表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
8/29

七 その地の名は

 ざわざわと、木々が触れ合うのにも似た音が引いていくのをジェレミアは感じていた。

 何かを告げるようにも聞こえたそれらが遠ざかり、本当の雑音になって有耶無耶になり消えていく。彼の自由を奪い、彼を渾沌とした中に陥れた水は何処かに遠ざかった。代わりに何かが彼を抱え、また彼の意思とは無関係に運んでいく。

 揺すられて喉が鳴る。呼吸を思い出したジェレミアは酷く噎せて目を薄く開けた。水を吐いて、肩で荒い息をする。まだ咳を繰り返す彼の背を擦る手があった。

 一分もして、ジェレミアはようやく落ち着き、濡れた顔を擦って手の持ち主を見上げることができた。ぜい、と鳴る息が声になりそこなった。

 白い。

 それがジェレミアの、その人に対する第一印象だった。恐らく彼だけではなく、多くの者が最初に思うことに違いない。

 闇に浮かび上がって見える人の髪は老人のように白く、しかし豊かな量と背の中ほどまでの長さを備えている。暗がりの中では肌も月に似た乳白色で、ジェレミアを覗きこんでいる瞳はそれに数滴だけ色を溶かした淡い褐色だった。全体として色が弱く、ぼんやりと光に霞ませたように白い。唇が血の色を透かしている。

 ジェレミアはそれが天使ではないかと思った。今なお讃美歌に歌われる真白の天使、禍を退けて歌った、アルアンヌを守護する美しいひと。いと高き王の祖。目の前の人はその伝承から抜け出してきたようだった。城に置かれる、名工の手がけた天使の彫像に似た――否、何倍も美しく見える姿が彼を見下ろしている。

 美しく整った顔はまだ子供のような雰囲気も残している。恐らくは十代半ばの、男か女かさえ、判別しかねる顔だった。

 まったく常のものとは思えないというのに何故だかとても懐かしく目に映るその美貌に、ジェレミアが己の弟妹に思い至るのに時間はかからない。彼は今まで自分の弟妹より美しい人間に会ったことがなかったが、これは同等か以上ではないかと、初めて感じたのだった。ハイラムとマリースがもし一人で生まれたなら。ジェレミアは女王の言葉を思い出す。それなら、こんな姿ではないか。

 ――ああ、本物の天使、真白の御方ではないだろうか?

 彼がほとんど本気でそう考えてしまったのも無理な話ではない。なにせ彼はこの美しい姿と見える前、ついさっきまで水に呑まれて沈もうとしていたのだから。死んで、生者には及びもつかない現象の只中に在ってもおかしくはない。

「俺は、死んだか?」

「うん? ……眩暈でもするかい、心臓が動いているのは確認したのだけれど」

 喘息に紛れた呟きに首が傾げられる。白い肌、髪を伝い、水が落ちた。髪はそうして水に濡れていなければもっと多く見えたことだろう。声は繊細な見目に比べしっかりとしている。耳を澄ませずとも聞こえる確かな声だ。繊細ではないが心地よく、穏やかに響く。天使のように歌っても人を落胆させることはないだろう。

 現実味のある声音で語る白い人の手がジェレミアの手を取り、胸の上へと導く。冷えた体の奥で鼓動が続いている。

「……ああ、どうも生きてるな――貴方、天使かと思った、あまりに白いし、」

 非常に特異な姿をしているが、人のようだ。天使でないなら妖精などでもありえない。魔物に属する妖精はその魔力で姿を成す為に人となっても黒いもので、ジェレミアはそれを本で読んで知っていた。新種であるなどの別の事例を考える余地は、今の彼にはない。

 ふうっと息を吐き、他人事のように呟いたジェレミアは再び咳き込んだ。体の中まで水浸しで、痛みを抱えた頭と共に重く濁っている。

 寝かせられた場所も固く、真っ平らではなく、いくらか凹凸のある冷たい岩の上だった。これが死の後に迎えられる世界ならば、絶望するより他はない。

「……天使?」

 喘ぐように息を繰り返すジェレミアに、見下ろす天使のような人が呟いた。目を丸くした表情は、彫像や絵で見るような、安らかに過ぎる微笑とは違う顔だった。

 人そのものと違い、白みのないくすんだ色の粗末な服は水を含み、たっぷりと重く肌に張り付いている。水に飲みこまれ溺れたところを助けたのが彼――ジェレミアは口調からひとまずそう分類した――なのは、一目瞭然だった。

