四 宴と噂
ロードベリー中央広場は盛況だった。日が沈んでいくつも時間が過ぎているが、場所によっては眩しいほどに明るく照らされ、賑やかだ。
奏でられる音と若い歌声は、昼間に聴かれる天使讃美歌とは似つかない軽やかで世俗的な調べに乗っている。巧みに楽器を鳴らす男たちを従え、歌うたいの娘は高らかに旅人と商家の娘の恋物語を歌い上げる。数多く並んだ円卓の間を行ったり来たりして酒と料理を運ぶ給仕たちは休むことなく忙しない。
そんな中でやや薄暗い場所のテーブルを占拠しているのは、既に幾つかの酒瓶を空けた学者の一団だった。大半は赤い硝子のブローチが胸にある魔法塔の住人で、ちらほらと緑のブローチ、青いブローチも混ざっている。仕事上がりの若学者の集団である。
口実は、三日前に謁見報告を行った同僚の祝いと労い。実態は何処でも変わらぬ遊びたい人々の宴だ。もっとも、この辺りの仕事人たちは夜の食事は外食頼りという人も少なくないので、彼らが特別遊んでいるとは言えないが。
「最近さ、泉のほうで妙な噂があるらしいぜ」
歌が最高潮に達し、人々の拍手が空を打つ。その騒音が収まった頃、程好く出来上がった赤ら顔の青年が口を開いた。彼こそ緑硝子のブローチをつけた、植物学を主とする塔の学者だった。
「泉?」
「城内の、ほら、俺たちも採集で使うとこ」
「ああ」
聞き返す言葉に横から呂律の怪しい青年が答える。城の敷地に広がる森の中でも一際豊かで美しい東寄りの一角――千年を超える昔に湧いて、今の今まで一度も絶えることなく湧き続けている泉の周辺は、王都内で最も多くの植物が観測できる場所として認識されている。誰もが一度どころか十回は立ち入ったことのある場所を示す言葉に、皆が同じような声を上げた。
木の板を渡しただけの簡易な舞台の上では、歌を終えた娘に代わって、この時期にしては薄着の踊り子が舞いながら花びらを降らし始めていた。肌が浅黒い、異国人かその混血の女だ。
華奢というには肉感的な体をくねらせて微笑を振り撒く彼女の姿も、海の中継地点であり旅芸人の多く居座るこの国ではあまり珍しいものではなく、学者たちの意識を格別に引きつけるには至らなかった。振られた身近な話題は途切れずに続く。
「で、そこに、何か住んでるっていうんだ」
「何かって……」
「たとえば亡霊とか」
踊り子を見ていた青年たちも、馴染みのないその単語にはテーブルに顔を戻さずには居られなかった。
「亡霊?」
植物学者に向いた顔はほとんどが馬鹿にする呆れ顔だった。しかし彼はめげない。
「騎士とか学者とかが、あそこを通りかかると人影を見るんだってよ。見ると一瞬体が動かなくなるとか、追いかけてもすぐに消えてしまうとか!」
「亡霊って。もっと他に、何かあるだろうよ。魔物とか」
にやにやとしながら震える声を作って言う彼の頭が勢いよく叩かれる。大きく前に動いて皿がガシャンと鳴ったが、割れはしない。
「それ、ハイラムが見たって言ってたな」
悪態を吐きあう横、それまで黙って酒杯を傾けていたジェレミアが呟くと、視線は一気に彼のほうへと移動した。彼はまだ素面に近く、こういう話題に無暗に乗じる男ではないことは周知の事実だった。まして、家族の名前を出すときは。
「いつ?」
「三日前。俺が謁見報告しに行った日の昼だよ。ハイラムと同僚の騎士が訓練中に見て、騎士全員で捜索かけたけど何も見つからなかったんだと」
訊ねられても彼の受け答えはいつもどおり、迷いもなければ思い出すのに時間を費やしもしない。亡霊だと言うことはしなかったが、噂どおりのものがいるのはどうも確からしい、と。
おふざけの無いその様子に皆が顔を見合わせた。見た者がただ一人であれば幻覚、見間違えと一笑に付すことができるが、概ね視力にも優れる騎士が二人揃って同じときに見ているとなると、そうして片付けるのも難しい。しかしながらそのまま信じ込むこともできないという、微妙な面持ちだった。
「この話さ、結構昔からある話らしいよ」
静まり返ったところ、便乗する形で一人が挙手した。ジェレミアもよく話をする同い年の学者だ。
「あの泉の近くには何かが居て、見ると動けなくなる、って。先生たちも学生の頃聞いたって、聞いた。……実は、僕も見た」
ジェレミアから視線が移ってくると少々たじろいで、厚い眼鏡を弄りながら話し始める。噂話の噂。声は小さく、途中まで言って皆の目が丸くなると、少し黙った。
「五日前だ。夜に採集に行って、誰もいないって聞いてたんだけど、ぼんやり白い人影がさーっと……」
「お前眼鏡狂ってんじゃないのか」
「五日前って言ったら、たしか雨降ってたろ? しかも夜って、前見えてたのかよ」
「お前ら、あっちまで聞こえてるぞ。不確かなこと誇張して言いふらすなんざ……学者様らしくもない」
