十二 選択
話はたったの数分で終わった。
「――つまりまあ、俺の話と言っても、できる話はそれくらいだよ。気が付いたらあの泉のところで倒れてて、騎士に発見してもらった。覚えてることもほとんどなくてな。自分では言われた通り点検に行ったつもりだったんだが……」
居間に戻ったジェレミアは、紅茶を用意した母が台所に戻ってから話を始めた。何処かへ行っていたこと――浴室の設備点検に向かった先で何かに巻き込まれ、あの場所に至った事はやはり伏せた。そうして騎士団や学者塔が公の情報としている謎の行方不明事件の中に納まる話としたので、情報量はひどく少なく、ヒューバートに説明したものとさして変わるところはない。口調が砕けているぐらいだ。
他人から聞いた話を本当に薄く補足するだけの話を、ジェレミアの向かいに座ったナフムは黙って、しっかり最後まで聞いていた。口を挟む代わりに紅茶を飲んでいたので、話していたジェレミアの杯がまだ一口分しか減っていないのに対し、ナフムのほうは空に近い。
「記憶が混乱してんのか。そりゃ見た目より重症だろ」
言葉の余韻まですべて消えてから、ナフムはゆっくりと言う。ジェレミアが肩を竦めて杯に口をつける。
「……まあな。でも無いことじゃないって言うし、こうして無事だし」
「魔法的な何かの影響を受けた可能性もあるんだろうが?」
「何度も診て貰ったよ。医術塔の賢者とフィリーモン先生にわざわざ来ていただいた。とりあえず、今のところその様子は見られないそうだ。定期的に診せるようにとは言われたが」
魔法についても深い知識のある賢者と、魔法塔に籍を置く、人体に影響を与える医療応用魔法の先駆者。その筋では間違いのない人が話に出されれば、ナフムは引き下がるしかない。
外傷少なく、不調らしい不調は解消され――ただ記憶が欠落しているという同僚を見て、彼は残っていた紅茶を全て喉に流し込んだ。深く、長く息を吐いて、彼は椅子の背凭れに寄り掛かる。
「なんで城の中でそんな話になるかね……」
ナフムの舌打ちしそうな顔を見て、ジェレミアは自然に見えるように努めて組んだ自分の手へと視線を逃した。
人に話すたび誤魔化してはいるが、記憶は大部分がはっきりしている。喪失どころか、むしろ鮮烈に焼きつき、魂に食い込むような記憶だ。忘れられるはずもなかった。
そして、其処に舞い降りるのは黒く巨大な魔物の影。
「俺は、単に打ち所が悪かったって話にしたいが」
「学者が、それもどうなんだよ。本当に一番悪ィとこ打ってんじゃねえか」
笑顔を作り、冗談の声音でジェレミアは言う。気丈なその様に、ナフムもいつもの調子で応じてみせた。無理に明るく繕った空気の中、暗い沈黙が降りかけた。
「それで、土産は?」
終わった自分の話を押しやるように、ジェレミアは尋ねた。ナフムと目が合ったところで彼の足もとに置かれた鞄を指差す。
「調査の記録入ってんだろ。見せろよ」
ジェレミアの顔を見返して何度目かの溜息を吐いたナフムだったが、言葉を混ぜ返すことはしないまま開けた鞄に手を突っ込んで、厚い紙の束をそっと取り出す。鉱山に散らばっている砂の粒が零れるのを鞄の中でいくらか払ってから、ジェレミアの前と投げた。
浮き立った同僚がそれに気をとられている間、彼はまだ鞄を漁っていた。こちらは比べて薄い紙の束を抜いて最初の一枚を捲り、先の物と同じようにテーブルの上に。
「ほらよ、スケッチ。現地はこんなんだぜ。圧倒されるぞ」
記録文書を繰って下を向いていたジェレミアの顔が上がる。視線は薄く砂に汚れた紙面に引き寄せられ、先程とは違う柔らかな沈黙が暫し、その場に満ちた。
原寸大、無色透明――と注記された、掌ほどの大きさの、菱形に近い形の平たい結晶の絵。その横に描かれているのは比較対象にする為の人影を置いた採掘現場の風景。
黒鉛の線は風景を忠実に描写している。
四角く切り出された平凡な鉱山の痕跡の奥、削り取ったようになっている岩壁。クロリーバー鉱の採掘中に剥落したというその傷跡に見えるのが、新種鉱石の巨大な集合体だ。人影から推測できるその面積は、今いるこの家の壁よりもずっと広い。それだけの場所に原寸大で描かれたものと同じ形をした結晶が密集している様が、分かりやすく描かれていた。
「これは……一帯が覆われていたっていうのか。それはまた、凄まじいな」