「いや、冗談だ。助けてくれてありがとう。此処は?」

 やっと起き上がったジェレミアは濡れて張りついた前髪を後ろに流して、尋ねながら辺りを見回した。そしてまた徐々に、先程までとは別の理由で呼吸を忘れていった。

「……此処は?」

 浴室と同じように暗い場所だったが、彼の目は働いた。最初に連想されたのは渓谷だった。

 ざあざあと流れる水に面した岸辺。河の両側は高い壁に遮られていて、その先の様子はまるで知れない。川上と川下は闇に溶けて見えず、時間を知ろうとして上を見ると空はなかった。ジェレミアが首が痛くなるほどに上を見ても、何処にも。

 見上げた先、遠くには天井とでも言うべき岩盤があった。遠いが、あることは判った。地面と同じく平らではないように見えたが仔細は不明。昼か夜かは知る術がなかったが、此処はまったくの外ではなく何処かの中だということを、ジェレミアは理解した。そのことで場所の印象は渓谷から鉱山へと切り替わる。噂のブランヘアックのように切り崩した垂直の山肌が見える鉱山では無く、山の中を掘って進み価値ある物を探し出す山の中。つまりは洞窟だ。

 洞窟の岩壁にはぽつぽつと、いくつも灯りが掲げられているようだった。低い所も高い所も問わず、何かを照らす為に点けたのではなく勝手に灯ったような位置にある。辛うじて視界を確保するだけの光は火の赤色ではなく淡い青色の魔法だったが、ジェレミアの知る代物よりも格段に弱い。目の前に居る人が天使のような白色をしていなければ見逃してしまいそうな、寂しい星空のような空間は奥まで続いている。

 横たえられていた場所は、見たところその広大な洞窟の一角だった。横を流れる河から拾い上げられて、此処に寝かされたのだ。

 すべてが薄闇の中、青みがかっていた。通る風は湿っていた。濡れて張り付くシャツ一枚の格好は身震いするほど寒い。

 それを情報として整理したところで、ジェレミアの求める簡潔な答えは得られなかった。此処は彼の知る都ではない。だというのに、漠然とした不安を感じながらも、彼の心は落ち着いているようだった。学者の持つ知性や理性とはまた別に。

「君は、何処から?」

「城の浴室で……仕事をしていたんだが、下から凄い勢いの水が来て、飲み込まれたみたいだ。怪我をしていないのは奇跡だな。それで此処は、一体――」

 質問には答えずに、白い人は訊ねた。状況把握に勤しむジェレミアはそれを批難するでもなく告げ、繰り返す。しかしやはり答えはない。

 白い、天使に似た人は硬い表情をしていた。そうすると尚のこと石で出来た彫像に近い雰囲気になる。ジェレミアはその面持ちに気づかないまま、彼とは真逆の緩み呆けた顔をしていた。

「立て。もう少しすると水位が上がってくる。話は向こうで、するから」

 いくらか黙り込んでから立ち上がり、手を差し伸べながら白い人は言った。

 笑いかける顔がハイラムとマリースを思い出させるので、ジェレミアは無意識の内に彼の手をとっていた。人の腕は細く、触れた肌は思いのほか硬く。立ち上がってみると背が低く小柄なのが際立つ。長身のジェレミアと比べれば結構な差だ。

 手を握ったまま、彼はジェレミアの手を引いて歩き出した。岸から高い所に上がり、岩を削りだした階段を軽い足取りで昇っていく。黙々と歩く白い姿に引かれながら、ジェレミアも黙って歩くしかなかった。水の入った靴が音を立てて不快だが、わざわざ口にすることもない。

 柔らかな声音と笑顔に相反する拒絶の空気を多分に含んだ沈黙の中、人の背を見つめていたジェレミアは転びそうになって、慌てて視線を下に修正した。そこで自分のタイとブローチが無くなっているのに気づく。

 靴は流されなかったのに、と彼は内心溜息を吐いた。命を拾っておきながら――拾ったからこそだが、残念で仕方がない。タイはともかくブローチは王から賜る学者の証で、彼の持ち物の中でも一等の品であり、誇りだった。こうして歩かされる中で役立つのは胸を飾る二つよりは靴だろうが、気分が落ち込むのは否めなかった。溜息を喉の奥に押し込むのはそれなりに苦労した。

