八 記憶の淵
「記憶が曖昧だとお聞きしていますが」
「……はい」
寝台の上で身を起こし、ジェレミアは返事を絞り出した。傍の椅子に腰掛け、しっかりと前を見据えているのに影が落ちる深刻な面持ちの老人は、ハイラムとマリースの上司でもある第二騎士団の参謀ヒューバートだった。
行方不明になっていた学者――ジェレミアを発見した騎士でもある。
ジェレミアは城の敷地内、あの森の泉の傍で倒れているところを見つかり、彼らに保護された。ずぶ濡れで擦り傷打ち身だらけ、熱があり意識を失っていたが、五体満足命に別状はなく。
城の見慣れない一室で介抱され目を覚ました彼は母と弟妹と抱擁して、検査をした後に自宅へと護送された。城に置かれては気が休まらないだろうとの、他ならぬ女王の配慮だった。
それから、既に丸二日過ぎている。その中で、このような会話は三度目になる。
「何も、覚えていないんです、どうしてあそこに居たのかも、それまで何処に居たのかも、誰かに会ったのかも」
一度目は見知らぬ騎士相手に、二度目は体の具合を診にやってきた医療塔の賢者を相手に。今度は己の部屋で騎士参謀を前に言葉を発し、ジェレミアは眼を上げた。
「覚えていないんです」
繰り返す。ジェレミアの視線の先で、ヒューバートは表情を変えずに頷いた。
「どこから記憶がないのかは分かりますか」
「……俺は、門番と挨拶をした覚えがあるんですが……」
「残念ながら、門番は君を見ていないそうです」
「……なら、塔を離れてからすぐでしょうね。ベルナップ氏の要請を受けて塔を出て、どこまでが確かなことなのだか……何がどうなってこうなってしまったのか、まったく、」
「いいえ、もう結構です」
ベルナップはジェレミアに浴室点検を押しつけたマーティンの姓だ。手と同じく軟膏とガーゼをつけた顔をゆるゆると振り、口ごもりながら続ける学者に、ヒューバートも首を振った。
「失礼を重ねていますね。無理をさせて申し訳ない」
行方不明になった王城学者、傷だらけで見つかった人の記憶の欠落に、さすがの老騎士も困惑している。ただでも、平穏な都の、何処よりも安全でなければならない場所で起こった事件だ。何も手掛かりがないどころか、何が起こったのかさえ判然としないのだから、誰の顔も明るくはない。
「いえ、こんな事の後ですから。こちらこそ申し訳ありません、お役に立てず」
傷の残る軟膏臭い自分の手を見つめ、ジェレミアは目を伏せた。階下からは湯を沸かしている音と、包丁が動く音が聞こえてくる。長男が行方不明になったときは大いに狼狽え、無事に帰ってきた時には揃って泣いた家族だが、当人の振る舞いもあって今はどうにか落ち着きを取り戻し、いつもの姿となっている。
窓も戸も開け放たれているが、日は傾いて部屋は薄暗い。空気は重く沈黙は固く、風だけが澱まないで流れていく。
病人のぼんやりとした口調に、騎士参謀は微笑んだ。
「貴方が好んで立ち入ったことでもありますまい。気を落さず、体を大事になさってください。貴方はとても優秀な学者でもありますから、陛下も尚の事、気遣っておられましたよ」
柔らかな声音は日常への回帰を促す。脳裏に過ぎる記憶に新しい女の顔に、若き学者は言葉を詰らせる。
鮮やかに青い瞳が揺らぎ、上掛けの上にある指に力がこもった。
「それは――光栄です。すぐに戻って……一層努めますと、お伝え下さい。お力になれず、申し訳ありません」
ジェレミアは力を入れて笑みを返した。弱々しい病人の笑みだった。ヒューバートがまた微笑する。
立ち上がった彼を追いかけ、ジェレミアは視線を上げた。薄暗い中でも上着の白色ははっきりとして明るい。
「不安でしょうが、貴方には二人も騎士がついていますよ。……貴方が弱っておられると、私の部下にも支障が出ます。彼らの為にも早く元気になってください。それではお大事にどうぞ。しばらくは詰め所に控えておりますので、何か思い出したら私のところにお越し下さい」
洗練された発音ですらりと述べて礼を一つ。ヒューバートは老いを感じさせない歩みで部屋を後にし、部屋の外で待っていた双子騎士を連れて屋外へと出た。その足ですぐさま城に戻り諸々の報告をするのだ。
ジェレミアは寝台に身を委ねて目を閉じた。もう随分寝ていて眠気は無かったが、一人になるとそうするのが癖のようになっていた。
ジェレミアはけっして忘れたわけではない。
行方不明になってから、当人にとって驚くべきことに二日近くも経っていたというから、記憶が欠落しているのは間違いのないことではある。だが。
閉じた瞼には、すぐに白いものが見える。白く、闇の中で浮かび上がる街並み、そして人。美しい、人。あれらを忘れたわけではない。すべて鮮明すぎるほどに覚えている。けれどジェレミアにはそれが現実であったのか夢であったのか、もう分からなくなっていた。というのも、騎士によれば――ジェレミア・オークロッドはあの日、城に入っていない。