「なんかの鱗みたいだろ。結晶はほぼ透明、集まると光の反射の関係で青色だ。奥まで光を透かしているようだったから、表面だけじゃない。先までずっと、これがびっしり詰まってるんだ。地学者の話ではこの鉱物はかなりの広範囲に及んでる可能性が高い。もっと大がかりな調査が必要になるから、次回の派遣は長期で、地学者がメインだな」
置かれた灯りにスケッチを翳して浮ついた顔と声で言うジェレミアに、それさえごく一部に過ぎないと解説しながら、ナフムは途中まで捲られていた資料を取り上げ中程を開いた。一発で引き当てたお目当ての頁を、スケッチをじっと眺めるジェレミアの視線を遮るようにして差し出す。
「それで、我ら魔法学者による分析結果だ。……まあ、写しだが多分合ってる。ちゃんとしたのは報告が回ってくるだろ」
こちらの紙面の大半は、絵と比べて乱雑な走り書きで埋められていた。文章ごとに向きさえばらばらの、これぞ走り書きといわんばかりの雑多で悪筆なメモだったが、人差し指が示したところだけはまだ読める字で書かれている。
六角形の囲いが、その文字列がなんであるかを示している。ジェレミアは目を走らせて中央の一行に指を滑らせた。
「水?」
生命の根源、流転の象徴。アルアンヌでは常に親しいその存在が、魔法学者の扱う文字としてそこに据えられている。
「そう。なんと、水なんだ。氷ではないんだが、魔力で固体になってる」
言葉を聞きながら、ジェレミアの指は魔力分析の文字を辿って、新種魔鉱の組成を頭の中に描いていた。この文字の並びならば、と、描き終わった直後に口は動いた。
「魔力が表面だけでなく内部に……網目状に広がって水を結びつけているのか。確かにこれは、意外なほどにシンプルだな。魔力と水だけで構成されている」
「国内ではともかく、外国向けには旨味の多い品物になる予感ってとこか、商業的には。まあ何事ももっと詳しく調べてからだが。もし手軽に魔力と分解できて飲用にも適すなら船旅なんかじゃかなり重宝するだろうよ。水とは言ってもこれまでとは違う資源だ」
「面白そうだな」
ナフムのやや俗な発言も、聞いているのかいないのか。穴が開きそうなほど記録を見つめて、ジェレミアは独り言に近い言い方をした。顔は真剣で、声は意欲に溢れている。
未知の新種に心躍らせる好奇心の塊と化したその様、鉱山でも見た姿が戻ってきた先の友人宅でも再現されて、ナフムはやれやれと肩を竦めた。これが鉱石ではなく魔物の一部だったりしたら自分がこうなるだろう、との確かな予想を棚上げしての動作だ。
「心配して損した、ってか」
「ん?」
「すぐに取り分が有るは知れないが、明日には標本室にサンプルが届くよ。そうすりゃまたじっくりやれるだろ、例の研究も」
「ああ――」
かけられた言葉に、応じるのは生返事になった。
気軽に言った同僚に対してジェレミアは驚いた顔をして、それを引っ込めるように力んで笑った。ちょうどスケッチに目を移していたナフムはその誤魔化しの表情には気づかなかった。
「そうだなぁ。塔に戻ったら、あれも進めないと」
魔力抽出の研究、紡錘の開発。一年近く、謁見報告の要請がある前も後もずっと意識の片隅にあった事柄に、ここ数日はまったく意識が及ばなかったことにジェレミアは気づいた。それは自分でも驚く事態だったが、理由は明確に知れている。
あの場所のことを想いながらも、塔に戻りたいと考えていた、つもりでいたが。本当に向かいたいのは――戻りたいのは、塔ではなく。
母に言われるまでも無く、とうに結論は出ていたのだとジェレミアは知る。ただ決断できなかっただけだ。それは多くの物事に囚われ近場にある答えを見つけられずにいる、多くの学者が経験し、時に気づかないままで終わる現象にも似ている。
ただいま、と揃った男女の声が扉を開く音と共に聞こえてきて、ジェレミアははっとした。おっと声を上げたのはナフムで、足音が近づいてくる間ににやにやと笑顔になる。
「あれ」
「おかえり」
先に居間に到着したのはハイラムで、部屋の中に居た兄とその同僚、彼もよく知る塔の学者を見て、抱えた果物を台所に置きに行こうとしていたマリースの袖を引く。だからすぐに、彼女も笑顔を居間に見せた。花の綻ぶような明るい顔だ。
「ただいま。お久しぶりです、ナフムさん。お見舞いに来てくれたの?」
兄に返して、双子は同時に頭を下げた。見慣れていても見惚れる美女の笑顔に時の止まった錯覚をしたナフムだったが、ぴたりと一致したその動きには愉快そうな顔に戻る。
