大事なことは両親がだいたい教えてくれる。
昼どきの食堂は混み合う。
生徒数と食堂の規模がどう考えたって合ってないのだから当然といえば当然だ。
そんな食堂の一角に腰かけ、石神は冷やしきしめんをすすっている。
まだ、春なのにそんな冷たいものを食べるとは酔狂なやつだとは思ったが、悠は指摘しないでおく。
石神にそんなことを言うと、きしめんの話だけで貴重な昼休みをすべて吸い取られる可能性があるからだ。
今の悠には話し合うべき事柄がある。余計なことで会話をかき乱す余裕はない。
そして今、悠の目の前できしめんを箸でつかむことに苦戦している男は怒っている。
穏やかな春の日には到底、似合わないくらい怒っている。
「ああ、なんできしめんってこんなに食い辛いんだ! そもそもこれは麺と言うカテゴリーではないだろ! 板だよ、板! 広義の板だよ、これは」
石神の怒りはきしめんに飛び火したようだ。
きしめんもたまったものではないだろう。
「そんなこと言われても……。それがあっしらの特徴ですし」とおそるおそる反論するきしめんのイメージ映像が浮かぶ。
いや、違う。
きしめんの境遇を憐れんでいる場合ではない。
石神も、議題の本筋を思い出したようで再び悠に怒りを向ける。
そう。悠が怒られていたのだ。悪いのはきしめんではない。
「なんでなの! 意味わかんない!」
突然、ワガママお姫様のような口調で石神が怒りを露わにする。
ほんとに怒っている。根拠はないが、なんとなくわかる。
「いや、なんでと言われても……」
「えっ、挨拶するだけだぞ! 『おはよう』だぞ! 四文字だぞ! その程度の労力を惜しむほどの安楽椅子大学生だったのか、お前は!?」
「タイミングがなあ」
「なんだよタイミングって! そんなもんねえだろ。お前の挨拶はそこまであたり判定厳しいのか!?」
悠は怒られている。
挨拶をしなかったことを独特の語彙で責められている。
石神に対してではない。
そもそも石神は悠にまともに挨拶をしない。
いつもいきなり話しはじめる。
先日、五分遅刻してきたときなど謝罪もなしに「時間というものは、なぜ平等に流れていかないのか」と唐突に滔々と語りはじめて、悠は怒る気すらなくなってしまうくらいだ。
それが石神なりのいいわけだと気づいたのは、帰宅してベッドに入ってからだ。
悠はゆかりに挨拶をしなかった。
構内ですれ違ったが、突然のことで驚いて気づかない振りをしてしまった。
しかし、ゆかりはこちらに気づいていたようで、一瞬ハッとした表情を浮かべたが悠が反応をしないのを見てその顔をおさめてしまった。
それを聞いて今、石神は怒り心頭のご様子だ。
「お前、両親になにを教えられたんだ? 挨拶はコミュニケーションの基本だろ。それができないやつが、彼女? はああ! なめるのも大概にしろよ!」
そこまで言われてしまうと、悠も「はい、すみません」と大人しく引き下がるわけにはいかない。
意固地になって反論する。
「そこまで言わなくても……。第一挨拶なんてしてもしなくても――」
石神は当然のごとく遮って言う。悠の反論など予想の上だったのだろう。
徹底的に憎たらしいやつだと思う。
「ある程度仲のいい、安定した関係ならそれもいいよ。だがな、それはあくまで省略してるだけなんだ。決して挨拶それ自体を軽視しているわけではない。だが、大して仲良くない知り合って間もない人間の場合は、挨拶が二人を繋ぎとめるくびきになり得るんだよ」
「……どういうことだ?」
「大学の交友関係なんて薄く広くが基本だ。プライベートで一回も遊んだことない、ただ語学のクラスで一緒だった友人だらけだよ。そんな彼らとは授業が終わるとどんどん疎遠になる。しかし、しかしだ。そんな奴らと完全な赤の他人になってしまうのを阻止する方法が一つだけ存在する」
「それが、挨拶だと?」
「そうだ。挨拶だけしておけば、とりあえずじぶんは相手を忘れていないことを伝えることができる。その細い糸さえ残っていれば、再び友人関係に返り咲くことも可能だ。そして今のお前とゆかりはその糸すらも切れようとしている。ゼミでまた会うから挽回も可能だが、これが一回どこかで知り合っただけの相手なら完全にゲームセットだぞ」
「なるほどな」
