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二十六 女王と騎士たち

 魔鉱が消えて削げた壁――大きく、煮詰めたように深い闇を湛える大穴を開けた地に続く洞窟の前で、純白の翼に包まれたずぶ濡れの三人は座りこんでいた。

 思いのほかゆるりと地に寝そべった水は、何かを呑み込んだり壊したりすることなく穏やかに、常識では考えられない速さで消えていく。通る風は相変わらず春の柔らかさを持っていたが、この時間は少しひんやりとして濡れた身には肌寒い。

「本当に天使様みたいだわ」

 自分たちを受け止めた魔法とその使い手を評して言うマリースに、アルフィージは俯いて眉を寄せる。魔物の物と違い白く輝く羽は、春の終わりの花の如く風に吹かれて空に舞う。

「大丈夫か、何処か……いや、怪我だらけだな」

「お互いな。……大丈夫、眩しすぎて少し、頭が痛いだけ」

 慌てたジェレミアが顔を覗きこむと緩く首が振られる。水を含んで煩わしい長髪を掻き上げ後ろへと流して、彼は光にやられてよく見えない目を手で覆った。眩しい、太陽。アンヌでは拝めない空の色が目に沁みた。

 だけ、ではなく、三人とも満身創痍だ。動き続けた所為で疲労は色濃く、魔法を続けたマリースとアルフィージの体は強く休養を欲している。

 それでも、蛇か天使の加護でもあったものか、意識はまだ保たれ痛みは遠い。怪我が癒されたわけではないが、驚くべきことに出血は止まっている。

 朝の晴れ空の下、三人は空虚な気分で自分たちの生還をぼんやりと曖昧に感じていた。

「兄さん、ハインが来るわ」

 傷だらけの体を撫でていたマリースが最初に感情の起伏を取り戻し、ぱっと花のように笑って言った。それだけで全て救われる心地になる、上等の笑顔だ。

 顔を上げた彼女につられ二人も顔を上げた。明るく照らされた殺風景な道を辿り、最初に駆け込んできたのは名前を呼ばれた青年ではなく――

「アルフィージ!」

 アンヌの女王は、側近の名を呼んで汚れるのも構わず膝をついた。周囲の目も何も気にしないその振る舞いはやはりエレオノーラとは違い少女染みている。ただ、自分より小柄な者を抱きしめる姿自体は、どちらかといえば母親のようだった。

「……セシリア。――よかった、無事で」

 飛び込んできた王をしっかりと受け止め、アルフィージは怪我をした体には少々厳しい抱擁を受ける。

 はあ、と長い息が漏れ。溢れた涙は、痛みにではなかった。

「無事でよかった、陛下。会いたかった。たくさん、死んだんだ。皆逝った、アンヌの為に、戦った……」

 自分と同じように濡れたその身を抱きしめ、零す声は途中で嗚咽になる。

 竜は斃れたが、王の為に殉じていったアンヌの同胞たち、竜に食われた民は大勢いる。アルフィージがこうして生き残り、再びセシリアと見えたのは、奇跡だった。

 ええ、とセシリア――アンヌの女王は小さく応じた。手放しに喜べる結果では無いことを彼女も分かっていた。抱き締めた者の代わりに抱き締められずに逝った者たちがいることを再会の喜びの中で悔いてもいた。後悔とは当然事が終わってから生じるもので、抱いたところで何も、変えることはできぬ思いであったけれど。

「兄さん! マリ!」

「ハイン!」

 少しだけ遅れてやって来たハイラムには、マリースから抱きつきに行った。座ったまま双子の兄を抱き寄せる彼女は満面の笑みで、傷だらけで、サーコートに血の色まで滲ませている割に元気そうに見える。浮かれた調子で面食らうハイラムを抱擁する妹の背から手を回して、ジェレミアも揃った双子を引き寄せる。

