一 朝の景色の中を往く
暗い部屋の中でジェレミアは目覚めた。洗ったばかりの清潔なシーツの上、時を知らせる鐘の音の中に、微かな鳥の囀りと台所で鍋の蓋が閉ざされる音が混じるのを聞きながらぼんやりと宙を見る。碧眼は一度、瞬きにしては長く閉ざされ――遠く霞む鐘の音の余韻まで消え失せてから開いた。
三秒ほど数え、彼は勢いよく上掛けを跳ね除ける。同時に素足は床に。手は勢いを削がずに窓へと向かった。眩い陽の光と春の香気が部屋に広がる。
開け放たれた窓から注ぐ光の帯の中、薄く溜まっていた埃がきらきらと舞い落ちていく。本やメモの溢れる小ぢんまりとした部屋は春風に撫でられ、明るく満たされた。
「ああ、いい日だ」
その眩しさに目を眇め、寝癖のついた髪を撫でつけながらジェレミアは口の端を上げる。寝起きの声は少々擦れていたが、表情は緩みなく、鮮やかに青い目はしっかりと外を見据えていた。
手早く着替えて室内履きの薄い靴をつっかけ、彼は一番上等の上着とタイを片手に自室を抜けだした。既に鎧戸が開けられて明るい廊下を通り、そっくりに並ぶドアを二回ずつ叩いて、声はかけずに軋む階段を降りて水場に向う。
レバーを引いて水道から水を呼び込み、器に溜めて丁寧に顔を洗い髭を剃る。髪に櫛を入れるまでにはなかなか時間がかかり、その間に上から降りてくる足音が、二つ。
「おはよう、兄さん」
二種類の声はぴったりと揃って、癖のついた茶髪を念入りに整えるジェレミアの背にかかった。示し合わせたかのそれは、片や低く落ち着いた男の声で、片や澄んでよく響く女の声。
「おはよう。調子はどうだ、今日は演習だろう」
櫛を手放して振り返ると奥の窓から入る光が眩しく、彼の目は自然に細められる。そのまま微笑みに変わった。
「いいよ」「いいわ」
問いかけにも声は揃い、明るい窓を背に並んで立つ男女はまるで自分自身を確認するように、頷く代わりに顔を見合わせる。
「兄さんこそどう?」
「謁見、今日だろ」
「勿論悪くない。無事終わらせるさ」
そして、問いにジェレミアが応じるとやはり揃った動作で笑う。
二人は、非常によくできた作品に見えた。彫刻か絵画か、ともかく、究極の美を志す者たちが手の限りを尽くして作り上げたような傑作に。それが呼吸して動いている。
ジェレミアから見て左に立つハイラムはすらりと引き締まった体躯の美男。右に立つマリースは豊かでしなやかな肉付きの美女だ。目鼻の整った美しい顔と、薄い服の下にあるその体は多くの人々を見蕩れさせる絶妙の均整。性が違うだけに当然異なってはいるが、互いの性別を入れ替えればまたそっくり同じになるだろう雰囲気があった。
揃いの白い肌と金の髪は朝陽を受けて、そのものがやわらかく光を纏っているように周囲を錯覚させる。特にマリースの、背まで伸ばされた長髪は緩やかに波打ち光を振り撒いて見える。櫛など通さずともよいのではないか、と思わせるそれに櫛を通す彼女と顔を洗うハイラムの為に、ジェレミアは終わりそうになかった身支度を切り上げた。
ハイラムとマリース、滅多に見られぬ美貌の双子は、ジェレミアの実の弟妹である。
似ていない、と言われたことは、一度や二度どころか百度でも済まない。ジェレミアの顔は特別に整っているわけでもなく、多くの人の中でも鮮やかな目の色がたまに取り上げられる程度で、多くの人は褒めるところを努力して探さねばならないだろう、普通の顔だ。それは朝食の鍋を手に食卓にやってきた彼の、そしてハイラムとマリースの母であるディーナも同じで、ジェレミアの記憶にある父も同じこと――ジェレミアは父親似だ――だった。双子が生まれるまでのオークロッド家は誰に取り沙汰されることもない、実に平凡な容姿の一家だった。
ただ二人、双子だけが、人並み外れて美しい容姿に生まれついた。血の繋がりを疑われるほどの美貌は歳を経るごとに際立ち、産みの母ですら首を傾げるしかない。
それでも、各々に身支度を整えて食卓に着く四人は大層仲のいい家族だった。
「あなたたち今日はどうするの。ご飯は?」
「今日は帰って食べるよ」
特に兄であるジェレミアは二人に対して、やや甘すぎるほどに優しい。今も、食卓でパンやチーズを切るのは父に代わって一家の主となったジェレミアの役目であるからいいとしても、切った物を皿に乗せるのは必ず弟たちが先で、厚さにしても形にしても細かく気が配られている。ついでのように水差しを近くに押してやるのも忘れない。