 しかしそのような沈んだ気持ちも、長くは続かなかった。小高い丘の様な岩の塊を二つも越え、壁に挟まれる場所を抜けると、その先にはまた目を疑う光景が広がっていのだ。

 とっと軽い足音を立てて止まった人の後ろ、ジェレミアは一瞬眇めた目を見開き、息を呑んで立ち尽くした。彼の青い目は光を宿して光景に釘付けになる。白い人は振り返り、その様を見てからゆっくりと視線を前へと戻した。横顔が照らされる。

 彼らが眼を向けた先、明るい大空洞の中には町がある。

 灰色の岩壁の際から下へ下へと掘り下げたように、中心に行くほど深い擂鉢状の中に、それこそブランヘアックの採石で見るような、角張った箱に似た岩――建物の群れがある。やはり火ではない、魔法と思わしき白色の明かりが照らし所々白っぽくぼやけて見える様は、先程までの峡谷に慣れた目には眩い。壁の高い所から湧き出る水が滝となり、建物の合間に作られた水路に沿って流れて走っている。そうした水の道も光を受けて輝いて、まるで光が寄り集まっているように見えた。

 その不思議な空間にちらほらと動く影を、ジェレミアは見つけていた。人の姿だ。

 水路を飛び越えて物を運ぶ人。建物の影には洗濯をしながら話をする女たちが。そうして働く姿があるかと思えば、誰かが歌い、祈っている様子も見える。今隣に居る人とは違い見覚えのある一般的な容姿の人々が、一人や二人ではなく大勢。かなりの数が、生活を営んでいるのだ。賑やかさには欠けるものの、紛れもなく人々が生活をしている様子が窺える。

 人が居住している。建物の群れは住居の群れで、此処は町だった。天から祝福されたように白く輝く光の小都市。しかし此処はやはり洞窟の中で、上には厚い岩盤の天井があった。そこにも幾つかの光が星より眩しく灯っている。

 不可思議で鮮烈なその風景に、ジェレミアは目を奪われ続けた。

「此処は……」

 吐息が震える声になる。ジェレミアは先程人に促されてそうしたように、自分の胸に手を当てた。強い鼓動が指先を打つ。心臓や呼吸だけでなく、何かが震えるのを学者は知覚していた。それは例えるなら――エレオノーラ、魂を跪かせる王の前に立った時のような。

 白い手が再びジェレミアの手を引いた。歩き出す彼らの足元に、微弱な浮遊感。

「こんな魔法が、こんな大がかりな――おい、」

 巨大な石が浮かんで足場となっているのだ。未知の感覚に動揺して遅れるジェレミアを気遣って、白い人はゆっくりと、巨石が連なる階段を下る。階段は進む人の意思に従って少しずつ動いて、目的地までの距離を縮めているようだ。

 ゆるりと弧を描き螺旋になるその道は辺りを見回すに好都合だった。他の建物に隠れていた裏側がゆっくりと姿を現し、また隠れていくのを、ジェレミアは夢を見る感覚で眺めた。一段下がっていくたびに町に飲み込まれるような心地がした。

 小規模な町の至る所には水が蓄えられていたが、中でも目を惹くのは一等窪んだ中央に丸く湛えられた青く澄んだ水だった。深く静まり返って吸い込まれそうな水の色は、その明るさに反してジェレミアに己を飲み込んだ穴を思い出させた。すぐ近くにある建物は他のどれよりも古く苔が蔓延っていたが大きく立派な作りで、壁を飾る波打つ模様や円を描く彫り物も見えた。ジェレミアの胸を既視感が突く。

 ジェレミアを導く人はどうやら、其処に向かっている。

「質問に答えてくれ、此処は何処だ」

 絞り出すような声に、目を細めた白い人は巨石の中でも一際大きい一つの上で立ち止まり、横に並んだジェレミアを向いた。肉付きの薄い唇が動く。

「此処は、君たちにとっては過去。忘却された場所だ」

「……何?」

 声に耳を打たれ、ジェレミアは聞き返した。瞬いて振り向き、見遣った人はやはり白く、天使のようで。

 恐ろしく整った顔がじっと、静まりきった水面のようにジェレミアを見つめている。

「近いうちに亡びるだろう」

 彼は小さく予言した。

 その言葉と表情とは、ジェレミアの頭に、心に、よく響いた。彼は言葉の意味を半分も理解しないままに呟きの声量が自分の内側に反響し大声となり、魂を揺さぶるように働きかけるのを感じていた。理由の知れない、分類することのできない感情が胸にも頭にも満ちた。

