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十六 交錯

 天に居られる真白の天使、禍退け歌ったひとよ。

 御身のたもとで祈りを重ね、水際に立ちて言祝ぎ謳う。

 我らを統べる麗しの、頂に座す輝きの。

 我らを導き扉を閉じた、御身の為に歌を捧げん。


 正午の鐘も天使賛歌の余韻もとうに失せて、第二騎士団の詰所には静かな空気が満ちていた。学者の行方不明事件は未だ解決の糸口も見当たらず、立哨、歩哨の仕事は隙間が無い。交代待ちの休憩も、どこか仕事中のような緊張感の中にあった。

 昼過ぎからの城内歩哨を終えた双子は並んで椅子に座り、先輩騎士が淹れてくれた紅茶の杯を手にして休憩していた。膝の上には小さな菓子の包みも乗っていたが、楕円形のケーキは半分近く残っている。

 飾り気のない薄茶色の陶器を見つめる二人は無言だった。もっとも、彼らは普段から特別に口数が多いわけではない。他の騎士と居る時はともかく、二人だけで居る場合は黙っていることのほうが多いぐらいだった。二人は無口で、互いの顔も見ないままにじりじりと流れる時間の中に居た。

 俄かに入口の方がにぎやかになったのは、町に出ていたアドルフが帰還した為だった。団員たちが出迎え、諸々の報告を行い、指示を受けては休憩を切り上げて仕事に戻っていく。

「お疲れ様です」

 立ち上がるのは少しだけマリースのほうが早い。声は揃って、部屋を覗いて口髭を撫でたアドルフが頷いて応じる。他にも声をかけた面々を眺め、彼は口を開いた。

「皆、ご苦労。――ハイラム、マリース、次の交代まではまだ時間があるな」

「はい」

「城の保管庫から都市東部の地図を借りてきてくれ。ついでに、帰りにヒューバートを連れ出してこい。トリストラム殿の所に居るそうだ」

「了解しました」

 答えた二人は茶と菓子を片付け、壁際に立てかけていた剣と指揮棒を手に詰所を出た。晴れ空が眩しく目を射る。

「……何してるのかしら」

「きっと大人しくはしてないね」

 外に出て数歩進んだところで、二人はようやく口を開いた。他ならぬ、何かを始めた兄への呟きだった。

 彼ら自身も何かを始めたかったのだが、兄の件と共にその取っ掛かりはなく、結局はいつものように時間を過ごしていた。それも、兄が普段の調子を取り戻しただけで随分と落ち着いた気分ではいたけれど。

「まあ、後で俺たちにも教えてくれるよ」

「それか手伝いでもさせてくれるかも」

 二人で独り言のように呟きながら、目を眇めさせる陽光から逃れるように小走りに木立へと向かう。城に入る為の道はそう長くはない。騎士が増え誰に聞かれるとも知れない道で、それ以上はどちらも無暗に声を発することはなかった。

 見つける騎士の数を数え、何気なくその白服に刺繍が無いかを確認して、彼らの動きを気取られぬように追う。何処を見ても昨日と大した違いがないのは、まだ何も動いていないからなのだろう。安堵と不安をそれぞれに抱きながら、二人は早々に森を抜け、門番に挨拶をして西へ伸びる通路を進む。途中で文官の一人を捕まえて、団長に言われた通りのことをハイラムが復唱した。地味な顔をした文官は二つ返事で快く申し出を引き受け、己の仕事場から鍵を取り出し、騎士を連れて保管庫へと向かう。

 ぴったりと揃えた歩調で磨かれた床を踏みしめる澄まし顔の双子は、それだけで見栄えがする。見た目で得をする騎士と比較されて価値を下げられまいと、少々緊張した文官の歩き方は仰々しいほどで、何か特別な出来事でもこの後に待っているように見えた。

 その小さな行進は突如として停止した。石壁に囲まれた廊下を抜け、外の光が差し込む庭園沿いの回廊に踏み出したところで文官が足を止め、ハイラムとマリースもそれに倣う。二人が何事かと考えたのは一瞬で、その疑問はすぐに氷解した。

 庭は美しく。風が花々を揺らし、漂う匂いを回廊へと吹き込む。春の盛り、この世の盛りを思わせるその芳香は人々の心に働きかけるものだった。だが、それよりも、鮮烈に心に及ぶものがある。この場の誰もがその出所を知っている。

