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十四 賢者の歩みは高らかに

 朝早くに目覚めたジェレミアは、いつも持ち歩いている物よりも二回りほど大きな、調査に赴くときに使うような鞄を引っ張り出し、その中にあれこれと物を詰めた。

 漂白紙の束と鉛筆、ルーペに乳鉢、空の硝子瓶に布製の袋、マッチと蝋燭の一揃い、鋏や裁縫道具、多くの布と、物を纏める為の様々な太さ長さの紐や縄。きちんと整頓して詰めたこともありそれだけ入れても鞄には隙間が多くできたが、今はそれでよかった。

 そして彼はそれまでずっとそうしてきたように扉をノックして弟妹を起こし、身繕いをして食卓に着いた。母はジェレミアが手にした鞄をちらと見たが、何も言わずに微笑んだだけだった。

「いってらっしゃい。気をつけて」

「大丈夫。俺たちがついてる」

 穏やかな朝の陽射しの中、見送りに立ったディーナの言葉にハイラムが答え、マリースが頷く。二人の後ろでジェレミアがにこりと笑い、彼らの母も頷いた。

「下に守られる兄貴ってのもどうなんだかな」

「兄さんは学者だもの。仕方ないわ」

「……行ってくる」

 言い、諌められながら、ジェレミアは久しぶりになってしまった道を辿る。高く晴れあがった空が美しく、春の香気が満ちている。いつもと同じ、何も変わったところのないロードベリーの街並み。

 誰もが一日の準備をしている朝の風景を抜け、目指すは大通り。水路と橋の目立つ路地を抜け、水道橋の柱の横を通り、時には誰かが繋いだままの舟を足場に。病み上がりでも問題なく、弟妹と共に、躍動の気配を秘めた今はまだ静かな道を歩く。

 変わったところなど、ないはずなのだが。

 ジェレミアの視線は、陽に輝く細い水路に向けられたと思えば、粉屋の横にある水車に引き寄せられる。粉挽きの臼に繋がっているだろうそれはいつもと変わりなく水路の水を受けて回っている。さあさあと流れる水の音も普段と変わりない。変わりのないその音が、何か別のもののように聞こえる。

 見慣れた光景、見慣れた音。その中に何かが潜んでいる。

「お前たち、」

 見咎めて視線を交差させた双子が何かを言う前に、彼はまず右を向いて口を開いた。晴れやかな空を背後に置いた妹は真剣な顔をしている。恐らく逆側に居る弟も同じ顔をしているだろうと考えながら、ジェレミアは続ける。

「お前たちと同じくらい大事なものを、俺はあの日見た。これからそれを確かめに行く」

 独り言のようにその言葉は漏れる。心の中では確かに決まったことでも、なんと言葉にしたらよいのか考えながら喋ることになった。何せあれは夢のような出来事で、未だ存在の確証さえ無いのだ。それでも、彼は確信して足を前に出す。

 左を見て、やはり同じ顔だった弟を視界に納めながら、ジェレミアは深く息を吸った。

「俺はもう一度行かなければならない、」

 学者として――そして?

「どうしても、」

「行くの?」

 続ける言葉に戸惑ったジェレミアの言葉を遮るように二人が発した。

 ジェレミアには、それは弟妹からの問いではなく、世界からの問いのように感じられた。誰からの問いであろうと、答えはもう決まっていたけれど。

「どうしても、だ。終わったら全てを話す。約束する」

 顔を正面に戻して頷き、立ち止まらず、ジェレミアははっきりと応じた。それは在りし日の、ジェレミアにとっても双子にとっても懐かしい父の口癖だった。帰ったら、約束する、と言って、その約束が破られたことはただの一度もない。

