ペンギンは飛べない。
フンボルト、キング、エンペラー……。あと、なにがいたかなあ。
「ねえ。九鬼くん。なんであんなこと言ったの?」
巨大な水槽の前で、未央が切り出した。
さっきからこうして二十分近くなにを話すでもなくペンギンが優雅に泳ぐ姿を見つめている。
悠はペンギンが好きだった。
幼いころからずっと。
母によると動物園でも水族館でも、一時間も二時間もこうしてペンギンを眺める子どもだったそうだ。
だからなんの気なしに水槽の前で立ちすくんでいたのだが、未央はなにを思ったのかここが勝負どころだと判断したらしい。
ペンギン。
いささかロマンチックではないがよしとする。
来場者の頭上を飛んでいく――それはまさしく「飛んでいく」という表現がふさわしい――ペンギンたちはなかなか様になっている。
「なんでって……嫌だったか?」
「ううん。そんなわけないじゃない。なんでそんな意地悪を言うの?」
これまでに聞いたことないくらい甘い声で、甘えた調子だった。
思わず水槽から未央に顔をむける。
その表情は、ほんのりと赤みがさしておりまさしく恋する乙女といった様相であった。
目が少し潤んでいるように見えたのは、気のせいではなかったように思う。
可愛い。
それは、ついくらりと来てしまうほどだった。
じぶんが今置かれた状況を忘れてしまうほどに。
しかし、それを表に出してしまわないように悠は言葉を紡ぐ。
「僕がゆかりさんに気持ちを伝えるにしろ、伝えないにしろ未央との関係ははっきりさせとかなきゃならないと思ったからな」
「でも、いいの? 石神くんにゆかり取られちゃうよ?」
その声色は未央がほんとうに心配していることを雄弁に物語っていた。
「なんで、未央がそんなこと気にするんだよ」
その言葉は、呆れたような笑いをともないながら。
「だって……」
そう言って、未央は顔をうつむける。
そうする彼女は、これまで見たことないくらいに女の子らしい。
好きな人はものにしたいが、同時に好きな人にも幸せになって欲しい。
そんなアンビバレンツな感情が、未央の中でせめぎ合っていることを察することができるほど、彼女の表情は複雑な色に染まっていた。
そんな未央にどんな言葉をかければいいのか。
悠にわかるはずもなかった。
ただ困ったような表情を浮かべて、視線を水槽で呑気に泳ぐペンギンにむけるだけだった。
「この子たちはいいね。なんのしがらみもなくて」
「どういう意味だ?」
唐突な未央の言葉に驚きながら、悠は聞き返す。
未央は顔を上げていた。
そして悠にならい、水槽を見つめている。
「だって、泳ぎたいと思ったら誰を気にすることもなく泳げるんでしょ? 自由でいいじゃん」
「……そうでもないよ」
「どうして? こんなに気持ちよく泳いでるんだよ?」
「たしかに気持ちよさそうだな。しかし、ペンギンは魚じゃない。鳥だ。正確には鳥類ペンギン目だ」
「それがどうしたの?」
「もし、彼らが本当は大空を自由に飛び回りたいと思っていたら? そしてそれが叶わないから仕方なく海をもぐっているとしたら? それでも彼らは自由と言えるのだろうか」
最後は疑問形にもならなかった。
ただの一人語りと言われても仕方のないものだった。
しかし、未央は悠の言葉を聞き、「そっかあ。ペンギンも大変なんだね」と仲間のことを気にかけるかのようつぶやいた。
優しい子なのだ。
悠はわかりきったことを改めて思う。
「まあ、そんなことは僕たちにはわからないけどな」
「じぶんの思い通りになる人なんてそうそういないってことだね」
「なんだかよくわからないまとめになったな」
そう言って、悠は笑う。
そして未央もそれに無邪気な笑顔を返してくれた。
悪くない時間。
いや、それは貴重な時間だった。
「九鬼くん……」
「……悠でいいよ」
未央は、ハッとした表情を悠にむける。
直後、泣き笑いを浮かべて言う。
「やっと言ってくれたね。あたしのことは下の名前で呼ぶくせに、ずっとじぶんのことは名字で呼ばせるから……」
「呼ばせるって……べつに呼び方を指定したことなんてないぞ」
「でも……『悠でいいよ』って言ってほしいじゃない。ずっと変えたいなと思ってたの。なんか格差があるみたいでいやだった」
「女ってややこしいな」
「女もそれ以上に男はややこしいって思ってるよ」
「ごもっともで」
二人同時に笑う。
やはり未央との会話は楽しかった。