「ただいま」

 穏やかなその声、マリースと共有した意識の中で見たあの懐かしい微笑みに、ハイラムはゆっくりと息を吸い、吐き、眉を下げて笑った。

「ただいま、お陰で、帰ってこれた。……ありがとう」

 繰り返すジェレミアに、ハイラムはうんと一つ頷いた。すぐに声もなく呼ばれ、視線はマリースへと戻る。

「ちゃんと守ったわ」

「……俺も、ちゃんと守ったよ」

 秘密の約束を確認し合うように言い、見合わせた同じ顔で笑いあう。途中ちらと眼が逸れた先はジェレミアと、セシリア。

 二人が守ろうとした大切なものは二つあり――彼らは双子だったので、どちらも選び、守ることができた。泉での判断は咄嗟のものだったが、間違っていなかったとは結果が知らせている。

「ああでも、お前の体に傷をつけたことは死ぬほど後悔してる」

 得意気な弟妹を立派になったものだと眺めて、兄がぼやく。顔にもいくつか掠り傷ができているのが見えていた。それくらいで損なわれる顔では無いが、気にするなと言うのは難しい。

 けれど当人はにこにことしたまま、少し軋む肩を竦めた。

「私は後悔なんてしてないわ。私、騎士なんだもの」

「傷つくことより守れないことを恐れるのが騎士ってものだよ」

 言葉を引き継いだのはハイラム。それは美貌の騎士たちの顔や体をについて物言う人たちへの、二人のお決まりの応答だった。

「ああ――、無事か、そうか」

 そこでようやっと辿りついて、同僚の無事な姿を見て取ったナフムが膝から崩れてへたりこんだ。はああと心底疲れた息を吐き、項垂れる。

 ジェレミアが目を丸くして、無理に上げていた所為で痛んだ腕を静かに下ろし、登場を予想していなかった学者仲間へと這って寄る。

「お前まで来てくれたのか」

「巻き込まれたんだよ! ああまったく、いつまで経っても全ッ然戻ってこないからおかしいと思ったんだよ、馬鹿野郎!」 

「……謁見報告までした学者に馬鹿とは酷いな」

 すっ呆けた言葉には、勢いのいい罵声が返る。それに肩を揺らし、痛みに眉を顰め、ジェレミアは不出来な冗談を呟いて一人で笑った。

 会ったら一つ殴ってやろう、などと考えていたナフムだったが、これだけ疲れてしまって、酷い有様の相手を見ては安心するばかりで拳が上がらない。また盛大に溜息を吐き、彼は殴るのではない握り拳を、ジェレミアに向けて突きだした。

「なに――」

 訝しげに応じた掌へと押し付けられたのは、タイを留める程度の大きさのブローチ。軋む体を宥めながら物を確かめたジェレミアが目を瞠った。

「お前のだろ、それ。そこの井戸から出てきた」

 金の、見事な装飾が施されたブローチに嵌められている色硝子は赤色。薔薇紋章の下に集う学者たちが求める真理の色だ。一筋だけ傷がついたそれを裏返して見れば、留め金の横に施された彫金の文字は日付。第十三月(リース)七の日――ジェレミアが女王から、王城学者として認められたその日が刻まれている。

 最初にアンヌを訪れた時に失くした、王城学者の証。傷がついていても輝きは失せず、硝子は持ち主の手の上で朝日に晒され、燃えるように輝いている。ジェレミアはそれを呆然と見た。己の振る舞いは学者として正しかったかと、問うた。

 大勢の足音が彼らの耳に届いたのは、そんな折だった。ブローチから顔を上げたジェレミアは、その先に予想通りの姿を認めてゆっくりと立ち上がり、姿勢を正した。ナフムも慌てて立ち上がる。

「……エレオノーラ」

 小さく呼んだのはセシリアだった。

 殺風景な鉱山に似合わぬ装いで登場したのは、アルアンヌ王エレオノーラとその臣下。セシリアと同じ白いドレスにケープを羽織る女王の手を取るのは、両翼紋章が染め抜かれたマントを纏う第一騎士団長トリストラム。二人を守るように横に並ぶのが、白地に金刺繍のサーコートを身に着けた王族の騎士たち。その横には更に、彼らと同じ白色でも無地で質素な出で立ちの、第二騎士団の団長と参謀が立っている。錚々たる顔触れだった。

