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二十三 疾走

 武力を行使する必要もなく王の権威によって都を抜けた三人は、ナフムの先導で星明りが照らす街道をひた走った。追っ手の姿は未だ見られず、道は彼らを受け入れるように人気が無い。

「……マリは道を進んでる。魔物のところに向かってるみたいだ」

 馬を急がせるハイラムが呟いた。いつになく遠く感じられるマリースの気配に険しくなる顔を夜の暗さに隠し、不安をどうにか胸に押し留めて、彼は舗装された地面を見る。

 この下にアンヌがあることは彼にとって疑いようもなかった。地に隔たれた先で双子の妹が戦っているのが、彼には知れた。

 ナフムが星の位置を読み、時間を見てブランヘアックまでの距離と照らし合わせる。事が起こってから、既に半日近い。一度休ませたきりで走る馬たちも疲れてきているが、ハイラムの発言を併せれば彼らはこれ以上休むわけにもいかなかった。

「何か分かりますか?」

 ハイラムの問いかけに、後ろでしがみつくセシリアは沈黙したまま、じっと前を見据えていた。ブランヘアック鉱山の影が遠くにぼんやりと見える。

 さあ――と、川もないのに水の音を捉える耳に触れ、彼女は息を潜めた。

「……貴方たち、今、水の声が聞こえる?」

「……いいえ」

「蛇が導いてくださってるわ」

 落ち着いた声は穏やかにハイラムの背に響いた。声色は暴力的な支配ではなく、自然と人を従わせるような奇妙な雰囲気を持っている。そして、今までよりエレオノーラに似ていた。

 こうして顔も確認できない状態で声がかかると、後ろに居るのがどちらなのか分からなくなるほどだった。もしかすれば、エレオノーラが狂言を回しているのではないかと疑ってしまうほどに。

 どちらにせよ、自分は彼女の為だったら命を投げ出せるかもしれないな、と冗談にもならないことを考え、ハイラムは手綱を捌いて疲れを訴える馬を励ます。

「俺たちに神の声は聞こえないけれど、……貴方が、俺たちを導いてください。俺たちがアンヌの民なら、貴女は俺たちの王でもあるんでしょう」

 声は少しばかり震えていた。彼の前にある風景ではなく妹が見ているアンヌの景色が、彼の心情を波立てる。言葉は祈りのようでもあった。

 セシリアは馬の背を撫でて労い、冷たく強張った騎士の背に寄り添った。馬の揺れとは違う微かな震えを抑え込んで、アンヌの女王、彼らの王は頷く。

「大丈夫。扉は開けるわ。貴方の兄弟も必ず助けてみせる」

 行く手に、点々と火の色が見えた。待ち構えているのは三人と同じように馬に跨った人々。纏う白いサーコートの袖や裾には金の刺繍があり、腕につけた腕章には楓葉の紋があった。

 先端こそ上げていないが、皆一様に剣や指揮棒を手に整列して三人のほうを向いているのは、偶然そこに居たという体ではない。

「第一騎士団小班、エイルマー殿下付きの騎士です」

 人影を認め、目を凝らしたハイラムが呟く。ナフムが舌打ちして手綱を引いた。十名の騎士は道に広がって垣根となっている。簡単に擦り抜けてしまえる状況ではない。

 馬の嘶きに乱れる蹄音が続く。月毛の二頭は息荒く立ち止まった。

「動くな!」

「その方を下ろせ」

 命じる先はハイラムとナフム。ブランヘアック鉱山を擁するエイルマー公の配下にある騎士たちは、セシリアの顔を見ても怯まなかった。ただ、一段と硬い顔になってじりりと間合いを詰めた。

 それはセシリアの存在を知っている者たちの反応に他ならなかった。エレオノーラがエイルマーに話を通していたという裏付けでもある。

「当たりか?」

 そうとなれば、ブランヘアックが件の扉である可能性はかなり高い。すぐ傍に見え、あと少しで辿りつく鉱山を睨むように見て、ナフムは騎士たちの様子を伺い、ハイラムとセシリアを振り返った。騎士は誰もが武器を所持している。多勢に無勢と言うところか。