 ほろびる? と、知らない言葉のように彼は口の中で繰り返した。答えの代わり、割るように激しい音が世界を打ちつける。

トリ(、、)が来るぞぉ!」

 それは怒号と、悲鳴と、警鐘だった。激しく鳴らされる鐘の音が壁に衝突して倍になり、人々の叫び声を飲みこんでいく。

 ふっと、眩かった世界が暗く翳る。狭い所を風が抜ける、鋭く尖った音が一つ混じって上へと吹きぬけた。ただでも冷えていたジェレミアの肌から温度が奪われる。

「――駄目だったか」

 白い人が顔を上げ、力強く前進した。体勢を崩したジェレミアを無理に引き寄せて走り出す。

「足を動かせ! 喰われるぞ!」

 凄まじい音の中でも言葉はどうにか聞き取れた。何が起こったのかを考えるより早く、ジェレミアは引かれる勢いのまま走り出した。そうしなければいけないと粟立つ肌が知らせていた。

 石段はまだ中程。地上は遠く、乱れ吹く風が体を揺らす。走り続けるにはつらい道で、天使のような人に導かれる手だけが、ジェレミアには軽く感じられた。

 ジェレミアは必死に走りながら、上からの光を遮った何かを探して視線を巡らせた。見つけるのにそうそう時間はかからない。

 なにせ、それは非常に巨大だった。また風が響いて、彼らの、人々の頭上を黒い塊が旋回する。

 光の見当たらない夜よりも黒い、ただただ黒い巨体。

 蛇のような体は底の小都市をぐるりと囲めるほど長く。太さは城の千年樹どころか、もっと古い森の老樹でも敵わないほど。加え、家々を纏めて覆える絨毯のような翼を体の横に十もつけている。口先は嘴のように尖っており、ばっくりと深く裂けた大口の横には、禍々しく赤く渦巻いて輝くこれまた大きな目がある。それがぎょろりと動いて町を見下ろしている。

「魔物――」

 漆黒の、化け物。黒い魔力を纏ったその生き物をジェレミアはそう断定した。しかし彼の知識ではそこまでが精一杯だった。このようなものは、見たことが無い。知らない。

 化け物が水鳥のように首を下へと滑り込ませる。嘴の先が白い擂鉢の曲面に触れたと思えば、すぐに頭は上を向き、巨体の姿勢は再びの旋回へと切り替わっている。

 口には人間が咥えられていた。逃げ遅れた者が嘴に挟まれ、絶叫しながら丸呑みにされる。

 魔物は人を喰らい、建物を砂山のように崩して暴れまわる。鐘は絶えたが悲鳴は絶えず、矢や石が飛んでは黒い皮膚の上で砕けていく。赤の目がその出所を睨むでもなく見つけ出し、捉えた。

 ジェレミアは叫ぶことすらできないまま、息を乱しながら、引かれるままに走り続けた。目は既に宙を這い回る巨体には向いていない。

 狂乱に覆われた美しい風景の中、彼の探す騎士の姿は何処にもない。この規模の町であれば、アルアンヌなら必ず居るはずの白いサーコート姿は一人も見当たらない。彼の弟妹とその同僚、上司たちのように町を護る、恐ろしきものに立ち向かい、助けを求める人の手を取るはずの者が居ないのだ。

「此処はっ……何処だ! アルアンヌじゃあないのか!」

 先程までの問いの続きを、ジェレミアは咆えた。

 国の中枢、城に招かれた最上位の知識人たる王城学者が、まるで聞いたことのない風景。都市警備の騎士団の不在。これほどまでの惨事を引き起こす魔物が、まだ居るという状況。全てがアルアンヌに似つかわしくないと、彼は知っている。

 だが、同時に理解していた。前を走る人がそうであるように、叫んだ人々の言葉はいくらか訛りを含んではいるもののアルアンヌの人々と同じだった。旅客を除けばアルアンヌ人だけが使うはずの、島国の美しい言葉だ。それが事実を曖昧にする。

「アルアンヌ王は、違うと言うのだろう」

 白い人の淡い色をした瞳が風の音に引き寄せられ、不吉な赤の眼光と衝突する。彼の細い眉が忌々しげに寄った。

「此処は忘れ去られている。だから、君も覚えているべきではない」

 間隔の短い息を交えながら言い急停止した彼の背に、止まりきれなかったジェレミアが衝突する。心臓から送られてくる血の音が耳に煩わしい。

 白い人の細い足は楔になって岩に打ち付けられていた。緩くはないはずの衝撃にも彼は微動だにせず、懐から短剣を取り出し、迎え撃つ姿勢を作る。

 咳き込み、涙が滲む視界に黒い魔物の姿を認めたジェレミアの顔が強張る。体温が奪い去られる錯覚。至近で見える恐ろしい化け物と、美しい人の姿。黒と白の対峙。学者は己と世界に問うた。

 ――これは夢か? 目覚めて、忘れるべきものなのか?