自分の五回目の生誕日に家にやってきた双子を天使からの贈り物として心の底から愛している彼は、湯気を立てるスープをよそいながら声をかけたディーナの言葉に答えて席につく。
「私も、ハインも。疲れるだろうから家でゆっくりするわ」
髪を編んで纏めるアルアンヌ女子の基本的な髪形になったマリースも、椅子を引きながら、早々にパンを口にしていたハイラムの分も纏めて答える。ハイラムは頷きだけを返す。
そう、と頷き返した母はよく煮えたスープをかき回し、息を吐く。
「今日は大きな訓練なんですって? 二人とも、怪我をしないようにね」
「大丈夫」
また声を揃えた双子はこの国の騎士だ。叙任されたのは十八になったばかりの、去年の秋。まだまだ新人の域を出ない年若い二人を心配性の母は案じていた。
勿論、兄も。
「少しの油断が大きな事故に繋がるんだ。訓練とはいえ、気を抜くんじゃない」
年長者らしい言葉も彼が口にするとどこか甘い。容姿だけではなく武と魔法に秀でたハイラムとマリースが何かミスをすること自体あまりないことだと彼は信じているのだが、それでも忠告をせずにはいられないのだ。
二人が騎士になると言ったときも、応援する姿勢を見せながら案じていた兄である。双子騎士が怪我などしたら失神するのではないかとは彼を知る誰もが考えるところだ。実際は、彼もそこまで柔ではないのだが。
「うん」
自分たちを愛する兄を同じように愛している弟妹は物分りよく頷き、笑いながらスープを口に運ぶ。
その様子を見れば安心して、口数の多いジェレミアも黙って自分の食事に戻る。母特製の、柔らかな野菜がたっぷりと入ったそれは着々と彼らの腹を満たしていた。
いつもと変わらず平穏な、少しだけ緊張した気配のある朝の時間は過ぎる。
「いってらっしゃい、気をつけて。あなたは陛下に失礼のないように」
何事も無く食事を終えれば、揃って城に出仕する自慢の子供たちの頬にキスをして、特に昼に特別な予定がある長男の襟元、タイとブローチをしっかりと整えて、優しい母は彼らを送り出す。
仲の良い兄弟は微笑みを背に、誰もが一日の支度をしている住宅街と商店街を抜けて大通りを目指す。水路と橋の目立つ路地を抜け、水道橋の柱の横を通り、時には誰かが繋いだままの舟を足場に、慣れた故郷、アルアンヌ王都ロードベリーの道を往く。
――水と地の王国。他国からそう謳われるアルアンヌは、ヴェードグラドとネルリグラド、二つの大陸の間に浮かぶ島国だ。呼ばれるとおりに豊富な水脈と鉱脈によって栄える国で、多くの国が大きな船で海を行き来するこの時代、海洋貿易の中継地点としても華々しく活躍している。
その都と言えば、世界の楽しみを集めたように美しく活気に溢れている。まだ静かな朝さえ、躍動の気配がそこかしこに潜められている。大通りに入れば三人と同じように城に赴く役人や騎士の姿もちらほらと見え、その気配は一層に強まった。今日も誇れるアルアンヌの一日が始まろうとしている。
騎士のサーコート姿に挟まれたジェレミアは、疎らな通行人の中で護衛される要人のようだった。無論、本当の要人が徒歩で王城を訪れることなどまずなく、黒い上着だって仕立ては上等でも貴族の持ち物とは比べるべくもない品で、特別に価値があるものと言えば胸に光るブローチくらいのもの。ただ、騎士の格好をした双子はその分を補うように見栄えがする。新米騎士のお仕着せ、皆変わらぬ白いだけのサーコート姿であっても。彼らはよく人の目を惹いた。
出仕の一団は大通りから続く跳ね橋を渡り、門番の確認と挨拶を受けて門を潜る。城と町とを繋ぐのは此処だが、境は水路と衛兵だけではない。
門を通り抜けた先には、城を抱くように森が広がっている。木々はこの時期青々と茂り、芝は朝露に濡れて木漏れ日に輝いている。そしてそこに、それまで一団が通ってきた道らしい道はない。石を敷くのではなく、人が通って踏み固められたいくつかの道があるのみだ。一番太く、門からまっすぐに伸びるのが城に続く道だ。
「じゃ、頑張って、兄さん」
敷地に入り、兄の護衛ではないハイラムとマリースは騎士団の詰め所がある東へと進路をとる。手を振って弟妹と別れ、一方のジェレミアが向う先は真逆、西側の、大小十の塔が聳える区画だった。湧水の流れる音や鳥の囀りを聞きながら、彼は人通りが少ない道を悠々と歩いた。