 ハイラムの背で、セシリアがナフムに目配せする。学者が目を丸くしたのを見て取って、彼女は静かに息を吸った。

「お前たち、王を迎えるのに馬から下りないのはどういうことかしら。非礼にもほどがあるわ」

 視線はゆっくりと立ちはだかる騎士たちへと据えられる。凛と響いた声は大の男たちをたじろがせた。セシリアは端から彼らを見渡して、やや左よりに居る男がこの場での責任者だと当たりをつけた。彼女が直接会ったことがあるわけではないが、その騎士もどうやら王族の一員で血が濃いらしい。セシリアを見てもまだ騎士然とした態度を保っている。

 彼女は意識して呼吸し、口を動かした。開けた土地であるというのに、息の詰まる威圧感が場を支配し始める。

「跪けと言っているのではないのよ。そんなに怯えていて、どうやって私を捕らえようというの」

 騎士たちには、暗がりに見える女王の瞳が、魔物のそれのように光を湛えて見えた。誰もが動かず、動けず、風抜ける街道に沈黙が降りる。

「……いいわ、私が先に下りましょう。ハイラム」

「セシリアさん――」

「大丈夫よ、隙を作るわ」

 仕方ない、と沈黙を破り、案じたハイラムに素っ気なく答える。

 ハイラムは躊躇したが、相変わらず騎士たちは動かず、場は硬直している。彼らを刺激しないようにと腕を広げて見せてからゆっくりと鞍から下り、彼は女王の手を取り、地面へと導く。

 革の靴が石畳を打った。ぴしゃん、と水を打つ音はセシリアにだけ聞こえた。

 悠然と降り立ち、騎士の手を離して彼女は前に進んだ。足を運ぶたびに水音が大きくなり、余韻を持ってはっきりと響くのを感じ、目は細められる。

「私はこの先に用があるの。そこを退いて、通しなさい」

 動きを窺う騎士たちの奥に構える鉱山を見つめ、再び口を開く。声は錨を下ろすように重く、何かの儀式のように厳かだった。命じられた側でなくとも、後ろで見守るハイラムとナフムまでもが、思わず跪きそうになる空気。

 髪を纏め上げ、長く身を隠す騎士団長のマントを羽織った姿は火に照らされ、戦場に立つ軍師に近い勇ましさを見せている。

 騎士たちはぐっと息を呑み、中央より左側に居る中年の騎士を伺った。彼は険しい顔つきで頷き、馬を下りた。

「非礼をお許しください。しかし出来かねます。エレオノーラ陛下からの命により、お通しすることはできません」

 彼は武器ではなく肩に手を当て、騎士の礼を取って呻くように声を発する。他の騎士も彼に倣って馬を下り同じ姿勢をとったが、半数に留まり、端に残る騎士たちは俯きながら馬上で肩を抱いている。

「セシリア様、我々は貴女に応じることができません、どうか……」

「港に、着かない船があるの。ご存じ?」

 言葉を遮り、セシリアは彼らを睨みつけた。凍えるような冷たい一言だった。人の心臓を掴み、腕を、足を竦ませる。

「これは脅しよ。沈めるわ。……次は町よ。この場の貴方たちも、覚悟なさい」

 騎士たちの、そしてハイラムとナフムの目が見開かれて、どよめきが起こる。

「アンヌの王を軽んじて、何もないと思っているの? 騎士は連れてきていないけれど、こんなことになれば私一人だって何かしてみせる。アンヌは私の国だもの。貴方たちを害するつもりはないけれど――アンヌの為なら厭わないわ」

 水、海を操る魔女。他国にそう評される女の威嚇はそれだけに留まらない。

「溺れるのって、とても苦しいらしいわね」

 セシリアの周囲に薄く白いものが広がって、衣服と夜闇の境界を霞ませる。この暖かな季節、予兆もないままに霧が生じ、彼女を覆うベールとなっていく。

 霧はすぐに濃さを増し、騎士たちの足元まで這い寄った。魂を縛る王の力と共に発せられた水の気配は、畏怖の対象、脅威でしかない。

 端に居た騎士が叫び逃げ出すと、つられて逃げ出す者がいる。馬を下りていたある騎士は地に平伏して赦しを請い、ある騎士は慌てふためいて鞍に戻る。騎士たちの統率は崩れた。