 赤みがかった金の髪が花の香に揺れ、波を象った銀の冠が輝く。近衛騎士と要職の数名で成る女王の一団が、立ち並ぶ柱の陰に姿を現した。

 文官と騎士、三人は壁に身を寄せ決まった動作で頭を垂れた。文官は帽子を取り胸に当ててやや深く、騎士の二人は腰の剣に両の手を添えて。そうした彼らの足に背に、染みるのは緊張感。王に平伏すアルアンヌの民の魂が震えている。

 悠然と見える女王の歩調は、しかし遅くはない。通り過ぎるまで時間はかからず――男たちを従え前を見据えていた女王の眼がすっと、僅かに横にずらされた。視線は双子の騎士を束の間だけ捉え、すぐに前へと戻される。

 そのとき、俯いたままのハイラムの目が見開かれた。

「えっ――」

 声を上げたのはマリースのほうだった。幸いにも大勢の靴音と衣擦れに紛れる小さな声で、人の視線は飛んでこない。

 一団が通り過ぎたあと、また目的地に向って歩き始めた三人の足は、先程までとは違い少しばらついた。すぐに動いた文官にハイラムが遅れ、更に遅れたマリースが追いかけ、少ししてようやくまとまりを得る。

 ハイラムの表情は硬く、マリースは狼狽していた。二人の変化に気づかない文官だけが変わらぬ歩調で回廊を進み続ける。

 鍵のかかった一室から地図を取り出してもらう間も、受け取って詰め所へと戻る折り返しの道も、双子は共に落ち着かない表情だった。どうにか取り繕って、それではと文官が会釈して立ち去ったところでやっと、マリースがハイラムに身を寄せる。

「ねえ、ハイラム、さっき」

「うん、……間違いないと思う」

 潜めた声に頷いて、ハイラムは眉を寄せた。険しい顔は先程エレオノーラが立ち去った回廊の奥を見ている。

「さっきの感じ、分かるだろ。背筋の伸びる感じっていうか、ちょっと体の強張る緊張感。陛下とお会いしたときに感じる……」

 擦れ違う瞬間、確かに皆が得た感覚を舌に乗せるハイラムに、マリースの顔は曇っている。その感覚と同時に双子の兄が何を思ったのか――思い出したのかを彼女は知っているのだ。

 新緑の木々、剣と魔法を交える騎士たち、奥に見える青い池、その、更に奥。走り抜ける、その場に居るはずのない部外者の姿が目に入る。思い出せば顔と体を隠す布の端から零れる髪は、緩やかに波打つ、夕暮れにも似た赤色を含んだ金色だったかも知れない。次の瞬間眩暈と錯覚する揺れが来て、跪けと命じられたように膝が折れる。

 それは先程よりもずっと如実で、強烈な魂への呼びかけだった。王の力、女王の持つ威光だ。

 演習のあの日、ハイラムやヘレンが見たあの人影は、女王だったのだ。

「ありえないわ。あの日、兄さんが謁見したの覚えてるでしょ? 演習していた時間と、大体同じくらいよ。無理よ」

 まさか、と声を上げたマリースに反して、ハイラムは過去と重なった現実を黙って吟味していた。得た確信と現実は食い違っている。彼自身信じられない心地でいる。その心情がまた、マリースの心にも伝わりざわりと波を立てた。

「でも間違いないんだ」

 途切れがちに喋っていたハイラムはゆるゆると首を振った。

 周囲を、回廊を見渡して言う。独り言のように小さい声は響かず、花の香に混じって消えていく。

 しんとした場所で地図を抱えて、立ち尽くした二人は噴水から溢れる水の音を聞いていた。水を輝かせる光は傾き始めている。曇った顔を見合わせ、ただ此処でずっとこうしているわけには行かないとだけ結論を出し、ためらいがちに歩みだして城内を進む。

 答えを得たと思えば、まだ謎の只中。それどころかどう身動きすべきか分からなくなるばかり。すっかり迷子の気分になった二人はその先、このちょっとした仕事の目的地で更に困惑することとなった。

「……おかしくない?」

 ヒューバートが居ると言われた第一騎士団長トリストラムの居室は庭からもほど近い。詰所と同じように多くの騎士が出入りし、城内の事情を掌握する王城防衛の頭脳だ。其処が無人になることなど、本来はあり得ないのだが。

