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五 呼び声は地の底より

 半数もの学者が要請を受けてブランヘアックの鉱山へと向ってしまった魔法塔五階は、いつになく閑散としている。別分野の研究の為に別の塔へと出て行った者もいて、真昼の祈りを終えたジェレミアが出仕してきたときには二人しかいなかった。

 人が減ればそれだけ静かになる。壁際、丸い部屋の端と端に机を構えている二人の学者は会話をすることもなく自身の研究に打ち込んでいて、ジェレミアが来れば挨拶こそしたが、それきりだった。

 黴臭い本が慎重に捲られて、インクが密集して迷路のようになっている魔法回路の図式が久方ぶりに空気と触れる一方で、真っ青な一滴を加えて振られたフラスコの中では灰色の靄が樹の形に集まっていく。いつもに増して個々が強調されているが、新人でもないジェレミアが戸惑い持て余すこともない。彼だって、挨拶をしているときは既に鞄を置いて、資料棚へと爪先を向けていたのだ。

 魔法植物の分析結果を纏めた書類の束を迷わず抜き取って抱えてから、奥の本棚に移って上から下までを眺める。

 自宅で読んできた本に引用されていた文献を探しつつ、彼は今日の予定を反芻した。今日は少々の調べ物をして研究の方向を検討して、上階の老学者を訪ねて暇そうなら話を聞く。忙しそうであれば後日の約束をとりつけ……

 騒々しい声がかかったのは、見つけた古めかしい本の背に指がかかったときだ。

「――ジェム、ジェレミア! 頼みがある!」

 歌劇の役者のようによく響く声で繰り返しジェレミアを呼んだのは、マーティンという五十過ぎの男だった。此処ではなく三階の住人であるはずの彼は螺旋階段を昇って、五階に辿りつききらないところで足を止め、上半身だけ覗かせてジェレミアに叫んでいた。

 異名は三階の奇士。研究に関しては真摯だが、人に関してはそうでもない、自分中心に世界を回していると評判の魔法文字(トリセスネク)学者である。わざわざ人を蹴落としこそしないが、けっして顧みない。塔に在って家柄や功績は二の次、彼の中の序列は当人の年齢と経歴で決まる。先輩後輩または師弟の関係を見て自らより下ならば、自分の小間使いも同然だ。父イーノスが優秀な学者であった故に一目置かれることが多いジェレミアも、彼にとってはただの若輩学者に過ぎない。

 ジェレミアの学者半生をどれほど振り返っても、マーティンに関する好ましい思い出はない。むしろ恩師が学生時代にマーティンの近しい同輩であったが為に、他の若き学者よりも迷惑を被っている。

 ジェレミアは露骨に眉を寄せ、顔だけを階段の方へ向ける。

「なんでしょう」

「城、浴室の魔法装置点検! シモンが鉱山調査の荷物持ちに連れてかれちゃってさぁ」

 声にも顔にも拒絶を満面に滲ませたはずが、視線が合うと笑みを深められてしまう。顔だけ見れば親しみやすい中年なのだが、にこりとして繰り出される台詞は人に何かをさせることへの疑問や気後れが皆無で、非常に押し付けがましい。

 ジェレミアも知っている、やはり彼に扱き使われている新人の名前を出して、けして「いいえ」とは言わせない姿勢だ。

「……ええ、」

「ジェム、頼むよ」

 不満そうな声に続く反論の前にもう一度要求を捩じ込み、親しげに愛称を呼んで。

「俺は今来たばかりで」「いいじゃあないかねジェレミア・オークロッド君! 机に向うだけが勉学ではないと君の師も言っただろうに? 城の設備点検なんてねぇ、愛国心の増進に見学も城へのアピールも兼ねる素晴らしい仕事じゃあないか! 新しい発見もあるかもよ? 君先日は陛下にお会いしたんだろぉ、それならその御礼も兼ねてだね」「……分かった分かりました、行きます」

 それでもどうにか拒否しようとするジェレミアに、早口言葉もかくやという勢いの言語の塊が叩きつけられる。理解力に劣るところのない学者でさえ一つ理解している間に三つが通り過ぎる台詞に、彼は内容を理解する努力を放棄した。

 年輩学者の喧しいお願いの仕方より何より、騒音に気分を害した同僚たちの視線が痛く彼に突き刺さった。無論向ける方向は同輩ではなく闖入者のほうではあったのだが、ジェレミアはそうして人の間に生まれる溝や軋轢が強化されるのを素知らぬ顔で見ていられる性質ではない。最早折れるしかなく、ジェレミアは手を前に出して制し、渋々資料を元の場所へと戻す。苦い薬を口どころか胃袋いっぱいに詰め込まれた顔をしていた。

