村上春樹はモテる。
私は、村上春樹好きではないです。
幸運にも大講義が定刻より三十分ほど早く終わったので、石神に見送られながら悠はゼミ教室にむかった。
それにしても、二周目の授業で三分の一も余らせる授業は、果たして大丈夫なのか。
そんな不安がよぎるが、まあ今回だけはよしとする。
階段をゆっくりと降りながら「そういえば……」と悠は思った。
石神自身のゼミはどうなんだろう。
そもそも石神は、ゼミに所属しているのか。
悠と石神が所属する学部は、ゼミに所属しなくても、もっと言ってしまえば卒業論文を書かなくても卒業できてしまう学部なのだ。
石神は大学での学問が性分に合っているらしく、それなりに真面目に授業に出てさまざまな文献にも目を通している。
そんな石神だから、卒業論文を進んで書きたいとまでは思わなくてもじぶんの研究を修めたいと思っているだろうし、その能力はある。
だが、一度も石神の口からゼミの話が出たことがない。
そもそも、石神はじぶんの話をあまりしたがらない。
したとしても、この前見た映画はどうだとか、読んだ本はどうだとか、せいぜいそんなところだ。
いつかやつのプライベートなところにも踏み込んでみよう。
そんなことを思っていると、目指す小教室の前に着いた。
外から中の様子をうかがうかぎり、この時間はどの授業にも使用されていないようだ。
照明は落とされて、物静かだ。人の気配もない。
陣を確保する。
そんなテンションで扉を開け、教室に足を踏み入れる。
教室は外の光が入ってはいたが、薄暗く無人……ではなかった。
息をのんだ。
大げさかもしれないが、そう表現するしかなった。
悠は一度まぶたをこすった。
何事にも見間違い、幻想の類いはある。
よし。大丈夫。起きた。
もう一度見る。
やはりいる。
山手ゆかりその人が。
彼女も突然の訪問者に驚いたのか、呆気にとられた表情で悠を見つめている。
固まっていた。文字通りだ。比喩ではない。
そしてそんなゆかりが座る席の上には、一冊の文庫本。
本を読むのなら電灯くらいつければいいのに……。
そう思わないでもなかったが、どうやら本を読んでいたわけではないようだ。
早めに来て、教室で読書をしようと思ったが、なんだか興がのらなかった。
おおかたそんなところだろう。
「こんにちは……」
挨拶は大事だ。なんだか意味合いが違う気もしたが、石神が熱弁していたのでとりあえず従っておく。
「こんにちは」
言葉と共に花のような笑顔。
それだけで、一つの戦争が止まってしまいそうな威力。
悠はくらりとしたが、すんでのところで踏ん張り言葉を紡ぐ。
「早いね……」
もっと気の利いたことは言えないのか、このおたんこなす。
そんな石神の叱責が聞こえてきそうだったが、これが悠の精いっぱいだ。
「うん。三限もないし、暇だったから。九鬼くんは? 授業もう終わったの?」
まるではじめて言葉を覚えた赤子と話すかのように、ゆかりは丁寧に言葉を投げてくれる。
さすがの悠でも、なんとか捕球することができた。
すかさず投げ返す。
せっかくのチャンスだ。
キャッチボールを途切れさせるわけにはいかない。
「ああ、うん。先生が授業を三十分くらい早く切り上げちゃって……」
「そうなんだ」
そう言って、ゆかりは悠から視線を外し窓からの景色を見る。
なにげなく、といった様子だが、悠としてはここで会話を終わらせるわけにはいかない。
切り上げていいのは、授業のみだ。
「村上春樹好きなんだ……」
彼女の目の前で閉じられていた文庫本を指差しながら。
渡りに船。藁をもつかむ思いで。
ゆかりは文庫本に目を落として、嬉しそうにちょっと目を細めながら答える。
「九鬼くんも好きなの?」
「ああ、いや。この前、友だちが村上春樹の話をしていたから……」
「ああ、そうなんだ」
ゆかりは表情を少し陰らせる。
その気持ちは、悠にも容易に理解できた。
趣味を同じにするものを見つけることは案外、難しいものだ。
村上春樹ほど著名な作家ならばそのフォロワーである「ハルキスト」(石神がそう呼んでいたので覚えた)も簡単に見つけられそうなものだが、そう簡単にはいかないらしい。
そして悠はじぶんの過ちに気づいた。
しかし、もはや手遅れだった。
「その人は、春樹作品についてなんて言ってたの?」
気を取り直して、ゆかりは尋ねる。
「ええっと……。セックスと射精ばっかりしてるって」
とっさに答えたあと、しまったと失言を後悔した。
真昼間からなにを言っているんだ、と急いで訂正しようとしたそのときだった。
ふふふ。
幻聴かと思った。
もしくは、廊下の会話が聞こえてきたのか。
しかし、真実はそのどちらでもなかった。
ゆかりが笑っている。おかしそうに。
その笑いかたは、思わず吹き出してしまったといった感じだった。
可愛い。
悠は、あらためて実感した。
そしてゆかりは楽しそうに言う。ふつうじぶんの好きな作家を貶されたら不愉快だろうに、彼女の様子からはおくびもそんな感情はうかがえない。
「たしかにね。間違いない。その人、おもしろいね。ストレートで」
これはもしかして褒められている?
いや、「られている」はおかしい。褒めているが正しい。
なぜなら、その言葉はこの場にいない石神に向けられているからだ。
じぶんが惚れた相手が、じぶんの友だちを褒めるというのはなんだか妙なものだった。
決していやではないが、少しの嫉妬心も否めなかった。
「いや、変なやつだよ。口も悪いし」
ささやかな妨害工作。
「いいじゃん。誰にでも優しいかわりに欠片もおもしろくない人間ばっかりなんだから大学生なんて。それくらいぶっ飛んでるほうがいいよ」
風向きがおかしい。
時すでに遅し。
ゆかりが続けて言う。
「ねえ九鬼くん。その人紹介してくれない? 一度話してみたいわ」
とりあえず村上春樹の小説を読もう。
悠は、そんなことをそっと決意したのだった。