「アンヌの王が命じます。道を開けなさい」

 緩やかに霧を乱し、セシリアが一歩前に出た。命じる声は警鐘のように人々に響き渡り、彼らを傀儡にする。

 抗い、一人が指揮棒を抜く。震えた手の一振りで捕縛に向かう鎖の魔法を同じ色をした矢が砕いた。

 指揮棒を手に移し、騎士の足元を狙って更なる矢を放ったハイラムが馬の鐙に足をかける。同時にナフムが馬を急き立て走った。くるりと体の向きを変え、駆け寄り飛び込んでくるセシリアを抱き留め引き上げる。

 魔法の腕はハイラムのほうが騎士よりも上だった。次の魔法を使おうとした人の手を弾き、指揮棒を取ろうとした別の騎士の腕も間を空けず拘束する。霧の中でも狙いは的確、外すことなく、彼の魔法は動く気概を見せた騎士たちを封じていく。

 その横を抜け、ハイラムはナフムの馬に続いた。馬上で弓に似た指揮棒が掲げられ、霧を裂いて流星の如く矢を落とす。馬たちが怯えて嘶きを上げた。

 竦む体の動きを封じられ、混乱しきった騎士たちが走り出すにはまだ遅い。

「ッし!――学者になんてことやらせんだ、まったくっ……」

 ナフムは馬と自分の技量を褒めて、鞍に上ったセシリアに短く悪態を吐いた。互いの運動神経がよくなければ、そしてタイミングが合わなければ落馬していただろう。

 恐ろしい魔女を演じた女王に対して態度を変えない学者にセシリアは微笑んで、手にしていた、何かの角に似た形をの白い物へと視線を落とした。掌ほどの大きさのそれは、ハイラムのベルトから抜き取られた予備の指揮棒だ。

 水を操るアンヌの女王も、無い水を生み出すことはできない。が、彼女の魔力は並外れている。元より白いその力を霧に見せることなど造作もない。

 言葉通りに船を沈めることも、町をどうにかしてしまうことも、できたけれど。やる気があれば最初からそうしている。彼女はアンヌの王だが、アルアンヌの民もまた、愛していた。南の海が荒れているのは故意のものではない。

 それを感じ取っているからこそ、ナフムは怯えもせず、彼女を抱き留めた。

「無理は承知の上でしょう。――ねえ、向こうには古い井戸がある?」

 不自由な姿勢で行く手に顔を向け問いかけるセシリアに、学者は眉を寄せて記憶を浚った。調査で訪れた数日だけの記憶は何よりもあの魔鉱の輝きで埋められていたが、彼は覚えていた。

「確か、門のすぐ傍の物がかなりの年代物だ」

「それだわ。そこまで走って頂戴」

 はっきりと返される学者らしい答えに頷き、セシリアは風が触れる頬を拭った。

 乾いた道を走る馬の足元で水溜りを踏んだ音が連なり、水の上を走るように聞こえる。その幻はナフムにも聞こえはじめた。音と共に、何かが鮮やかに色づき、目覚めていく感覚があった。行く先で、何かが彼らを待っている。

「見つけたわ。蛇が呼んでる。必ず開けてみせる」

 誇り高き女王が誓う。その上で夜空は時と共に巡り色を変え、目指す鉱山の稜線をはっきりと描きだしている。

「急いで! マリが――兄さんたちが危ない!」

 追いついたハイラムが叫んだ。蒼褪め強張った顔は、地の底で彼の兄妹が同じ顔をしていることを二人に思わせた。

 後方で、馬を追い立てる声がする。体勢を整えた数人が馬を駆って追いかけてきていた。馬の素養と疲労を考えれば追いつかれてしまう可能性は低くない。足止めの魔法を発動されれば一溜りもなく、ハイラムは振り向き先手を打って魔法の矢を番えた。

 ナフムは女王を抱える腕に力を込め、ひたすらに馬を追いたてて祈った。

「間に合え、間に合え!」

 天使でも蛇でも構わない、どうか友人を一発殴らせてくれ、と。

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