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二十七 薔薇の下にてかく語る

 アルアンヌで信仰される〝天使〟は、かつての都から離れて民を導いたアルアンヌ最初の王のことなのだと、エレオノーラは前置きとして世間話の軽さで語った。その王は歌われるように神々しく白い、今のアンヌ王の側近のような姿をしていた、とも。

 アルアンヌ王は、元はといえばアンヌの王子だった。そしてアンヌの王子は、もう一人いた。

 彼は兄か弟か、双子として共に生まれた王子と大層仲が良かったという。しかし、何が契機だったのか、二人は道を分かち、民と国を二つに分けた。戦によってではなく、川がに分かれるような緩やかな分離だった。

 一人はアルアンヌを建て、一人はアンヌに残り。アルアンヌの初王となった王子は古き地を地の底に封じた。二人の意図ばかりは、エレオノーラたち直系の王にさえ伝わっていない。ただそれぞれに二つの国としてある為に、それぞれを民に教えずに生きていくことに決めた、その約束を受け継いでいるだけだ。

 そうして蛇神に背を向けたアルアンヌの王は新たな叡智を求め、天を突く十の塔を建てたのだという。あとは、セシリアとアルフィージが語った通り。それがアルアンヌの成り立ち、アンヌとの真実である――……

 十の塔の一つに身を置く王城学者は、椅子に座ったまま、水盆に指を潜らせる女王を見た。包帯を巻いた体は学者の黒い上着――家の奥から引っ張り出された父の一張羅の下に隠れている。タイを留めるブローチの硝子は赤く、一筋縦に刻まれた傷がまるで蛇の瞳孔のようだった。

 対する女王は謁見報告をした時と同じ、緑色のドレスを身に纏っていた。形の良い頭の上には王の証、流れる水を象った銀細工の王冠が輝いている。

「アンヌの者が最初に私を訪ねてきたのは、お前の謁見報告を決めた夜でした」

 その夜、訪れたのは彼の国の王ではなく、その側近。アンヌの王の力を以て泉を潜った真白の天使に似た人は、自らの王と同じ顔をしたエレオノーラの前に膝をつき、彼女に王の言葉を伝えた。

 曰く、アンヌでの魔物の大量発生。苦心しながらもそれらを狩ったところで現れた、それまでとは比べ物にならないほどの脅威。――竜の姿をした、禍。

 アンヌの滅亡を予感させる言葉だった。目を瞠るエレオノーラにアルフィージは頭を垂れて、どうか、と言った。港町レボルマスの使者が水を操る王に懇願したのと、同じ響き方をする、切実な声で。

 ――アルアンヌ王のお力を以て、助けていただきたい。

 アンヌとアルアンヌを隔てる、扉の開放。それがアンヌの使者の望みだった。

「私はそれを退けた」

 思い出す夜とは違い明るい庭で、硝子屋根を通って注ぐ陽光を受ける水から指を引き上げ、エレオノーラは小さな声で言った。視線はゆるりと持ち上がり、怪我を気遣って座らせたままのジェレミアを向く。

 建国以来の大事ゆえ暫く考える時間を、と、エレオノーラはアルフィージに告げた。

 女王は目を伏せて、天使のような美貌の人の顔を思い浮かべた。向けられたただ一言でエレオノーラに扉を開ける気が無いと勘付いた、絶望と、憎しみを綯い交ぜにした天使らしからぬ表情。

 なぜ、と動いた口を見ぬふりをしてアルアンヌの女王は続けた。戻り、王に伝えよと。

「セシリアが来たのは……二日後、お前の謁見報告のすぐ後のことです」

 午後の執務に戻ろうとしていたエレオノーラのところにやってきたのは、第一騎士団の騎士を連れたヒューバートだった。険しい顔つきで御前に駆けこんだ彼は、白昼堂々と泉を通ったアンヌ王セシリアの来訪を告げた。

 城の隠し通路を通った妹が間もなく目の前に現れたときのことを、エレオノーラははっきりと思い出せる。自分と同じ見目の女が、悲痛な顔をして、か弱い乙女のように自分を窺っている様。王として人を平伏させる力を持ちながら、まるでそれを感じさせない姿。彼女が感じたのは嫌悪だった。

