三 走る騎士と森の影
その頃、ジェレミアの弟妹は走っていた。
王都警護の役を負う第二騎士団、そのおよそ半数四十名が演習に使う城の東側、真新しい葉が他よりも濃く生い茂る森の中で、白い物が数多く動いている。
自在に形を変える輝く白はサーコートではなく、人の扱う魔力、魔法だ。
人よりも遥かに大きな狼の姿をした白い塊を操るのは、騎士団の中でも高齢の、女王の近縁とされる血筋のよろしい参謀の男。魔法と同じ純白の杖――指揮棒を手に、彼は魔法を操り、馬を駆る。
一見石のような硬質の表面を見せている指揮棒は、しかし極めて軽量な魔法学の産物である。
騎士たちの持つ魔力を通過させることにより、その特性を最大限発揮させ、安定性と操作性を向上させる活気的な代物。現在の魔法塔の管理者、ジェレミアの上司にあたる賢者が実用化に漕ぎ着けた物だ。人の持つ魔力は多様性に富む為、指揮棒も個人に合わせて様々な形状をしているが、騎士団では魔法を行使できない者を除く全員が装備を義務付けられている。
参謀によって訓練用に作られた擬似魔物を追いかけるのも同じく、各々の剣や指揮棒を構えた騎士たちだ。
「二班、進路を塞げ! 三班攻撃用意!」
団長からの指示が飛び、狩人となった騎士たちが獲物目掛けて殺到する。
白い魔力は時に足場を形作り、時に鳥のように滑空。勢いをつけて跳躍する狼の行く手に壁が聳え、走るものとは違う小さな狼が現れ、巨人の腕のような杭が降る。壁に衝突してたじろいだ狼の前脚に喰らいつき、その体を地面に縫いつけんと容赦なく迫った。
追い詰められた魔物の後ろ、一列に並んだ騎士たちの構える剣の切っ先で一斉に霞のような白が生じる。「撃て!」と響く大音声で、それらは矢となり狼の体に飛び込んでいった。
「行ったぞ!」
参謀が指揮棒を一振り。狼は上顎と下顎で裂け、二体に生まれ変わって壁を避け、奥へと駆けていく。壁が消え失せ騎士たちの声が追いかける。
二手に分かれた魔物の片割れ、森を抜けようとするそれを迎え撃つのは回り込みに成功した第四班。唸る姿に臆することなく、彼らは武器を構えて魔法を用意する。
湾曲した大振りの指揮棒を手に先頭に立ったハイラムは、睨むようにして狙いをつけ、指揮棒を構える右手に左手を添えた。手前に引く動作で、糸を紡ぐように魔力が現れる。
魔法の矢を番え、見えぬ弦を引き絞る。
幾度目かの咆哮に次ぎ、音もなく。彼に飛びかかろうとした狼の鼻面向けて放たれた矢は衝突と同時に裂け、頭へと絡みつく網となった。最大の武器を封じられた狼に他の騎士もそれぞれの魔法と剣で畳み掛ける。
その中にマリースもいた。彼女は双子の兄が捕らえた狼の真横に滑り込み、向かい合った同僚と視線を交わす。瞬く間に純白の槍となった細い杖の穂先と白銀の剣が、揃ってその体を貫いた。
衝撃に身悶えた獣は、蜘蛛の糸に似た変化を遂げたハイラムの魔法によって地面へと引き倒される。流れるように得物は退かれ、至近にいた二人が離脱、そして浴びせられる、更なる猛攻撃。やはり魔法で作られた大斧の一撃で、魔物の姿はようやく靄となって立ち消えた。
「掃討完了!」
時同じくして、やや離れた木立の中からも完了を告げる声が発せられる。魔法を納めサーコートと指揮棒の白だけを纏った人々がぞろぞろと連れ立って合流、整列した。
「諸君、ご苦労。異常なければ各自小休憩に入れ」
若者の多い前列を眺め、鼻の下に豊かな髭を蓄えた第二騎士団長アドルフ・キーンが言う。他の騎士と同じ装備に丈の長いマントと金の両翼徽章を加えた偉丈夫は、絵画や物語に描かれる騎士の模範を抜き出したようだ。
対魔物の演習を終え、お互いに――体だけではなく武器や魔法の調子を確認する中、男の多い騎士団では目立つ女の声が上がった。ナイフのような平べったい指揮棒を持った二十歳過ぎの女騎士だ。
「マリ、血」
友人に指差され、マリースは指揮棒を握っていた手の甲に視線を落とす。人差し指の付け根、ちょっとした掠り傷に血が滲んでいる。
「枝で擦ったんじゃないかな……別に、たいしたことないわ」
「母さんがちょっと心配して、必要量の二倍ぐらい薬を塗ってくれるだけ」
指先で拭って微笑んだ彼女に、三人ほど離れたところからハイラムの声が続けると小さな笑いが起こった。仲の良い双子の家族を誰もが知っているのだ。
「あのお兄さんもね」
笑いを含んだ唇でお調子者の騎士が言う。マリースは首を振った。
「兄はそれほどでもないの。これくらいの治る傷なら」
