六 暗転
「おい、お前たち、五階の。ジェレミア君を知らないか」
魔法塔の入口、ランプを灯した薔薇紋章の下で入出記録を捲る老学者が呼びかけた。階段の奥、テーブルを挟んでカードに興じていた若い三人が顔を上げ、手札を伏せて立ち上がる。
「どうかしましたか」
「彼のご兄弟が来ておるよ。家に帰っていないそうだ。出て行った記録はないが?」
彼らが外を覗き込めば、そこには確かに彼らの同僚の似つかない弟妹が立っている。騎士の真っ白なサーコート姿で、灯りに照らされた金の髪と白い肌は触れてもいないのに温度を伝える色味になっていた。
少々見惚れた人たちに頭を下げ、前に立ったマリースが口を開く。
「すみません、お忙しいところ。今日は近所の人との約束があるのに、何も言わないなんておかしいからって……兄さん、上にいないんですか?」
彼女の顔には少なからずの不安がある。約束事に対して几帳面なジェレミアが帰ってこないこと自体不安材料ではあるが、いつものように研究に熱が入りすぎて中断できなくなったのだろうと楽観していた彼女にとって、塔にも不在だという事実は予想外に過ぎた。
美女のそうした顔は、男たちの同情と親切心を引き出すには申し分ない。
「居ないよなぁ。俺たちさっき物を置きに行ったけど」
「誰が見たのが最後だい?」
「来た時見ました。今日は昼。それでなんもしないまま、三階のに頼まれて城の設備点検に行ったはずです」
「その後は?」
表情を覆った曇りを払拭しようと、男たちは同僚の行き先について話し始めた。天井に遮られる上階を見て、時を遡り、夕刻に鳴る終業の鐘を通り越して真昼に辿りつく。確かに会った、と研究熱心でも挨拶ぐらいはする学者は断言した。
しかし昼の頃に至るまで、彼らの記憶にジェレミアが姿を現すことはなかった。日が沈み月が半分も進んだこの時刻から昼までを振り返っても、彼の後姿すら、通り過ぎることは無かったのだ。
訊ねられた学者は首を振って、星の紋章を掲げた何処よりも高い天文塔を指で示した。
「俺たちはちょっと隣の塔に。入れ違いでしたよね? ついさっき戻ってきたんですけど……」
「僕は今までずっと居たが……一度も見てないぞ」
別の学者が言う。彼らを呼びつけた老学者が目を丸くして、高い声を上げる。
「じゃあ城に出てからずっと帰って来てないのか? あの男が、遊びに出たわけでもあるまいに」
「……昼から、ですか?」
ハイラムが驚いて確認する。改めて顔を見合わせた学者たちは頷きあって、さて困ったと双子のほうへと視線を戻した。彼らの顔もさすがに困惑したものとなっている。
眉間に皺を寄せた一人が、テーブルまで引き返して上着を手にとる。
「大丈夫大丈夫、隣見てくるからさ。――お前は植物塔覗いてこい。あいつ今植物の分析やってたから、居るかも」
彼ら以上に困惑した様子の双子の肩を軽く叩き、駆け足で出て行く。声をかけられた学者も上着を手に後を追った。ジェレミアが出入りすることのある塔は魔法塔の他、天文塔、植物塔、医術塔と呼ばれる三つだ。医術塔は既に全ての灯りを落とし、施錠されていた。
学者以外の立ち入りが基本的に許されない塔の間で、ハイラムとマリースはどうしようもなく立っているしかなかった。見かねた老学者がゆっくりと落ち着かせた声で言う。
「君たちは城の門番に訊ねておいで。もしかしたら誰かに呼ばれて、まだ中に居るのかも知れん。私は此処で待っていよう」
促す言葉に頷いた二人は、不安を抱えたままに走り出した。
その夜、学者ジェレミア・オークロッドの行方が知れることはなかった。
学者塔のいずれにも姿はなく、書庫にも、周辺にも見つからない。城には――点検の為にと、入った記録も残っていなかった。
彼が城に赴いたという証は学者たちの証言だけで、城の人々は誰も若い学者の姿を見ていないと言う。城の中に入ろうと思えば必ず会うはずの門番も、ところどころに立つ騎士団の者たちも、誰一人として。ジェレミアは森の中で忽然と姿を消したことになっていた。
平和な国の平和な都、中でも最も安全でなければならないその場所、穏やかで落ち着いているはずの時期に起きた事件は、すぐに城中の知るところとなった。動き出した騎士団に彼の同僚である学者たちも加わっての捜索がされたが、いつぞやの亡霊騒ぎのように、若学者の姿を見つけることは叶わなかった。そのまま夜が更けていった。
――ある居室の窓辺で、娘が外を見ている。不安げな顔で見つめる先には学者塔が天を目指して聳えていた。その根元では、いつになく慌しく、人が動き回っている。
すっかり体を乾かした浴室番の少女の目は、今にも涙を零しそうに潤んでいた。
「ライザ」
背後からかかった重みのある声に、彼女は肩を震わせる。名前を呼ばれたというのに振り向けなかった。恐ろしかった。浴室の床に空いた大穴に自分も吸い込まれるような、そんな心地がした。
「今回のことはお前が引き起こしたのではないことも――お前の力ではどうにもならなかったことも、分かっています」
とうとう溢れた雫が、乾かされた頬をまた濡らしていく。か細い、喉から絞り出す嗚咽交じりの声は謝罪のようだったが、聞き取れたものではない。
華奢な円卓に載せられた、濡れてぼろぼろになった点検用紙の上を何度も指が往復する。滲んでいる文字は若い学者の、走り書きでも明確だった筆致。浴室に残された形跡を撫でていた指が、爪を立て、表面に皺を寄せる。ぐしゃりと潰れた紙は更に小さく握り込まれ、横に控えた白服の男へと手渡される。
部屋が一時僅かだけ明るくなり、薄く煙が立ち昇った。少女が預かっていた上着も同じような末路を辿ったことだろう。残るのは僅かな燃え殻ばかり。
女王エレオノーラは立ち上がり、ゆっくりと窓際へ歩を進めた。少女の横に立ち、紙に触れていたよりも遠巻きに背に触れる。肩が跳ね、嗚咽が増す。
「……水の導きにより――〝民は永久の地に〟」
夜空の手前、円い硝子に映る自分の顔を見つめ、睨みつけ、エレオノーラは呟いた。