 色を濃くしつつある空に映える赤みがかった金髪の女王は、地に座り込んだ人々を眺めて、セシリアに目を止めた。自分と同じ顔で怯えた様子でいる妹と、彼女を守るように抱きしめる稀有な美貌の側近を無表情に見て、静かに口を開く。

「……アンヌの王とその側近です。お前たちに手当てと接待を一任します。くれぐれも失礼のなきように」

「御心のままに、陛下」

 命じられたトリストラムが恭しく応じる。アドルフより優美な印象の強い壮年の騎士団長はさっと動き、アンヌの王に頭を垂れて手を差し出した。それはどうやら、言葉どおりの接待の所作だった。遠回しな捕縛の命を受けたのでは、なく。

 おずおずと彼の手を取り、セシリアは立ち上がる。アルフィージには別の騎士が手を差し伸べて肩を貸す。眉を顰めた彼もここまでの負傷ではまともに歩けそうもなく、セシリアの視線を受け渋々従うこととなった。

 その姿を端に見て、エレオノーラは前に出た。裾を軽く摘まみ上げた為に、汚れのない銀の靴が水の捌けた地面を踏むのが見える。

「ご苦労。お前たち、よくやってくれました」

 ジェレミアを向いて彼女は言った。薄く、口元に笑みが刷かれる。

「すぐにロードベリーに戻ります。共に来なさい。……アドルフ、ヒューバート、部下の手当てをしておやりなさい」

 その表情は、誰も予期しなかったほどに穏やかだった。平素と変わらぬ声音で、控えていた二人きりの第二騎士団を促す。二人も揃って、いつもと変わらない歩調で動揺する双子の騎士に歩み寄る。

「ヒューバートさん……」

「君たちも無茶をしますね。私とやりやった後でこれですか。末恐ろしい」

 ヒューバートがハイラムの頭から爪先までを見て、顔色を確認して腕をとる。何も言い返すことができず黙って俯く若い騎士に外傷らしい外傷はないが、魔法の使用と疲労で体温が下がっている。頬も色が失せて、指先は冷え切っている。

 まず蜂蜜でもとらせましょう、と呟いて、ヒューバートはハイラムのよれた襟を正した。

「君は正しい。……私自身も。別のものを選んだだけです。なにより君が正しいことをしたと信じるなら、謝ってはなりませんよ」

 そうして襟首捉え、老騎士は低く言った。彼の背後で、マリースの怪我を見て奥に用意される馬車へと促すアドルフが小さく溜息を吐く。表情は一切、変わらなかったが。

「まったく頑固な男だ」

「貴方に言われたくはありません。二人とも、早くこちらへ。馬車があります。エイルマー様が医者を連れていらっしゃるはずですから」

 拍子抜けするほど普段通りの上司に、ハイラムとマリースは顔を見合わせた。何か言いたげに口を動かしたが、言葉を思いつかず、首を傾げるだけとなる。

 二人は女王の前に立ったままの兄を振り返るが、笑って促され、アドルフとヒューバートに手を引かれて馬車のほうに追いやられてしまった。

「ナフム、お前の専門は魔物研究でしたね。あれの処理は分かりますか」

「はい……」

 その間に女王から急な指名を受けて、ナフムは神妙な顔でエレオノーラの顔を伺い見た。いつぞやか城で見かけた時と変わらない、つい先程まで共に居たアンヌの王と似ているのに似ていないその顔は、まるで咎めの色を含んでいない。的確に人員を配分する合理的な思考だけが見える。

「すぐにエイルマー公が部下を連れてきてくださるでしょう。指示を任せます。難儀でしょうが、頼みましたよ」

 何処かに落ちたはずの竜の死骸は、どうやらもう誰かが見つけた後らしい。エレオノーラは余っていた騎士を指先で呼び寄せ、ナフムを案内するようにと指示する。

「――分かりました。お任せください」

 咎められるどころか仕事を任され労われ、学者は虚を突かれた顔になった。しかし女王の視線が注がれれば長く悩んでいるわけにもいかず、胸に手を当てて一礼する。彼もまた一人残るジェレミアを気にしながら、騎士に連れられてその場を離れることとなる。