戻ってきて目覚めた彼に最初に問うた騎士は「塔から出た後、何があったのですか」と言ったのだ。
騎士たちは城の内部、浴室での出来事を認識していないようだった。普通では考えられないことだ。ジェレミアは熱に浮かされる意識でもそれを理解し、混乱し、そして咄嗟に答えた。嘘を吐いたのではなく正直な言葉を発した。「分かりません」と。一体何が起こってどうなってしまったのか、彼には分からなかった。
後で何度確認しても、門番はあの日に学者を見ていないし、中に引き継いだ小間使いも居ない。浴室番もそんな仕事はしていなかったという。
ジェレミアは呆然として、それならば自分の記憶は不確かであるとの結論を出し、次に医療塔から賢者が訪った時にも同じように答えた。意外とよくあることだから、と賢者は彼を安心させるように言ったが、ジェレミアの内面はやはり穏やかではなく――彼はその不確かな記憶を、他人に聞かせることはなかった。
すべてが夢だったのだろうか、とジェレミアは目を閉じたまま何度目かの反芻をする。浴室での出来事、その後の激流、洞窟のような場所、天使のような人とその会話、あの美しく不思議な町、巨大な魔物の姿、再び己を飲みこんだ水。確かに夢か幻のような、常識的ではない出来事だった。この近隣にあのような土地は存在せず、海に浮かぶこの島はすべてアルアンヌ、王の治下にあるというのに。
騎士の言葉が示すとおり塔を出たところで何かが起きて、その間幻を見ていたというのが、適当ではあった。
――此処は忘れ去られている。だから、君も覚えているべきではない。
夢でなくとも忘れるべきものなのだろうか。
天使の言葉をなぞったところで階段を昇ってきた気配に、ジェレミアは目を開けて扉のほうを見た。足音で判別できる彼の予想どおり、立っていたのは上司を見送り戻ってきたハイラムだ。確かに稀な美貌の持ち主だが、その髪にも目にもはっきりとした色があり、肌は健康的に血の気がある。
水差しを手にした弟を微笑みで招き入れて、ジェレミアは細く息を吐く。
「……俺は、塔を出てから誰にも見られていないんだよな?」
水を注ぎいれる、見慣れてなお整って美しい姿を見上げてジェレミアは問う。生まれたときから知っている弟の横顔に名も知らぬ人の面影を見て、彼の視線は窓へと逸れた。仄かに滲む陽射しは熟れた果実のような色へと変わり始めている。
「うん。だから、塔と城の間で何かあったってことだと思うんだけど」
「そうか」
半分だけ注いだ杯を手渡しながら何回目かの同じ質問に答えたハイラムは、兄の顔を窺い見た。病人の気配を引きずってはいるが顔色はそこまで悪くない。意識もまだはっきりしている人間の顔つきである。
しかし、その目はどこか遠くに投じられている。学者ではない人々には思いもよらないような事象を考えているときの顔と同じなのだ。血の繋がった兄弟でさえ把握できない、隔たりのある感触。
こんなことがあったのだから仕方がないと思いつつも、形の良い眉は寄って眉間に皺を作る。
「大丈夫? 無理するなよ、まだ熱あるんだから」
ぼんやりと話半分で水に口をつけるジェレミアに、彼はそう言うしかなかった。
これが双子の妹相手ならばどうにでもなるが、兄相手ではどうしようもない。ただどこか手の届かないところへ踏み入れようとしている人を、病人の今はと牽制するのが精一杯だ。
「微熱だろ。お前こそあんまり此処に居るとうつるぞ、これは風邪だから」
いつも気遣っている弟からかかった気遣いの言葉に、ジェレミアの意識はようやく引き戻された。困り、少々苛立っても見える、心配をかけた兄弟に笑って言う。
「……もう少ししたら、マリが食事持ってくるって。食う?」
「ああ」
溜息混じりの言葉にも短い返事だけして、ジェレミアは頷いた。ハイラムが踵を返す。そうした日常の光景に、あのときの白い記憶が見え隠れする。戻ってきて何度目かのじりりと焦げつく感情がジェレミアの胸に生じた。
気づけば彼は弟の腕を掴んでいた。ざらつく床板が裸足にひやりとする。視線の先には、目を丸くしたハイラムの顔があった。
「兄さん?」
急に立ち上がり己を引きとめた兄に、ハイラムは驚いて裏返りかけの声で呼びかけた。掴まれたのとは逆の、空いた腕でまだふらつくジェレミアの体を支える。
「兄さん、どうしたの?」
すぐに皿だけ持ったマリースが部屋に飛び込んできて、空いた腕を取った。驚いた顔で自分を見る二人揃った弟妹を見て、突如の行動に自分でも驚いた顔をして。動いた理由も分からないまま掴めた手に安堵した。
「お前たちが無事でよかった。置いて、きてしまったかと、」
「なに言ってるの」
ほうと吐き出される息が震えている。意味の分からないことを言う兄にハイラムとマリースは顔を見合わせ、彼を寝台へと連れ戻した。