「顔の広いやつってのは、つまるところ挨拶ができるかどうかなんだ。人として最も大切な能力だな」
「『オス友』ってやつか?」
「あまりその呼び方は好きではないが、そういうことだ。『オス友』とは『友人予備軍』のことだよ」
「なんだがじぶんが取り返しのつかないことをした気になってきた……」
「そこまで悲観することはないが、次回から必ず挨拶しろよ。『おはよう』でも『オッス』でも『ウイッス』でもなんでもいい。とにかく糸を手繰ることを忘れるな」
そしてそう言って、石神はどんぶりを持ち上げ、だしを啜りながらこう付け足した。
「ついでに言っとくと、お前は友だちが少ないと平素から嘆いてるな。なんのことはない。挨拶しなかったら、友だちなんてどんどん減るぞ。お前の評価なんて急転直下だぞ。大暴落だぞ」
「それをもっと早く言ってくれ……」
「そんなこと今すら指摘されるほうがおかしいんだよ。誰でも自然にやってることだからな。『親しくないやつにほど、挨拶を』だ」
それだけ言うと、今日一番の得意顔になり箸を置く。
悠はじぶんのどんぶりを見下ろすが、彼のカツ丼はまだ三分の一ほどしか減っていない。
石神はあれほどべラべラと話しながら、どうやってあんなにはやく飯を食うのだろうか。
そんなことを思いながら、悠はどんぶりをかき込んだ。
石神は、温かいお茶をすすりながら満足そうに「ふう」と息をもらした。
悠が残っていたカツ丼を急ぎ目に食べ終えた直後だった。
石神が待ってました表情で湯呑を置きながら言う。
「で、今日の作戦は?」
「作戦っていわれても……」
石神の表情がまたもや曇る。
「お前まさかなにも考えてないの?」
つっけんどんな語調。
またもや怒りに火がつきそうだ。
悠は慌てて言う。
「いや、でもまあ、ただのグループ決めだし……」
しかし、その口調は弱々しい。
じぶんの悪戯を親に懺悔する子どものようだった。
石神があきれ返ったという色を、表情にありありと浮かべながら言う。
「関ヶ原って言ったろ。お前はそんな大事な戦に丸腰でむかうっていうのか? なんだよそれ、大戦末期の日本軍かよ」
保守派や、軍事オタクが聞いたら激昂しそうなことを平気で言う。
石神はかなり急進的な左派であるからしかたない。
「とりあえず教室には早めに行って、ゆかりさんに話しかけようかなと」
「ったりめえだろ。それくらいやらなくてどうする」
そう言うと、石神は食堂に設置されている掛け時計に目を移す。
石神は腕時計を身に付けない。
というよりも、衣服や装飾品には徹底的に無関心であるようだ。
今日もどこかのファストファッションで買ってきたようなシャツとジーンズ。適当ではあるが、決して不自然ではない。
一言で表現すれば、無難なのだ。
「石神ってファッションとか興味ないの?」
「あ? ファッションって服のことか?」
ほかになにがある。
「ああ」
「……まったく興味がないわけではない」
意外な返答に悠は驚いて目を丸くする。
「そうなんだ? てっきりまったく関心ないのかと」
「金をかけようとは思わないがな。少なくとも変な恰好はしないでおこうと心がけてはいる」
思い返せばそうだ。
石神の言葉を物語るように、彼のファッションはいつも目立つことはないが変ではない。決してマイナスにはならないようコーディネートされているのだ。
「オシャレはいらない。ファッションなんて無難でいいんだよ」
「ま、まあ、たしかにそりゃそうかもな」
珍しくまともな意見に戸惑いながら悠は答える。
「俺の服装なんてどうだっていいんだ。午後の授業がはじまる。行くぞ」
三限は大講義で、悠と石神は同じ授業を履修している。
だが、決して示しあわせて同じ授業を取ったわけではない。
たまたまである。
そもそも、石神は友だちと同じ授業を取ろうとする学生を心の底から軽蔑している。
「授業のカリキュラムひとつ選び取れないやつが、じぶんの将来をあと四年で決断できるはずがない」
そんな石神が一回生のころに忌々しそうにつぶやいた言葉だ。まったくもってその通りだと思う。
その言葉をきっかけにして悠は、目の前でつまようじをくわえておっさんくさく「シーハーシーハ―」と言っているこの男を評価しはじめた。




