行動すらも思い通りであったというのに。
まあ、そんな夢が本当の夢かもしれないが。
僕はぼんやりとした意識のままでいた。
するとそこに、いきなり見知らぬ女が現れた。
容姿端麗、その言葉が似合う女性であった。
さらりとした長い黒髪、ほっそりとした体つき、整った顔立ち。そんな中に泣きぼくろがあるのがまた良い。
その女性は、まさに自分の好みであった。
そしてパッと視界がはっきりしたかと思うと、自由に体が動くようになっていた。
いつもの感覚が蘇ってきた。
私は思わず、彼女に、
「好きだ」
と言ってしまっていた。
もちろん夢の中なので、
「嬉しいわ」
とただ一言の返事をされた。
(四)
私は夢の彼女と楽しい時間を過ごした。
しかしいくら夢であっても、終わりが来る。
「ああ、もう時間だ。行かないと」
と言うと、
「すぐにまた会えるわ」
それが次の夜に会えるという意味で無かった事を私は知る由もなかった。
(五)
朝に目が覚めても、私はぼんやりとしたままだった。
リビングでは妻が朝食を作っていた。
昨日の事を何だか気にしていない様子で、
「あら、おはよう」
と言われたので、
「おはよう」
と返す事しかしなかった。
その後、結局妻に謝罪を言えず、無言で朝食を食べ終わるとすぐに出勤した。
ゆらり電車に揺られながら、また今度でいいか、と自分に言い聞かせた。
出社した後、私はすぐに外回りに行った。
書類を持ち会社の玄関を出ても、ぼんやりとした意識は変わらなかった。
(六)
時計が12時をまわった頃、横断歩道で赤信号を待っていた。
そして青信号に変わったとき、向かい側から歩いてくる女性が目に入った。
僕は一瞬目を疑った。
まさにその女性は夢で会った女性だった。
僕は思わずその女性に声をかけてしまった。
傍から見たら、というより実際に、ただのナンパのようなものだ。
するとその女性は少し笑って、
「嬉しいわ」
私はその女性と数ヶ月間、連絡を取り合った。
もちろん妻はそんなことは知らない。
女性と親密な関係になるのに、そんなに時間は掛からなかった。
また、いつしか妻へ謝罪の事も忘れていた。
お互いにそれらの感情など自然消滅したのだと思う。
(七)
女性との幸せな時間は長く続かなかった。
それもその筈である。急に帰宅時間が遅くなったり、休日で行く先も述べずに一人で外出すれば、段々と怪しまれるものだ。
その上、妻と親しかった私の同僚に浮気現場を見られてしまい、妻に告げ口されたのだ。
証拠がなければいくらだって誤魔化せたであろうが、もうそれは出来なかった。
その夜、その事で妻と大喧嘩をした。もちろん私が悪いのだが。
翌朝、もう家には妻は居なかった。電話も繋がらなかった。
リビングの机には、私の印鑑を押す所以外を丁寧に記入された三行半が置かれていた。
仕方がないので、自分で作ったまずい朝食を取り、出勤した。
(八)
妻の事は忘れて仕事に励もうと思った矢先、職場に違和感を覚えた。
もう噂は会社中に広まっていたのだ。
僕はえも言われぬ絶望感に襲われた。
その予感は的中した。
皆が僕に白い目を向けている。
話しかけようとしても、何だか半歩くらい身を引いて応対してくる。
特に社内に親友などいなかった私は、段々と孤立していった。
(九)
もう会社は辞めてしまった。
あんな所ではもうやっていけそうになかった。
会社という居場所は失くしてしまったが、そんな中でも、まだ僕には居場所が会った。
もちろんあの女性だ。僕にとって最後の休息所である。
しかし、辞職してから数日後、僕が会社を辞めたことを知るやいなや、その日を最後に彼女とは連絡がつかなくなった。
いくら電話をしても繋がらない。
金の切れ目が縁の切れ目ということか。
僕は職場で感じた時とは比べ物にならないほどの絶望感を感じた。
もう拠り所が無くなった僕は、何時しか家に引きこもるようになった。
(十)
もう会社は辞めてから数週間経った。
引きこもってから、僕は一日の半分以上を寝て過ごす様になった。