 普段ならこの時間は開け放たれている扉が閉まっている。マリースが控えめにノックしてみても応答はなく、なにより人の気配が感じられなかった。少し考えてから、マリースは扉を押した。驚いたことにすんなりと開く。

 斜陽が差し込む室内は、無人で静まり返っていた。しっかりと佇む年季の入った執務机の上には何かの書状が出しっ放しになっている。インクの瓶は蓋をされ、椅子もしっかりとした位置に収まっていたが――ハイラムが机上の紙面を覗き込むと、不自然に途切れている文章の端、たっぷりとインクを乗せた太文字はまだ乾ききらずに光っていた。少し前までは此処に人が居たことは間違いがない。

 部屋にあるのは整頓されて訪れた静けさではなく、何かをやっていた途中で投げ出された、慌ただしい出来事の後の静寂だ。

「何かあったのかしら。それでも、誰もいないなんて……」

「ヒューバートさんは第二に戻ったと思う?」

 先程までの言い知れぬ心地に、焦燥感が折り重なる。マリースは空いた椅子の上に地図を置き、室内を見渡した。剣や指揮棒など、目立つ武器の類は一つも見つからない。何人居たのかも知れないが、此処にいた騎士は全員武装してこの場を飛び出したに違いなかった。

「団長に報告しましょう。普通じゃないわ。戻って指示を――」

 マリースが声にする頃には二人は揃って踵を返して部屋を出ている。確認するだけの言葉は早口になり、飛び出した先で人とぶつかることによって止まった。低い位置への、しかし勢いのある衝撃に彼女は目を丸くする。

 床にへたり込んでいるのは侍女の格好をした少女だった。ふわりと空気を含み広がる青い衣装の裾は、水に濡れて色が変わっている。少女はぶつかった先の大人二人を見上げて呆然としていた。

「どうしたの、大丈夫?」

 よくよく見れば彼女の目元は赤く、何処かで怒られて泣いて出てきたのかという顔をしている。だと言うのに顔は青白く、慌てて屈んだマリースの美貌を間近で眺め、立ったままで様子を窺っているハイラムをもう一度仰ぎ見て、ぽかんと開いていた口が動く。

「……貴方たち、学者さんのご兄弟?」

 声は震えていた。二人の顔色が俄かに変わる。

「どうしたの。兄さんに何かあったの?」

 浴室番の娘は絡んだ息を呑んだ。肩で息をして、震える手で騎士に縋りつく。

「また来るわ! あの人、連れていかれる! それなのに……行ってしまったの、泉に――呼ばれたんだわ、ああ、女王様、蛇よ、どうして。あの人は違うのに、」

 しゃくりあげるように吐き出される意味の繋がらない言葉によって、双子の脳裏に二つの出来事が浮かび上がる。

 一つは兄が消えた日の事。もう一つは演習の日。城の東の森、水辺を走る女王。強張る体と、――足元から這いより、耳どころか体を抜けて包み込むように響く、知らない音。

 覚えのない音が記憶から引き出され、気づけば現実でも聞こえるようになる。近くの噴水よりも如実に聞こえる奇怪な水音に、双子は目を見開いた。

「連れていかないで! あの人はアンヌのものじゃない!」

 以前と同じく迫りくる水の音に、少女は泣き叫んだ。真昼の祈りの歌が終わってから聞こえ始めた微かな音を、最初は空耳だと気にしないように努めていたけれど、もう限界だったのだ。それに、聞こえていたのは自分だけではないと彼女は知っている。

 部屋が空だと、抜け出したのだと言ってさざめく騎士たちの声。空恐ろしい騒ぎから逃げるように寄った窓辺、硝子窓から見下ろした、天突く塔の間を走る学者の姿。

 遠目で判別できるほどの特徴らしい特徴のない姿だったが、どうしてか彼女はその人から目が離せなかった。学者は一直線に走り、繁る木々の中に入って見えなくなる。彼の行き先に何があるのか思い至ったときに、少女は彼が誰であるのかも気づいた。縋りついた騎士たちの兄、浴室で水に呑まれ、行方不明になって――この城、女王と騎士たちにそのことを揉み消されようとしていた、あの王城学者だと。

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