「危ない目に遭ったのは兄さんでしょう。何か夢でも見たの」
「――ああ、そうだな、そうだ。どうも混乱していけない、」
不安そうな顔でマリースが言う。ジェレミアは目を瞬き苦笑いを浮かべて、その不安を拭うように努めた。危ない目に遭ったのは自分だが、自分だけではないとの訂正を胸に押し込めながら。
あの出来事がすべて記憶の穴を埋める為に自分が作りだした幻想かもしれないと考えたとき、そのほうがいいとジェレミアは思った。自分がこうなった原因は分からないにしても、あの閉ざされた場所で魔物と対峙する人がいない事実は幸いに思える。白い髪の人はあの地を守ると言ったが、到底、あのままでは守れそうにもないのだ。恐らくは当人も分かっている。それでも、という悲愴な覚悟はないほうがいいだろう。
「悪いな、やっぱり飯は今いいから、残しておいてくれ。もう一度寝るよ」
「……うん」
「ちゃんと休んで」
「何かあったら呼んでよ」
今度こそはっきりといつもどおりの笑みを作って、ジェレミアは言った。二人は沈黙し、やがて常のように揃った声で応じると一言ずつ添えて踵を返した。
部屋を出てから気取られぬように小さく溜息吐いて、ゆっくりと階段を下りた先。振り向いたマリースは目の前にもう一人、自分が立っているような錯覚を得る。もっと幼く男女の違いも少ない子供の頃ならば、まるで水面を覗いたようにも感じられたのだが。
「兄さんは何を見ているのかな?」
先に立ち振り返ったマリースを待ち構えていたハイラムは小さな声で言った。彼もまたマリースと同じような感覚を得ていたが、それを特別な出来事とは思わない。彼らは昔から――生まれたときからこうだった。
マリースが俯くと、ハイラムは階段の最後の一段を下りて床を二歩進み、彼女の体を押しやった。トントンと軽い音がして言葉の間を埋める。そこでマリースはようやく、きっと、と切り出すことができた。
「何か覚えてるんだわ。でもまだ決まったことじゃないから、確かなことじゃないから人には言わないのよ。研究する時みたいに。……兄さんはほとんど嘘も隠し事もしないけど、するときはとびきりのをするのよね」
ハイラムと同じように密談の声量で言いながら、彼女は廊下の奥、台所に続くほうへと視線を投げた。体の弱った長男の為に病人食のスープを作る、母親が動く軽い物音はまだ聞こえていた。
言葉にか、自分へと戻ってきた視線にか、ハイラムは頷き再び口を開く。
「ヒューバートさんもね」
今度はマリースが頷いた。直後、僅かに上げられた右の靴先が床を叩く。またトンと音が鳴る。ハイラムは続けた。
「ヒューバートさん、魔物が出たときみたいな顔をしてた。そりゃこんなことがあった後だから当然だけど、なんていうか」
「探ってる時じゃなくて、間合いを詰めている時の顔だわ。もう獲物が見えているみたい。何も分からないって顔じゃないのよ。まあ、勘みたいなものだけど」
腕を組んでの言葉は途中で止められたが、間は生まれなかった。すぐに、と形容するよりも早く途切れなく、マリースが双子の半身の言葉を継ぎ、一人が二つの口を使って話しているような奇妙さで会話を繋ぐ。
今度は揃って頷いて、彼と彼女は首を傾げた。見合わせての動作は鏡のようではなく互い違いになる。マリースの解れた金髪が肩にかかった。
息を吸うのもまた同時。
「あの人自身が何か隠してる顔してる」
「今回の事はまるきり謎の出来事じゃないんだわ」
「この前のあれも、何か関係あるのかな」
声は上手くずれて、隙間を作らぬように。
この前の、と演習中に起きた、これもまた兄の行方不明と同じで未解決の出来事を取り上げ、ハイラムはゆっくりと瞬きをする。まったく同じ色をしたマリースの目は、その様子をじっと眺めていた。二人の間で止まる会話。
「分からないけれど」
再開の言葉は二人同時だった。二つの違う声は柔らかに重なり、一つとなってしっかりとした響きを持ち漆喰の壁に染みる。
微笑みを交わして互いの手を取った双子の間を、窓から吹き込んだ夜の匂いを含んだ風が抜けていく。既に外も中も暗いが、白服を着た二人の姿はその中に薄く浮かび上がっていた。
平凡な家屋の廊下は、恐ろしく整った二人を中心に調和していた。絵画のように美しく設えられた風景だった。
「兄さんが黙っているなら、それがいいんだろうし、それでいいわ。私たちは何があっても兄さんの味方だもの」
「兄さんから言うようなら、ちゃんと聞いて、必要なら力になろう」
微笑みと共に交わされた言葉は提案ではなく、ただの確認だった。今、双子の間に提案など必要なく、欲されたのは意思の表明だけだ。
共に生まれた片割れと違い、何を見て何を思ったのか知れない兄を揃って想って、二人はひっそりと誓いあう。
兄と自分たちに天使の加護がありますように、とは、胸の内で呟かれた。