ジェレミア・オークロッドは城勤めだが、役人でも騎士でもなく、学者である。弟妹と違って顔も運動神経も並の彼だが、頭脳の面においては他人よりも秀でている。今は居ない父がそうであったように。
アルアンヌで学問を志す者の多くは、町ごとに管理される学舎に集結することになる。そこまでは誰でも受け入れる広い門だが、教養を学び、専門分野に手を出すうちに道は狭まり、多くの者が脱落する。残る秀でた子供たちだけが学者としての将来を夢見ることが許され、誰かに師事し、知識と経験を蓄え、実践と研究を重ねて独り立ちしていくのだ。
中でも、格別優秀な者は王族の要請で城に迎えられ、王城学者の称号と職を賜ることとなる。
その仕事場こそ、塔だった。分野ごとに分けられた西の塔は飾り気なく「学者塔」と呼ばれる研究施設で、現在では三百人を超える人間が出入りしている。一つの塔だけに居座る者は少なく、大概がいくつかの分野を掛け持ちして研究の互助をしており、ジェレミアもその一人だった。中でも、彼が主に出入りし机を構えるのは、魔に関する全般を手広く扱う魔法学の塔だ。
彼が顔を上げると、星の紋章を掲げた天文学者たちの塔では望遠鏡を磨いているのが見えた。植物学者が立ち入る塔では屋上の樹を剪定している様子が窺える。奥、塔に囲まれた古井戸の周囲では賢者と名高い塔の管理者たちが早くも揃って、文字通り井戸端会議をしている。
普段どおりの様子を眺めながら、来たばかりの頃は間違えることも多い似通った姿の塔を難なく選んで、同胞たちと挨拶を交わして薔薇紋章の扉を開く。エントランスも変わらない姿で彼を出迎えた。
ジェレミアの机は五階にある。入出記録にサインした彼は集まり始めた学者仲間を尻目に、中央の柱と共に在る螺旋階段を昇って自分の椅子を目指す。
「ブランヘアックの調査団派遣が決まったって」
「魔鉱の採掘場で新種鉱物か。調査員の競争率は高そうだ」
「近頃の若者はどうなってるんだね、女は髪を短くするし、男は――」
「歴史塔の奴らも一時はよくお呼ばれしてたけど、最近ぱったり聞かなくなったな。なんかヘマしたのかね」
「目新しいこともなくなっただけだろう。あそこほど堅実な塔もない」
「新種と言えば植物塔の奴のあれ、どうなった?」
「おいまだ纏め終わってないのか! 遅いぞ!」
「あそこは駄目だ。王族が管理してるんだ。そもそも、この辺りの地盤は固いから……」
朝は昼の茶の時間に次ぐ情報交換の時間だ。年代専門を問わず、どの階でも立ち話与太話が繰り広げられていて、通りすがりに聞くと脈絡のない話になる。
そんな会話も、時間が経つにつれてそれぞれの領域に移行して文献を開いての意見交換へと変わっていくのがお決まりの流れだ。長い階段を上へと回るジェレミアは、途中に受けた視線に会釈だけ返し、声の数々をいくらか整理して記憶の抽斗にしまいこむ。社交的な彼の挨拶相手はそれなりに多かったが、階段を昇りながらでは長引くこともない。
「おはよう諸兄」
五階は既に全ての机が埋まっていた。早起きと、泊まりこみの多い階なのである。
東に面した窓が開けられて明るい中、ジェレミアの挨拶に皆が顔を上げて応じる。その中の一人、ジェレミアと隣り合う位置に机を構えているナフムが薄暗い本棚の間から手を振った。
「よお、どうだ、今日は上手く行きそうか」
「行かせるとも」
ジェレミアより四つ年上の彼は分厚い本を片手に歯を見せて笑う。学者にしては体格のいい姿は此処よりも別の、地学や農学を内包する塔に多いものだが、彼はこう見えて魔法塔一筋の男だった。特に魔物に関する知識と研究意欲は海よりも深い。半数以上が滅んでしまった彼らについて研究する者は現状そう多くないが、まだ若手の部類の彼はひどく熱心なのだった。今持っている本『竜種総覧』は彼の愛読書の一つで、この道に進んだきっかけだというのは、ジェレミアも何度か聞いている話だ。
「なんたって、うちの塔じゃお目通りは久しぶりだ。失敗したらタダじゃ済まない」
威勢よく答えた後ろに、ジェレミアは言葉を繋げて笑い返した。
このように塔を賑やかす学者たちが研究成果を報告する先は、国の統治者たる王族だ。