 セシリアは傅きこそしなかったが、やはり使者やアルフィージと同じように、アルアンヌの王に懇願した。

 ――お願いよ。アンヌを助けられるのは、貴女しかいないの。エレオノーラ……。

「これまで歴々の王が継いできた二国の約束を覆し――アルアンヌの民にも危険が及ぶことを、易々と実行する気はない。〝天使が退けた禍〟を、王の手で呼び覚ます必要などない」

 当時セシリアに向けた言葉を、エレオノーラは幾分穏やかな調子で呟く。黙って話を聞いていたジェレミアが口を開く。

「アンヌがアルアンヌを愛し、水の加護を離れた我々を助けていても、ですか」

「彼女も元はといえばアルアンヌ王の子。帰しては何をされるか――勝手に扉に手をかけられぬとも限らない。ですから私はセシリアをこの城に繋いだ」

 エレオノーラは被せるように言った。返答ではなかった。

 濡れた指を拭い、彼女は悠然と歩いてテーブルの傍へと身を寄せた。見上げるジェレミアの視線を真正面から受けて微かな笑みを浮かべる。

 ジェレミアが謁見報告を終えた日からこの静かな動乱が起こるまで、セシリアはエレオノーラの命によって王城の一角に幽閉されていた。ジェレミアが蛇神に連れられ浴室からアンヌに至ったその時も、直接関与することはなかった。彼女は見ていただけだった。

 アンヌの王はただただ、鍵の力を持つ姉に願い続けるしかなかった。妹はもはや弱いだけの女で――王としては優しすぎた。

「正直、レボルマスが沈むことも覚悟しました。けれどセシリアには国の為に何かを捨て、犠牲にする気概は無かった。彼女はアルアンヌを盾に国を守れるほど強くはないのです」

 緩やかに深まる笑み。玉座に腰掛ける姉を見上げる非力な異国の王に、同じ顔をして、エレオノーラは言ったのだ。

 ――自らの国を守れぬ王を持ったアンヌは哀れだわ。……アンヌはお前の為に滅びるのですよ。

 突き放されたセシリアは、それを不条理と言った。私は貴方が分からない、と。エレオノーラも同じだった。二人は双子でありながら、互いの思惑や感情など、感じ取れこそすれ、まったく理解できなかったのだ。

 国の存亡を前に対立する二国の王。囚われたアンヌ王、捕らえたアルアンヌ王。城に木霊する祈りに応えたのは神と呼ばれる、水だった。

 果てに動乱は起こった。セシリアはその力で城を抜け出し、滅ぶ国とでも共に在ることを選び――事に巻き込まれた王城学者もアンヌを目指した。二人の道は重なり、水は人々を導いた。

「何故、それを……俺に話してくださるのですか」

 ジェレミアは尋ねる。いつ見ても一切の疲れを窺わせない女王の顔は、セシリアと同じ作りだというのに纏う気配がまるで違う。作られる表情も違い、その所為で肉の付き方が違うのだと学者は思う。

 見上げた顔の更に上では、五花弁の薔薇が咲いて芳香を漂わせている。透明度の高い硝子の先には、よく晴れた青空が見えた。

「私は、お前が被害者だと思っています、ジェレミア。争いに無辜の民を巻き込んだと。事がこうして終わった今、真実くらいは教えてもいいでしょう。……お前は真実を求める学者ですからね」

「陛下」

 過去から立ち返り答えるエレオノーラを呼んで、ジェレミアはゆっくりと立ち上がった。腕や足に、痛み止めで押さえる疼痛が滲む。

 顔を歪めながらも背をしっかりと伸ばして立つ。そうすると、女の顔はやや低い位置にくる。セシリアはもう少し背が低かったように感じられるのは、立ち方と、雰囲気からくる錯覚かもしれない。