「そう、治る傷なら。痕が残った時は母さんより酷いよ」
やはりマリースの言葉を引き継いで、ハイラムがにやりと笑う。そうして最後には、二人は揃って肩を竦めた。竦め方といい、やや照れたような、困ったような笑い方といい、あまりに似ているのでまた笑いが起こる。
その和やかな空気に終止符を打つようにパンと手が鳴らされた。擬似魔物を操っていた参謀は人の好い笑みを浮かべながら、声を発さず、指揮棒の動きで列の組み換えを指示する。
騎士たちは素早く二分し、新たな列を作る。先程狼が分裂したのを思い起こさせる光景だった。
「それでは予定どおり、二隊に分かれての模擬戦闘を行う。各自指揮官の指示に従い、位置に就け!」
二十名ずつ分かれた騎士たちは、代表して選ばれた指揮官を先頭に駆け足で陣地へと急ぐ。乱れのない、よく訓練された人々の動きだった。
開始の合図をする為の角笛を剣帯から外したアドルフの横に、離れたところに馬を繋いできた参謀、ヒューバートが並ぶ。
「ハイラムとマリースも大分馴染みましたな。成長の楽しみな子たちだ」
目を細めて笑う彼は、走っていった騎士たちの最後尾を見ていた。北と南と、分かれて走る見目麗しい双子の騎士はどちらも遅れることなく行動している。歩調は少しばかりマリースの方が早いか。
「そうだな、魔法の筋は良い。剣術はまだまだだが」
「貴方に比べたら皆まだまだなのでしょう。……しかし双子だからなのですかね、彼らは時々、視線すら合わせずに驚くほど息の合った動きをする」
厳つく見える顔で頬も緩めないまま。実直で有名な騎士団長は、一言褒めてもそれに終わらず一言不足を口にする。そんな団長にまた笑みを深め、指揮棒を口元に寄せ、彼よりも年上の参謀は不思議そうに呟いた。先程もそうだった、と。
ハイラムの魔法がヒューバートの狼を地に倒した時、力がかけられたのはマリースの居た側に向かってだった。逆に居た騎士の剣はほぼ自然に抜けるので離脱も容易だが、マリースはそれよりも早く動かなければ間に合わない。にも拘わらず、彼女の行動は全てを予期していたかのように速やかで、狼の毛一つサーコートに掠らせることなくもう一人の騎士と共に離脱している。
言われたアドルフは髭を撫でながらその様子を思い起こしていたが、思考は長くは持たない。そうした原因を突き止める為の知識などを、彼は特別持ち合わせていなかった。
髭を撫でていた指が離れて、代わりに角笛が口元へ寄せられる。
「腹の中から共に生きていればそうなるのかも知れん――鳴らすぞ。準備しろ」
素っ気なく終わらせた言葉に応じるのは声ではなく魔法で、指揮棒が振られ、二人の足元にまた白いものが湧き上がる。形が整うには数秒もかからず、正方形の薄い板のようになったヒューバートの魔法はよく響く角笛の音と共に二人を乗せて浮かび上がり、木々よりも高く。移動する即席監督台はひとまず、訓練場となった森の中央付近で落ち着いた。
「北、動き始めました。三組に分かれて先制をかけるようです。南は包囲するつもりですね。さてどちらが上手となりますか」
やがて、森の端から白い物が姿を現し始める。それはサーコートであり、指揮棒であり、魔法である。それぞれに指示を受けた騎士たちが動き始めた。即座に分析したヒューバートが思考を呟きに変える。
長い時間をかけるつもりのない団員たちの動きは素早い。
北軍の先頭、先駆けを命じられたマリースが走る。指揮棒を従えた低い体勢で敵陣に飛び込む彼女に拘束の魔法が放たれるが察知は早く、白い帯は難なく回避、着地地点を狙っていた手の数々も、マリースが即座に織り成した壁と衝突して挫かれる。
魔法は魔力の質と量、そして状況に対応させる想像力と器用さが重要だと考えられている。
その点彼女は非常に優秀だった。向けられた攻撃などに対し、即座に応じるイメージを展開し、無駄の少ない魔法として形成することができる。速さにかけては、新人でありながら団長にも負けず劣らずというところだ。
女騎士は南軍に対し接近を続ける。熟練騎士の魔法が次々に襲い掛かる中を掻い潜り、時に木々の間を縫って翻弄。俊足は攻撃の網を抜け、一人の騎士の前に疾風となって訪れる。
振りぬかれた指揮棒は大振りの剣のようだった。受け止めた指揮棒と拮抗し、弾かれるときには姿を変えている。四枚の刃が風車のように広がって周囲に寄った騎士を牽制し――そこに増援がある。マリースの陽動に乗った者たち目掛け、木立に隠れて動いていた騎士が次々に攻撃を加えていく。