夢の中では彼女に会えるからだ。
1人になってから少し広く感じたこの家は、もっと広くなったように感じた。
電気ももう付けなくなったので、照明は厚手のカーテンを通して日光が少しだけ部屋を照らすだけだ。
やつれてきた頬を掻きながら、自らの過ちを振り返っていた。
そんな事を思っても、もう取り戻すことは出来ないので、後悔などしなかった。
もうこれで良い。夢ではいつでも彼女に会える。
――もう夢の彼女に溺れていたい。
心の底からそう思った瞬間、僕はまた眠りに落ちていた。
(十一)
夢の彼女と楽しく談笑していた。
もうこの世界が現実であったらいいのに。
そう思っては、自分が現実に未練を残したみたいで、悲しくなった。
だが、もうこの世界で生きるしかないのだ。
そう言い聞かせた。
だが、やはり焦燥感がこの体を切り裂くようだ。
気を紛らわせようと思ってか、僕は彼女に思わず抱きついた。
その瞬間僕は自分が泣いていたことに気づいた。
「こんな所で泣いていていいの?」
と彼女は言った。
「もうこの世界をずっと楽しむんじゃないの?」
「もしかして」
「やっぱり後悔しているんでしょう?」
そう言われた瞬間、意識が急にはっきりとし始めた。
眠りから覚めてしまうのか。
嫌だ、嫌だ。
後悔などしていない。
もうこの世界に浸っていたいのだ。
「後悔しているんでしょう?」
もう後悔という感情は忘れたのだ。
「後悔しなさい、そうすれば」
視界が明るくなってきた。
「また会えるわ」
視界が白に包まれてきた。
――次が最後だけどね。
(十二)
ふと目が覚めると、何の匂いであるかは分からなかったが、美味しそうな香りがした。
妻は居ないはずなのに、そう思った矢先、電波時計の日付は最初に妻と喧嘩した日の翌日を指していた。
理解に苦しむ。
この事を合理的に考えるなら、今までの長い長い日々は全て夢だったということだ。
それならば、何と嬉しいことか。
今居る世界がが夢なのか・・・と思ったが、頬をつねれば痛みがある。
ということは、本当に今までのことは全て夢だったのか。
女に溺れ、妻も仕事も捨てた私は居なかったのか。
肩の荷が少しだけ落ちた気がした。
気持ちを整理したかったが、時間も出社時間に近づいていたので、リビングに行くことにした。
キッチンでは、妻が料理の準備をしていた。
いつ振りの妻の顔だろうか!
私はすぐに、
「ごめん」
と言った。この言葉を言うためだけにとても長い時間を費やした気がする。
「私も悪かったわ」
そう言って、妻は軽く笑った。
私はもう嬉しさがこらえ切れなかった。
「じゃあ、いってくるよ」
「いってらっしゃい」
出社時間となったので、家を出る。
仕事に行く道の途中、私の心の中に一つの不安が浮かんだ。
夢の中では今日はあの女が現れる日だ。
もう進んで話かける気などさらさらないが、やはり不安である。
とは言っても行くしかない。そう思い、会社へと急いだ。
(十三)
そろそろ彼女が現れる頃だ。
一人で外回りをし、12時に、この横断歩道で、信号が変わった後、向かい側から来るはずだ。
もう絶対に話しかけない。そもそも今回は何故か隣に同僚がいる。
そう思っていると、本当に彼女がいた。
青信号になり、近づいてくる。
やはり彼女は美しかった。
しかし、何だか今まで見てきた彼女とは雰囲気が違った。
すると女性はいきなり、噛んでいたガムを路上に吐き出した。
その瞬間、心の熱が一瞬にして冷めた。
僕が立ち止まっていたからか、
「あれ、どうしたんですか?」
と同僚から聞かれた。
「いや、何でも」
――他人の空似、いや、夢の空似とでも言おうか。
僕はさっさと横断歩道を渡った。
するとどこかから、
「嬉しいわ」
と聞こえた気がした。
その日から、僕は明晰夢を見なくなった。
(十四)
電気も水道もガスも止まった部屋で、男が静かに眠っていた。
もうこの男が眠りから覚める事は無い。眠りを妨げるものも無い。
ただ男は静かに眠っていた。一瞬笑ったかのように見えた後、彼の呼吸が止まった。