 そして、最後に。一番近い所で残ったジェレミアに、女王は告げる。

「ジェレミア、お前には話があります。明日の昼、庭にお出でなさい。よろしいですね」

 王冠が無くとも民を平伏させる力を持つ、生まれついての女王。目つきは挑むように力強く、笑みは気高く。彼女に頭を垂れて跪くのに、頭で考える必要はない、とジェレミアは思う。

 いつも、昔も今も、彼女はジェレミアの心に深く食い込んでくる。エレオノーラがアルアンヌの王となるその前、ジェレミアが学者になるより前から。初めて会ったその時から。

 ジェレミアはエレオノーラを見つめ、痛む腕に無理を言わせてブローチを握った手を胸に、頭を垂れる。

「畏まりました、陛下。必ず伺います」

 そこで場に走ってきたのは、場にそぐわない子供の姿だった。

「陛下、エイルマー様をお連れしました。馬車の支度も整ったようです」

 少女らしい高い声で言いながら、群青色の服の裾を持ち上げ、深々と一礼する。ジェレミアが呆気にとられる間に泣きはらした顔を上げたのは、あの、浴室番の娘だった。

 エレオノーラは頷き、彼女を傷だらけの学者のほうへと促す。少女は困惑した顔を見せたが、やがて意を決して前に踏みだした。

「……ごめんなさい」

 ジェレミアの前に立ち、手を握って言う。予期せぬ言葉に動きを止めた彼の前で、見る間に、少女の顔は歪んだ。

「貴方を死なせるところだった。私は、貴方を守らなければならなかったのに。私がちゃんとしていれば、貴方もご兄弟も、危ないことにはならなかったのに。本当に、ごめんなさい……」

 赤く腫れた目に涙が溢れて頬を伝う。声は無様に震えて洟を啜るような有様だったが、言葉はしっかりとジェレミアに届いた。それは単なる浴室番の娘ではなく、水と地、アンヌへ続く道を守るアルアンヌの王族の謝罪だった。

 俯き落ちた涙は未だ乾かない地面に触れて、馴染んで消えてしまう。少女はゆると学者の手を離して目を擦る。

 ジェレミアが浴室で蛇に連れ去られてから、彼女はずっと、己の不出来を呪っていた。自分の無力ゆえに攫われた人を、その事実を、隠して生きていくのが堪らなく恐ろしかった。それが女王の望み、王族の務めだとしても、城が幽閉された女王と共に仄暗い秘密を抱いて聳え続けるのを思って震えていた。

 けれど彼女は、学者の帰還により救われた。訳も分からずただ戻ってきたあの日ではなく、真の帰還の今に。

「貴方たちが死んでしまわなくて、よかった……」

 がらがらに潰れた声が言う。王族として振る舞った娘を不用意に慰めてやることもできず、ジェレミアは歯痒く思いながら曖昧に微笑んだ。

 エレオノーラより幼い印象を受けるセシリアに会った後では、彼女は思いのほか、女王姉妹に似て見えた。王族に名を列ね、血が繋がっているというのだから似ていてもおかしくはないのだが、何故だか今、強くそれが思われる。

「さあ、体が冷えますぞ。お早く馬車へ」

 いつの間にか戻ってきたアドルフが、少女とジェレミアを促した。掛けてやるマントの持ち合わせがない彼は、少女の小さな肩に手を置き、背を押して促す。

 戻らぬ部下たちを待つ詰所の彼の元に駆け込んで、自らの事も顧みずに王族の秘密を打ち明け、学者とアンヌの女王を助けてくれと願った、この一件での小さな功労者。そのことを認識している者は、数少ないが。

 先導するように少し進んで、アドルフの肩を借りるジェレミアを振り返った少女は淡く微笑んだ。

「アンヌを救ってくださって、ありがとうございます」

「……ああ」

 秘密を告げるような小声に、ようやく、ジェレミアは相槌打つことができた。彼女もまた、アンヌの民なのだ。

 泣き顔を引きずった顔と心からの礼は、王城学者の冷える体を僅かに温めた。

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