しかし、相手も騎士である。
共に戦う彼らは、仲間の戦法だって知っている。押されてばかりも居られないと、手数で圧倒する彼らの側面に回った南軍の数名が指揮官の声を受けて挟撃する。孤立状態に陥った騎士目掛けて放たれる獣、足元を狙う鎖、刺さりこそしないがかなりの衝撃を与える一矢。
回避し、振り払い進む北軍の一人がハイラムの打ち立てた柵によって足を止められた。一瞬の隙に付け込み、魔法と攻撃が降り注ぐ。
双子の妹と同じく優秀なハイラムの魔法は一つに留まらない。彼の援護はいかに距離があろうと的確な位置に生じ、人の足並みを乱して隙を作り出す。足をとられて転倒するものさえ居た。
彼の支援を食い止めるべく動いたのは、年の近い先輩騎士だ。形成の遅さをカバーする為に多量の魔力を放出、流動するそれでハイラムを包囲し枷とするが――数秒遅い。ハイラムは指揮棒を振り上げて他者の魔力を払い除け、肉薄した騎士の一撃を防御する。即座に二撃目。
団長が評したように、新米騎士の剣術、接近戦はまだ一流とは言い難い。力量差は手緩くなく、魔法を退けたはいいが、武器の範囲に捉えられた時点でハイラムの敗色は濃厚だった。離脱も許されず、掬い上げるような剣の動きに体勢を崩される。
「はっ――」
たたらを踏んでよろけたハイラムの目が大きく見開かれる。彼の目はもう決着をつけようとしている騎士たちの更に奥に、動くものを捉えていた。
横から加えられた殴打に、彼は受け身も不十分に転倒した。人形のように地面と衝突して平伏すのは束の間、即座に身を起こしたハイラムはしかし武器を掴むことなく、すぐに視線を木立の奥へと向ける。
普通ではない反応に、まだ武器を構えていた北軍の先輩騎士が眉を寄せた。
「ハイン?」
ハイラムの唇が何か呟こうとしたのを、彼は見た。
「どうした、ハイラム」
しかし声は発されず、美貌の青年は呆けた顔で遠方を見つめている。
模擬戦闘の決着は既についていた。結局、南軍の包囲網は北軍の力押しに綻び、確固撃破されたところだった。南軍の指揮官をしていた騎士が降服を認め、団長と参謀が連れ立って地上に降りてくる。
騎士たちは息を整えながら今回の首尾について話していたが、時間が経つと座り込んでいる新米と困惑顔の先輩に視線が集まり始める。どうした、怪我か、とかかる声にも、ハイラムは反応できないでいた。
「……見間違え、……いや」
ようやく、絞り出すような声が出た。
「あそこに、人が見えたんだ、一瞬。騎士じゃない。白服じゃなかった」
明るい緑に繁った木の先を見ていた青い目が、気づいたように仲間を見上げる。彼は人差し指で、あそこに、と指し示した。既にその影はなく、木の間を風が通り過ぎるだけだ。奥では清らかな水を湛えた泉が静かに揺れている。
彼を倒した騎士は、集まってきた同僚たちと揃って目を丸くした。
「そんなまさか」
古くから騎士に学者に権力者たちに、と様々な使い方をされている王城の森だが、まったく自由に解放されているということはない。この場所で騎士が訓練するのは城の人々に勤勉さと能力の高さを知らせる為だが、見世物として公開しているわけではなく、当然、人払いがされている。
「まさかだよ。だから、見間違えだと思うんだけど、獣って形じゃなくて、」
「私も見たわ。――団長、私も、見えました」
中には呆れたような顔さえあったが、遮って告げる声に誰もが振り返った。
人々の視線の中心となったのは先ほどマリースの怪我を気遣った女騎士だ。乱れた息を整え、肩を下げたところだった。演習で派手に駆けまわっていた彼女の足は震えている。
「あの奥です。……間違いなく人でした。恐らくは女かと」
団長に近づいて繰り返す。無論冗談を言う顔ではなく、聞いた男の、ただでさえ厳つい部類の顔は更に厳しくなる。
「君は見たか」
「……いえ、私はちょうど逆を見ていましたので。申し訳ありません」
自分と同じように上から監督していた参謀を向いて問い、同じく険しい顔をしての答えを聞いて、アドルフの眉間の皺は一層に深まる。思案する時間は先ほどの与太話よりはるかに短く、騎士の長は即座に指示を出す。
「訓練を中断する。ヒューバートは第一騎士団に連絡、ハイラムとヘレンは待機、残りは周辺を探索しろ。何か発見があれば逐次報告せよ」
「はっ!」
揃った声と共に、名指しされた以外の騎士が散開する。訓練の直後ではあるが、疲労を見せることはなく。
マリースだけがちらと振り返り、残った二人を見てから駆け出した。