 発言を許可し促す沈黙に、学者は罅が入っている疑いのある肋骨を痛めぬように、静かに息を吸った。低い声は、二人きりの庭に染み込んでしまうような声量だった。

「アンヌは我々にとっても故郷です。我々の魂が陛下に傅くように、アンヌを知れば、想わずにはいられない」

「ええ」

「だから俺は思うのです。陛下もアルアンヌの、ひいてはアンヌの者ならば、……アンヌを見捨てるわけがないと」

 静かに相槌打った女王に続けて、ジェレミアは少し目を伏せた。離れた所で時を教える水盆は、とうに溢れて、下の皿に水を流している。音は途切れない。

 白く輝く、水に抱かれたアンヌの都、その場所に感じずにいられない望郷の心。それは目の前に立つ女王に感じる畏敬の念と同じように、彼らアンヌとアルアンヌの民の意識よりも奥底、魂に染みわたっているものだ。

 息継ぎには長い静寂があった。エレオノーラは何も言わずにただ立っている。

 鮮やかに青い目で見つめ合う二人は今、対等な関係にあった。泉の前でセシリアと向かい合ったときと同じように、臆することなく、ジェレミアは再び口を動かす。

「陛下は扉を開かなかったのではなく――開けることができなかったのでは。陛下は魔力をお持ちでない。扉を開ける力を、お持ちではなかった」

 結論を口にする学者の語調は淀みない。

「どうしてそのように?」

「俺の謁見報告の時です」

 表情を変えずに尋ねたエレオノーラに、彼もまた表情を変えず、謁見報告と同じはっきりとした声で応じる。打てば響く調子で解説へと移った。

「陛下は人の魔力を指して、騎士の、と仰いました。我々の、ではなく。陛下は確かにアルアンヌを守ることを考え、セシリア様の願いを聞き捨てたのかもしれませんが、」

 今はもう懐かしくさえ思えるあの日の出来事と会話を辿って、彼はそう強くはない根拠を拾い上げる。普段彼がしている研究、調査の類であれば、そのようなこと一つで物事を断定することなどまずありえなかったが、今回は断定的だった。

「……いえ、それなら扉を開けたほうが確実です。海を荒らし港町を呑むかも知れないアンヌ王は、王の威光さえ脅かす、いっそ竜より危険な存在。ですが扉さえ開けて助ければ、アンヌ王はアルアンヌの為に今後も海を統べたでしょう。今の関係は崩れても、きっと二国の平和は保たれる」

 囁くように言う。

 言葉の最後は願いのようだったが、実際にアンヌに触れた学者は、そのことを疑ってはいない。元々一国だった二つの国は、再び一つになっても上手くやっていけるに違いない。たとえ、その間に大地と、千年を超える時が横たわっていたとしても。

 ジェレミアは結論する。エレオノーラとて、アンヌを見捨てたわけではない。

「しかし陛下は、その術をお持ちではなかった。ゆえに……アンヌ王をこちらに引きとめ、彼女自らの手が扉にかかるよう、賭けた」

 開け放たれた扉から春の緩やかな風が流れ込んだ。薄紅を含んで輝くエレオノーラの髪が揺れ、薔薇の香が和らぐ。

「セシリアは、母の胎で私からそれを奪っていったのです」

 その中で発された声は、呪いのようだった。

「お前も触れたでしょう、あの女の力に。魂を傅かせる、有無を言わさぬ暴力的な威光」

 ジェレミアを見る青い目は深い憎しみを湛えた色をしている。強く強く、狂おしいほどの――嫉妬と憎悪。口調と振る舞いは女王の姿を保っていたが、彼女の中には激しく荒れ狂うものがある。激流に似た、御しがたい感情だ。

「セシリアは生まれたときより王なのです。たとえ、王として相応しい者に育たずとも。浅はかで、無垢で愚かな、盲目の小娘のようであったとしても。あの女は、アルアンヌの王の力も奪っていった――」

 掠れた声。この場に居ない妹に向けて吐き出される訥々とした恨み言は、女王の中に巣食うもののほんの表層に過ぎない。

 共に生まれ、共に育つうちに気づかされた現実。あるべきものの欠如とそれを代わりに持っている片割れの存在は、ずっと彼女を苛んできた。どれほど努力しようとも埋められない天性の差、取り戻そうとしても叶わない力。か弱い王女の身に圧し掛かってきた絶望と恐怖を、彼女は未だ忘れられていない。