「さすが! ありがとう、今度食事でも奢るよ」

 対照的に、マーティンは目を輝かせて歓声を上げた。後はもう興味の失せた素っ気なさで、軽やかに五階に侵入すれば点検用紙の留まった板切れを押し付け、上着を翻して颯爽と住処へ去っていく。

 こう調子よく言って奢ったことなど一度もない。ジェレミアは盛大に溜息を吐いて、居残る学者に声をかけて塔を出た。見送る二人は揃って不愉快そうな、気の毒そうな顔をしていた。

 ――思い出して出来た眉間の皺を引き伸ばし、曲がった口の端を上げて。表情をどうにか和らげたジェレミアは王城の内部、浴室の扉の前で上着を脱ぎ、袖を捲った。

 扉を開けた少女と言って差し支えのない娘が、紗幕を払って纏め上げながら彼を見上げている。王の浴室の環境を整える為に居る専用の召使いだが、水と地の管理……という決まりに従ってか、彼女も王族の血を僅かに引いた人間だと噂されている。聞いて見れば、と言う程度だろうが、どことなくエレオノーラにも似た、高貴さと意思の強さを窺わせる目つきをしている。しかし火を入れたランプを手に奥を示す浴室番の小さな手は、若いというより幼く丸く、何かを指図するほどの強さもない。

 そして彼女は、学者に対して畏まった振舞いをした。ジェレミアの上着を受け取り首を傾げる。

「どうぞ。……お時間、どのくらい?」

「そう長くはかからない」

 仔猫のような仕草に答え、ジェレミアは襟元を僅かに寛げた。湿った空気が無意識にそうさせた。

 城の中央に存在し王だけが使用する浴室は、魔法塔の一室よりも広い。

 白い石造りの室内は色こそ明るかったが、採光窓はなく、灯りを持ち込まなければ前も見えないほどに暗い。ランプで浮かび上がった壁や浴槽には、波を模したもの、渦巻きや鱗の模様、魔除けの瞳など様々な模様が彫られていて、権力者の浴室というよりは遺跡のようだった。

 数人がゆったりと浸かれる大きさの浴槽は二つあり、今もいくらかの水が引き入れられている。少女が言うには清掃の準備中とのことで、床のほうはまだ水を撒く前で乾いている。どうせ磨くからそのままでも、と言われたジェレミアは靴を履いたまま、そこに足を踏み入れた。

 温泉にも恵まれているアルアンヌだが、王都近郊の水脈は冷泉に限られている為、湯を張るには沸かすしかない。庶民の家では薪を使うが、城や貴族の邸宅など資金のあるところでは、先日の謁見報告でも使ったクロリーバー鉱を利用している。

 今ジェレミアが向き直った遺跡染みた浴室の一部になっている円筒形の金属容器も、クロリーバー鉱利用の暖房装置だった。製作者はジェレミアから見て三代ほど前の学者で、鍋のような箱入りの装置はそう大掛かりなものではないが、一つの魔鉱から魔力を引き出すだけで他の魔鉱も反応させる連続回路が備わっている。シンプルながら非常によく作られていて、現在各地で使われている物もほとんど、この装置と同じ形をしている。

「作動させてくれるか」

 浴槽の横にあるそれの前に屈んだジェレミアは重い金属の蓋を取り外して横に置き、ランプで手元を照らしていた少女に言う。

 彼女は頷き、首に提げていた紐を引いて、襟の中から小さな貝殻のような物を取り出した。指揮棒(タクト)の一種だ。

 装置の、魔力を流す回路の始点にその白い欠片を触れさせる。ジェレミアが覗き込んだ内側にある黒い線に白く魔力が流れ込み、すうっと弧を描き――瞬く間の勢いで白線が鍋の縁を一周し円となった。下に配された魔鉱が反応を始め、鍋の中は淡い緑色に満たされる。

 側面に触れて確認すると僅かに温かい。余剰に、外側に放出される温度はこの程度だが、少し待てば湯を沸かすのに十分な温度が水に伝えられる。貯水に働きかける回路は今は遮断されていた。

 ジェレミアはあれこれと要所を確認して、先程マーティンに押し付けられた書類の項目を埋めていく。若く、こういう仕事を押し付けられたことも少なくない彼の点検は早い。

「……回路が切れそうだな。最近、温めるのに時間がかかったんじゃないか? 明日にでも修復できる技師を寄越すから、一日これを使わなくてもどうにかなるように手配をしておいてもらいたい」