とはいえ、権力者も暇ではない。当然そこに辿りつくまでは長い道程があり、先輩学者、上司、大臣など城の要職を通ってやっと届く頂点だ。特別に優れていると認められた報告が要職まで至ると出向の呼び出しがかかり、研究成果をより詳しく国の上層部に伝える栄誉が手に入る。
素晴らしい立ち振る舞いをして気に入られれば出世もしやすくなるし、資金も多く出るようになる。なにより成果が広く知れ渡り、次の研究と成果に繋がるようになる。出世、名声、そして研究の深化を望む学者たちにとって、謁見報告の呼び出しは一つの目標だ。
そしてある程度の団体で括られていれば――中には孤独を愛する者がいるにせよ――やはり仲間意識というものも芽生え、そうした扱いをされるようになる。一人の成功が皆の名誉、一人の失敗が皆の醜聞となるのは当然のことと言えた。
この春最初の、魔法塔ではおよそ一年ぶりになる謁見報告。しかも王族の中でも当代の王に会う栄誉を手にしたジェレミアに、塔全体が関心と期待、羨望または嫉妬の眼を向けている。急な指名を受けてからの二日間、その視線を心地よいものとして受け止めて、彼は謁見報告の準備に努めた。
「違いない。批難轟々だろうな。……失敗してほしいような気もするけど」
冗談の口振りで嫉みを呟いたナフムの腹にジェレミアの拳がぶつかる。揃って肩を揺らし資料を手に机へと向う二人、やはりジェレミアには同胞たちの視線が集まっている。特に仲間意識の強まる同じ階の中であるから、他の階に比べて気遣い染みたものが多い。
「そういや、ブランヘアック鉱山に派遣が決まったって? 枠は発表されたか?」
椅子に腰かけ、階下で聞いた話を思い出してジェレミアが問う。
ブランヘアックは古くからアルアンヌの発展に貢献してきた、ロードベリーから少し東に行ったところにある豊かな鉄を主とする鉱山だ。アルアンヌの国の要である水と地――水脈と鉱脈は大半が王族の管理下にあるが、ブランヘアックも例に漏れず、現在は王家の血の濃い先王の義弟が管理を行っている。其処で十八年ぶりに新種の魔鉱が見つかったとの話が届いたのは三日前だ。
魔鉱は人体に有害な物もいくつかある為、詳細が分かるまでは他の鉱石採掘も中断しなければならない。すぐに調査の為、王城学者を選抜した学者団が結成されるだろう、とは、誰もが予想したことだった。そうなると関心が向くのは、どの塔から、何人、誰が行くのか。
「ああ、総勢十二名、うちからは七人だと。うちはこういう時取り分が多くていいな」
ナフムが両手を広げ、指を見せて応じた。魔法塔から七名。魔鉱の調査となれば妥当な人数と言えた。こうした調査の人員は賢者――塔の管理者たちの指名と、立候補による抽選だが。
「行くのか」
「申請はしてある」
ジェレミアが訊ねると頷きが返る。ナフムの専門は魔物に関するところではあるが、彼は魔鉱に関する知識も多く有している。そして観察眼に優れている上に、何よりスケッチが早くて正確なので、記録係が必要な調査で声がかかる可能性は低くない。
多分当たるだろうな、と予想しながら、ジェレミアは机の上で本を開いた。
謁見報告に指名された学者は、その後暫くそうしたご指名からは漏れるのが通例、伝統だ。良い思いをした者は暫く他の者に機会を明け渡す。本人がそう望むのではなく上司たちの判断で据え置かれるのだ。だからジェレミアはこの件に関して、賢者の采配の前から留守番が確定していた。
「俺も行きたかったなあ」
謁見報告に比べれば、優先順位など知れているが。本音をそのまま口に出すと、ジェレミアの予想通り、「謁見報告があるだろ」と周囲の机から声が飛ぶ。彼はまた笑って、短く返事をする。
始業の合図になる本日二度目の鐘が響いた。会話は途絶え、人々の顔も自分の研究へと向く。そこから先、研究分野の雑多な階では声は少なく、代わりのように音が部屋を埋めることになる。
ある机では論文が書かれ、ある机では記述を探して頁が捲られ、またある机ではランプが石を溶かし水を沸かす。見なくとも、何をやっているのかは大体察しがついた。行き詰って苛立ち鳴らされるような音の数々にだって、皆慣れたものだ。
ジェレミアは抽斗の鍵を開けて、謁見報告の為に用意した資料を取り出した。
手触りの良い白表紙の綴じ本。赤いインクで記された題字を見る目は自然に細められる。出番を待つだけの完成したそれは、前の晩に見たままの姿で彼を待っていた。