 生きている時間の分だけ、妹に対する負の感情は増していく。愛すべき姉妹に持つものは醜い感情ばかり。何も知らないで笑う妹はその力の他は自分に劣っている。そのことがまた憎らしくてたまらない。一人で生まれたならば、二人で生まれてこなければ、こんなことにはならなかっただろうに。そのことばかりを考えさせられた。

 エレオノーラは王位継承の日まで、恐ろしくて仕方がなかった。父王は己の欠陥に気がついてしまうのではないか、己が継ぐはずの玉座も妹に奪われるのではないか、己は王族の立場さえも剥奪されてしまうのではないか。恐ろしい想像は尽きなかった。

 その中に舞い込んできたアンヌの後継者を要する報は、彼女にとって一種の救いだった。父王は当たり前に優れた姉を自らの後継に残し、妹のほうをアンヌへと送った。二人の王子に分かれた二つの国に、今度は二人の王女が分かたれる。

 その、地に隔たれる絶対的な距離はエレオノーラに安らぎを齎した。セシリアが隣に居なければ彼女は安心して、アルアンヌのよき王として務めることができた。そもそも閉ざされた地の扉を開ける機会などないのだから力がなくとも問題はなかったのだと割り切ることも、できるようにさえなっていた。けれど。

 平穏に過ぎる月日、治世。そこに皮肉な運命が噛もうとは。

「私が如何様に望もうと、扉は私に応えない。――だのに私から奪ったあの女が、私に助けを求めるなどと。あの王がアンヌを亡びに導いた、それはまったくの事実であると言うのに。笑わせるわ」

 アンヌから助けを求められた時、エレオノーラが平静を装うのにどれだけ苦心したか、セシリアは知らない。王としての力が無いことを知られるのを何より恐れ、それをひた隠しにする姉のことなど、当然、彼女にはまるで理解できなかったのだ。

「私は、」

 エレオノーラの声が震えた。

「お前の研究が、あれから力を奪うものになることを願ってやみません」

 怨嗟の言葉は静かなままに閉じられる。狂気に等しい激情を宿した女王の瞳は、彼女を見つめる王城学者の姿を映していた。

 流れる水の音。ジェレミアはゆっくりと瞬いた。

 学者は考える。自分とアンヌを助けたあの研究が、人からも魔力を奪うことができるようになったとしたら、その時自分はどうするだろうか。愛する女王は、どうしてしまうのだろうか、と。想像は幸福な結末にはならなかった。

「……ジェレミア、お前に命じます」

 幾分落ち着きを取り戻した声で言われ、ジェレミアは胸に手を当てた。王に賜る学者の証、色硝子のブローチに触れ、忠誠を表す。

 ジェレミアも、ハイラムとマリースも、ナフム、アドルフも含め、この件に関わった学者と騎士はセシリアの力のこともあり、全員が咎めを受けることを免れた。皆学者であり続け、騎士であり続け――アンヌは今後もアルアンヌの秘密であり続ける。

 それでも変化は避けられない。扉を開けた影響は、開けた者たちに及ぶ。

「ブランヘアックの一部を、事実上お前の領地とする」

 エレオノーラはよく響く確かな声で臣下に告げる。

 堂々たる振る舞いは、魔力など無くともアルアンヌの王に相応しい。ジェレミアは自分の魂が疑いもなく彼女の前に平伏すのを感じた。この王の力は、魔力とは別の所にあるのかも知れなかった。

「お前はその生涯を以てアルアンヌに仕え――我が国とアンヌを繋ぐ扉を守る番人となる。アンヌを監視し、私に全てを伝えるのです」

 なんとなく予感していた事態の結末にそれでも安堵して、ジェレミアは王の前で強張る体から力を抜く努力をした。

 その場で静かに膝をつく。体の痛みなど些細なこと。芝の上に黒い上着の裾が広がる。

 彼は差し出される女王の手を取り、額に当てて薄く微笑んだ。

「アルアンヌ王エレオノーラ様と、アルアンヌに変わらぬ忠誠を」

 アンヌは確かに愛しい故郷だが、彼が帰る場所はアルアンヌ以外になく、こうして傅く先も、エレオノーラ以外にはありえない。

 薔薇の影が落ちる庭の出来事を知る者は、当事者二人の他に誰もなかった。

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