 全ての項目の確認を終え、ジェレミアは装置を停止させるように手で示した。少女はこくこくと小刻みに頷いて、もう一度指揮棒を翳して魔力を湯沸かし器から引き上げる。

 この程度の物は、学者が普段扱っている物事に比べれば単純な装置だ。点検などは新人

でも十分に可能な単純作業に近いもので、最初に言ったとおり大した時間もかかっていない。それでも突然に齎された仕事だった為か、ジェレミアは酷く疲れた気分になっていた。マーティンに頼まれた時点で大分疲れてはいたのだが。

 立ち上がり体を伸ばし、気分的な疲れ目を癒そうと遠方に視線を投げかけたが、いくら広いとはいえ暗い部屋では大した効果も得られない。

 長居しても仕方がない場所である。さっさと退散しよう、と考え捲った袖を直すジェレミアの手が、ふと止まった。

「ん?」

 青い目が瞬き、浴槽を見る。張られた水は揺らぎもなく溜まっているだけだったが、ジェレミアには耳慣れた音が、空耳では有り得ない長さで聞こえていた。

「急に降り出したか?」

「えっ?」

 水が流れ、何かにぶつかり、揺れる音。雨、滝、波。せせらぎと呼ぶほど優しくなく、騒々しく、穏やかではない気配だった。晴天の今日には聞くはずのない――ロードベリーでは秋にでもならないとなかなか聞かない、普段とは違う、水の激しい側面を思い起こさせる唸りだ。音はその激しさに反して小さなものだったが、彼を取り囲み、足元から這いより耳に、頭にと染みていく。

 それは外からではなく、部屋の奥、ランプの光が影と溶けるところから聞こえるようだった。動かないジェレミアに浴室番の少女も訝しげな顔をする。

 彼女には、その音は聞こえていなかった。

「……学者さん?」

 けれどジェレミアには、少女の呼びかけも徐々に大きくなる水の音に隔てられて聞こえた。点検用紙を留めた板を装置の上に置いて、彼は誘われるように一歩、二歩、奥へと踏み出す。

 ぴちゃりと靴が水を打つ。少女が目を見開いた。柔らかな丸みを帯びた細い腕がざわりと粟立つ。

 水浸しの床を注意深く進んだジェレミアは、五歩目で微かな揺れを感じた。それは次の瞬間、確かな衝撃に変わり浴室へと襲い掛かる。破壊を予感させる衝撃にはっとしたジェレミアは、とにかく少女を連れて外に出ようと振り返った。

 ざあ――ざあ! 音が一瞬で何倍も膨れ上がる。

 彼が見たのは、蒼白になって何事かを呟いた少女の顔だった。しかし水音に阻まれ、その言葉を聞き取ることはできない。そんな余裕もなかった。

 戻ろうと踏んだ先の床は無く、ジェレミアの体は大きく前に傾ぐ。床を埋めていた石材がまるで紙屑のように剥がれ、崩れ、下へと吸い込まれていく。そして水、水、水。

 透明な水が大きく盛り上がり、悲鳴を飲み込んだ。

 崩壊した床の向こう、学者を迎える水の抱擁。凄まじい勢いでやってきた噴流は泡を纏って白く、抵抗の暇など与えず、彼をその顎門に捉え、来た道を引き返す。地の底へと引きずりこむ。

「待って、だめ、だめよ、――連れて行かないで!」

 少女の声が水の唸りを縫って浴室に木霊する。小さな手が伸びても時は既に遅く、指先に触れるのは水しぶき。波に押されて転倒した彼女の顔が濡れているのは、水の所為だけではなかった。ジェレミアの姿はとうに水の奥に消えていた。

 ごうごう、ざあざあと、今は誰の耳にも聞こえる音が徐々に遠ざかっていく。

 何度かうわ言を漏らしたずぶ濡れの少女は這って進み、部屋の中央にぽっかりと空いた穴を覗き込んだ。学者を飲み込んだ穴は深く、闇を煮詰めたように暗く、どこまでも続いて見える。蒼褪めた唇がまた震え始め、顔を覆った彼女は大声で叫んだ。

「エレオノーラ様……エレオノーラ様! エレオノーラ様!」

 声を聞きつけ、やっと外から人が駆けつけた。それまでの轟音、水の訪れを知らない者の鈍間な到着だった。誰もが浴室を見て言葉を失い、暫し立ち尽くして、時間をかけてようやく動き出す。

 俄かに慌しくなった城を拒絶し背を向けたように、大穴からは何も聞こえなくなった。

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