 黒い魔物が風を引き連れて鎌首を擡げ、振り抜かれた剣の白銀色が鋭く閃く。

 白いものが音もなく、爆発する勢いで弾けて二人の視界を覆い、大口開けた魔物の横面を張って叩き落す。ぐらりと傾ぎ、下へと進路を変える魔物の巨体。

 黒を迎え撃った白はジェレミアもよく知る魔力の放出だったが、知ったものほど安定していなかった。多量に広がり、形を保てぬままに散り散りになる。大きなダメージが与えられていないのは明白だったが、追撃はない。

 羽根布団を引き千切ったような中、ぐるうり、渦巻いて輝く瞳が二人を見ている。黒い翼に掻き混ぜられ、白い魔力はばらばらと散り渦を巻く。

「心配するな、君は逃がす」

「貴方は!」

 細く吐き出した息の続きで紡がれた言葉に、ジェレミアは反射的に叫んでいた。堪えがたい提案をされたと感じたのだ。

「私は逃げない。私は何に変えても此処を守らねばならない。私は王の帰りを待ち、亡ぶときまで此処で戦う。王が帰らずとも諦めない。……君が此処に来たのが君の望んだことではないならば、我らが王を知らぬなら、君は帰るべきだ。君はアルアンヌの民なのだから」

 体勢を崩した魔物の横を駆け抜けて、白と黒を突き抜けて、引き攣れた声に答えて天使は歌う。荒い息の一つが笑ったように口元で解けた。

 呼ばれた気がして、ジェレミアは吸い寄せられるように足元を見下ろした。青く円い水面が近づいている。

 水音。固まっていた水面も乱された大気と同じように揺らぎ波打ち――立ち上がろうとしているようだった。ジェレミアは如実にその気配を感じ、あの暗い浴室を思い出した。

「天使が言う言葉だろう。聞いておけ」

 気づけばジェレミアは、引く手の横を、そして先を走らされていた。振り返っても遅く、生乾きの背を白い手が押しやる。石の上に立った時とは違う確かな浮遊感。青い青い澄んだ水が、彼を呼んでいる。青い青い、彼の瞳と同じ色をした水が、呼んでいる。

「蛇よ連れていけ! 彼は天使の民だ、空の下に返せ!」

 天使が叫んだ。浮いた石段から突き落とされたジェレミアを水が迎え入れる。水しぶきと波の音は何かを喚き、彼の耳を覆い体を水底へと引き込んでいく。悲鳴は上がらなかった。

 ジェレミアの目に焼きついたのは、水の青色。そして端に天使の姿。それは絵画や彫刻で見るような微笑みを浮かべた天使ではない。来た道を引き返しまた魔物を迎え撃つ、禍を退ける戦天使の勇ましく泥濡れた横顔だ。水の向こうで輝く都の中で、真白の天使によく似た人が、彼の弟妹に似た誰かが、刃を掲げている。

 こんなに懐かしいものを他に知らない。ジェレミアの思考も、言葉も、全て水と泡に飲み込まれて暗く途絶えた。


 短く引き攣った声と共に、明るい部屋で青い目が見開かれる。

 服は水ではなくじっとりとした汗に濡れていた。背にあるのは硬い岩でも水でもなく、柔らかな布と綿の寝床。窓から見える青空は突き抜けるように高く、視界の端には木立が見える。上下した胸を満たす空気は慣れた自宅の匂いで、穏やかな春のものだった。

 恐ろしいものなど何もなく、音と言えば水路を辿るささやかな水の音と鳥の囀り。風が流れて木々を揺らした。荒れた呼吸を安堵の吐息に変え、彼は再び目を閉じる。

 自室の寝台の上、熱に浮かされたジェレミアの唇は誰かの、または何かの名前を呼ぼうとしたが、声は胸につかえた。きっと分からないのではなく思い出せないのだと思う間に、また意識は眠りに沈んでいく。

 閉ざした瞼の裏に、彼は天使の顔を見ていた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