やはりまだ信じきれず、野次に似たからかいを飛ばす彼らの上から声が割り込む。溜息混じりの苦りきった言葉に、身を寄せるようにして話を聞いていた男たちはさっと背を伸ばした。
忙しい給仕の代わりに料理を手にして戻ってきたナフムが、隠しもしない呆れ顔で彼らを見下ろしている。湯気の立つ肉の煮込みとオムレツの大皿を置いて、足で引いた椅子にどかりと腰を下ろす。
その頃には既に、月のように丸い卵料理はナイフを差し込まれていた。
「なあ、人の姿作って化かす魔物とかいなかったっけ?」
「妖精種の大部分は美しい人の形をとると言うが、お目にかかったことなんざ一度もないね。お前らは知らないかも知れないが、魔物研究者だってその噂を聞いて、とっくにあの泉の周りは調査してる。結果、なんもなし、だ。妖精の痕跡も、他の魔物の痕跡も発見できていない。最近また出てるってんなら、そのうち仕事が来るだろうが」
エールを口にする間に投げかけられる話に応じるナフムの言葉は、専門人のものでありながら大層投遣りで面白くなさそうな響きだった。
ロードベリーの周辺域では五百年以上、その手の魔物が発見された記録は残っていない、という事実は、ナフムにとっても古い知識だ。王都から遠い地域でも、近年報告はまるで上がってきていない。上がったならばナフムは誰よりも先に飛んでいくことだろう。
他の魔物についても同様、騎士に護られた聖域に影はないのだ。
ナフムは自分の持ってきた料理が全て奪われてしまう前にフォークを突き刺して、手前の皿へと移動させる。隣のジェレミアは既にオムレツを一切れ平らげ、香草の匂いが食欲をそそる一品にフォークを移したところだった。
「ついでに亡霊と呼ばれる現象は、人の死後、肉体と共に残留した魔力が人型を取ったものだと考えられている。今言われたような事態を引き起こすか――ジェレミア先生の専門だな。解説願うか?」
「……簡潔に言うと、人の魔力残留は長くても一日程度、また意識の介在が必要な為、魔力源である当事者から一定以上離れた場所では発生しない。つまり亡霊現象は必ず死体の近くで発生する。そのことから泉の近隣で前日までに――」
「もう分かった、いい。魔法塔は亡霊話もフラスコの中に入れちゃうってことはよく分かった」
ナフムの言葉に切った肉を口の手前で止めたジェレミアの話が食事に向かない内容に至る前に、植物学者は首を振った。少々怖がらせる、また面白がるつもりの話題も学者にかかればこういうことになる。
殊に魔法学者たちは、魔物や超常現象など、人々が恐れ触れていなかった部分に目を向け学問に仕立て上げた者たちであるから、こうした与太もすぐに分析してしまう。
「よし、話題を変えよう。他の話なんかないか」
「お前が出せよ」
「あー、あ、そうだ、明後日のブランヘアック行きは? 派遣組決まったんだろ、魔法塔も」
死体など見つかっていないのだからやはり見間違えだと言う声を遮ったナフムに再び請われ、解説と違って持ち合わせのなく、食事を口に入れたばかりのジェレミアが跳ね除ける。代わり、フォークを揺らしながら訊ねたのは青硝子のブローチをした医学者だった。
新しい石が出たと話題になっている此処から程近い魔鉱採掘場。今一番の話題と言って間違いない。
「俺は同行が許可されてる。そろそろ荷物纏めないとな」
「俺も行ける。あとサミーとテッドも」
「僕は外れちゃってさ。残念だね」
「今回の当たりは五階だが、俺は留守番だ。土産に期待だな」
まずナフムたち同僚が答え、ジェレミアが追従する。
調査団を取りまとめることになった魔鉱の権威は、中堅と若手で手下を埋めた。派閥らしい派閥の気配のない、非常に公正な振り分けだと魔法学者たちが口々に言っていたのは今日の朝だ。偶然にも大半が五階からとなったので、他の階からは冗談交じりのやっかみもあったが。
希望を出さなかったジェレミアに声がかかることは予想通りなかったが、その分生じた余暇を、彼は存分に謁見報告を行った魔力抽出研究の進行に充てるつもりでいた。調査員任命がなくとも、近頃の彼は充実している。
「まあ、ともかく」
翌日遅出の予定のジェレミアは、躊躇なく乾いていた杯に新しい酒を注ぎいれた。溢れんばかりの杯を顔の前へ持ち上げる動作に、話していた者も、肉を口に突っ込んでいた者も目を向ける。
「我らの研究が高みに至ることを祈っている。我らと、アルアンヌの更なる発展の為に!」
「乾杯!」
表向き主役ということになっている人の天に杯を掲げての掛け声に、テーブルの全員が笑って応じた。彼らの席は希望と意欲に満ち溢れていた。杯から零れた酒が指先を濡らし薫り立つ。
灯りは絶えず、笑い声も絶えず、時に酔っ払いの怒声が響き。路地の奥では客引きの見目麗しい女たちが、王城学者の一団を狙って目を光らせている。
晩餐は深夜まで続いた。流れ巡る水に抱かれた麗しの都はそうして夜を過ごし、次の朝を迎えていった。