いい意味で異性と会話している気がしない。
楽で、それでいて単純に面白かった。
そんなことを思うと、悠は自らの決心が崩れそうになっていくことにいやでも気づかされる。
しばらく笑い合ったあと、未央は笑顔を引っ込めて真剣な眼差しで悠を見つめた。
悠もそれに応えて、視線を送り返す。
何羽かのペンギンたちが二人に視線を送っていた。
なにごとが起こることを、彼らなりに予感したのかもしれない。
「悠くん……」
未央が名を呼んだ。
はじめてのそれは、少し背筋がむずかゆくなるものだった。
しかし、決していやではない。
幸福感とは言いすぎかもしれないが、温かいものが悠の胸いっぱいに広がっていくことを感じた。
悠は未央と付き合うイメージを思い浮かべた。
それはなんの違和感もなく、はっきりとした映像で悠の脳裏に映し出された。
断言できる。
それは、楽しいものになるだろう。
取り留めないことを言い合い、たまには喧嘩をし、しかしすぐに仲直りする。そうして、二人の絆は一段と強くなる。
そんな夢は、未央も幾度となく胸に抱いたことだろう。
しかし。
悠は思う。
「いつからだったのかな。はじめて見たときに、これもしかして、一目ぼれになっちゃうのかな。おかしいね。べつにイケメンでもなんでもないのにね」
「本人にむかって失礼過ぎないか?」
そうは言ったが、悠はそれが未央なりのジョークであることがわかっていた。
だから本気で怒ることなどできるはずがなかった。
「だってあたしも理由なんてわからないんだもん。最初から気になってたから。恋愛なんてそんなもんだと思うよ。グループ一緒になれたときは嬉しかったな」
過去を思い出すように未央は言う。
「あ、でももしかすると、悠くんがゆかりのことを好きだったからかもね。あたしが悠くんのことが気になったのは」
妙な言い回しに、悠は疑問の言葉を投げる。
「どういうことだ?」
「人のものはほしくなる。あたし、子どもだから」
なんだその理由は。
呆気ないくらい単純な論理。
そう思わないでもなかったが、同時に未央らしいとも思った。
「最初からわかってたのか?」
「だってわかりやすかったもん。あんなに目を輝かせて教室の入り口で話されると誰でも気づくよ」
悠はゼミの初日を思い出した。
そうか。あのときの一部始終は未央にも見られていたのか。
もしかすると、未央は悠を見てニヤニヤと笑っていた一人だったのかもしれない。
しかし、今ではそれを思い出すこともできない。
未央の存在を認識しはじめたのは、グループが一緒になってからだった。
だが、未央はそれより前に悠のことを意識していた。
悠にとって未央はグループの仲間としての認識が原初であったが、未央にとって悠はゼミ初日から気になる人だった。
その二人のスタート地点の違いが、今の気持ちの相違となって現れたのかもしれない。
「まいったな……」
それはじぶんの気持ちが意外に多くの人に知られていたことについて。
「いいんじゃない? べつに隠すこともないし。そのおかげであたしみたいな美人が悠くんのこと好きになったんだし」
「まあ、そりゃそうだ」
「……付き合ってくれない?」
決断のときはいつでも突然にやって来る。
そして選び取ってしまったものは、二度ともとに戻すことはできない。
あまりに残酷な現実が、未央の言葉により眼前に突きつけられた。
「こんなときまで軽いな」
最後の抵抗を込めて、悠は皮肉る。
「膝を合わせて、両手をつこうか?」
しかし、相手は勝気な未央。
引くはずもなかった。
「いや、いい。らしくない」
「でしょ」
「でもなあ。一つ懸念があるんだ」
石神が演説をするときのように芝居がかった大仰な調子で。
おそろしく重大な問題でもあるかのように。
「えっ、なになに?」
未央も戯れにのっかって来た。
楽しそうで、それ以上に寂しそうだ。
「僕、好きな人がいるんだ」
未央はそこで黙り込む。
視線を再び足もとにむける。
「その人は――」
「いい、言わなくていい」
涙声だった。
そして未央はこちらに顔をむけることはせずに、「知ってるから」と一言つぶやいただけだった。
「ごめん」
陳腐であろうと、ありきたりであろうと悠がかけられる言葉はそれだけだった。
未央は体を一度ビクッと震わせて、それに応えた。
未央は堪えていた。
顔はうつむけていたが、未央が泣いていることが悠にはわかった。