 そして、双子の父親代わりでもあったジェレミアが約束を破ったこともやはりないのだ。双子は兄を信頼していた。

 何より、赴く兄を引き留めることなどできなかった。気高き学者を止めることは躊躇われた。だから二人は立ち止まり、兄の背後で顔を見合わせてから小さく頷いた。

「いいよ」「いいわ」

 世にも美しい男女は静かに言って、揃って世にも美しく微笑んで見せた。二人は一間置き、また口を開く。

「じゃあ、俺たちも探すことにする」

「兄さんと同じくらい大事なもの。……かも、ね」

 ハイラムの言葉をマリースが継ぎ、ふっと華やぐように笑う。

「あの日森で見たもの。兄さんと同じかは分からない。けど、何なのか知りたいんだ」

「知るべきだ、って思うのよ」

「なんだか気になって仕方がないんだ。昔から知っている大事なものの気さえする」

「見た目は似てないかもしれないけど、私たちやっぱり兄弟よね」

 男女の声が一つの意思を表明する。ジェレミアは振り返った。目が薄く瞠られ、朝の光を含んだ青色が一層鮮やかさを増す。

 双子がまるで一人のように物を言うのは、彼にとってはさして珍しいことではなかったが――振り向いて見えた顔は、風に揺れた髪が白色であるように錯覚させた。

 朝の涼しい風に揺れたのは金の髪。薔薇色の頬にかかり、淡い影を落とす。究極の美を志す者たちが手の限りを尽くして作り上げたような、天使が最上の慈しみを持って形を決めたような、骨にも肉にも無駄のない美貌が兄を見つめていた。

 男と女の双子が、違うようでよく似た二つの顔が、同じ表情をしている。性別を入れ替えたなら、そっくり入れ替わるだろう相似。ジェレミアは一人を二人として見ているような気分だった。もし、ハイラムとマリースが一人になったとしたら、きっと天使になるだろう。白い天使に。

 二人は兄とはまるで似ていないが、家族を、兄を深く愛している。

「行こう、兄さん」

「私たちいつだって兄さんの味方よ」

 そして彼らは、兄よりずっと早く結論を出していたのだ。まったく無垢に純粋に、迷いなく二人は告げた。

 兄が如何なる道を進もうと、二人はその道を祝福する。彼らはジェレミアの決断を待っていた。

 ジェレミアは、いつまで経っても子供のように思えている弟妹が時間の流れと共にしっかりと成長し、いつしか対等に扱うべき位置に来ていたことに気づかされた。彼らは既に庇護の対象ではなく、肩を並べる相手になっていたと。

「……ああ。行こう。騎士も学者も、遅刻はまずいからな」

 喜びと寂しさを綯い交ぜにする実感に頬を緩めながら、兄は足を止めた二人を促す。ゆると前に進み、揃う足音はやがてマリースのほうが少しだけ早くなる。その爪先を見て自分も歩調を速め、ジェレミアは上着の裾を翻した。

 王城学者の証であるブローチを失くし、上着もやや古いものを引っ張り出してくるしかなかった彼の格好はいささか軽く、学生のようにも見える。しかし歩みはどこか踏みしめるようで、強い意志が感じられた。前を見る顔には怜悧な光が備わっている。何かを目指す者の趣がある。

 その姿は彼の美しい弟妹より人の目を惹いた。国に仕える、賢者の列を往く者に相応しい横顔は、しっかりと行く先を見据えている。

「俺はすべてを覚えている。夢でなかったのか、確かめに行くだけだ」

 呟きは研究の手順を考えるときに似た口振りだった。ハイラムとマリースにとっては、見慣れた兄の、一番活き活きとする瞬間だ。母ディーナが亡き父と並べて言う、学者の直向きな姿。

 双子はまた顔を見合わせ、何か思いついた顔をした。そうして前を見て、歩みを早める。

「ところで、兄さん、」

「帰りも一緒だって約束してくれる?」

 子供のような口振りで言った二人はとうとう駆け出した。笑って兄を追い越し、同じ出仕の人々が往く大通りへと抜け、城へと続く橋を目指す。始業の鐘まであまり時間はない。

「……勿論だとも」

 春の陽射しに照らされるロードベリーの街は誇るように美しい。憂いや悲しみや苦しみをくすませる、水と花の都、女王の裾だ。他の国よりも古い時代から、珠玉のように海の中心で輝き続ける島国の冠。

 その中央を走る道を進んで、三人は城を仰ぎ見た。

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