「おう、久しぶり。まあそんなとこだが、元気だなお前らの兄貴は」
「ナフムさんが来たからだよ」
「それ、何かの資料でしょう? 薬なんかより効くんだから」
「大事をとって休んでたらそんなもんさ」
二人は、自分たちが出ていくときよりもすっきりとした顔をしている兄を見て顔を見合わせてから、ナフムに返した。どこまでも学者な兄に呆れた風でもある。
友人というよりは先輩学者としてジェレミアに味方して肩を揺らしたナフムは、今度はしげしげと双子の服装のほうを眺める。
「段々馴染んできたな、その格好も」
「……そうかな?」
言われて顔を見合わせる動きはまた、ズレずに揃った。二人で、自分ではなく相手のサーコートや指揮棒からなる出で立ちを見ているのだ。
こうして動きが揃い、まったく同じ動きや表情をすると思えば、次にはまるで違う動作をして違う顔をしている。そんな双子をナフムはつい観察してしまう。ジェレミアに何かを言われないうちにと視線を逸らすのも、今日に始まったことではない。
会話を交わす弟妹を眺めて、ジェレミアはまた例の白い姿を思い出していた。彼らを兄として守るのと同様に、自分はあの存在を守りたいのだと確信していた。理由は知れないが――現象が先に在って理由を探るのだって、思えばいつものことだった。発見は多くの場合再発見であるのだと痛感する。
「それはどうしたんだ。そんなに」
早く、と急ぐ気持ちは宥め。ふと笑んで気持ちを切り替えたジェレミアがマリースの抱えた籠を指差して問うと、二人はまた顔を見合って笑った。
「買わされちゃった」
「値段は大したことなかったけどね」
「……美人は買い物上手だよなぁ」
淡く熟れた杏を見せるマリースにハイラムが続けて、悪戯染みた顔をした。すると隣の彼の表情が伝播したように、マリースも似た雰囲気になる。隠すように唇に手の甲を押し当てたが、笑いはふふと漏れ出して、杏は籠に戻される。
やりとりでおよその察しがついたナフムは、呆れと感心を綯い交ぜにした声で二人の兄に顔を向けた。ジェレミアは苦笑いしている。見目良い双子が居ると買い物に有利なのは昔からだ。
「おかえりなさい。ジェレミア、ナフム君との話は終わった?」
皆がそれぞれに笑ったところで、ディーナが数分前のマリースと同じように顔を覗かせた。マリースのように誰をも魅了する笑顔ではないが、温もりのある、家庭に相応しい主婦の笑顔だった。
「ちょうど支度できたの。大したものではないけど、お夕飯食べて行かないかしら?」
マリースから果物籠を受け取りながら、ディーナはナフムに尋ねた。
ナフムはジェレミアと、テーブルに広げられた記録にちらと眼を向けた。親しい人から夕食に誘われて断るのは、この国では特別な理由が無い限り避けるべき事柄である。記録は滞在中に纏めたものを代表者が所持しているから、慌ててやることは残っていない。そして、一人暮らしの彼にはこの時間に家に戻ったところで食事の当てもない。家主に文句を言われなければ断る理由は見つからなかった。
立ち上がってディーナを向いて、ナフムは胸に手を当てた。
「では、ご厚意にあやかります」
「もういい時間だ。腹減ったろ。さっさと食おう」
ジェレミアがよしと頷いて、灯りの傍に広げていた調査記録を閉じてナフムに差し出した。彼がそれを鞄にしまうのを見届けてから、先に戻った母と弟妹を追いかけて食卓へと向かう。
同僚を背後に短い廊下を歩きながら、母の言葉とブランヘアックからの土産で学者らしさを取り戻した頭で、ジェレミアは考える。
――一晩。焦らず急ぎ、落ち着いて一人になったところで一晩かけてすべてを整理し、必要な手順を弾き出す。あの場所についてを詳細に思い出し、調べ、探り、辿りついてみせる。
その先で見るのがどんなものであろうと、諦めることだけはしないつもりだった。たとえ他の人々には望まれずとも彼が望むのだ。
ジェレミアの記憶に住む名も知れぬ人は、彼の弟妹のようには笑わない。何かを抱えた美しすぎる顔で笑う。そしてジェレミアを引いた手を離し、選ぶ権利があると言った。忘れろとは言ったがそうも告げた。ジェレミア・オークロッドは選んだ。
廊下を進んだ先では、彼の家族が料理を食卓に並べて待っていた。父が欠けていても明るく、幸福な家庭。そこに友も加わる。魔物が飛ぶあの地とは正反対の、この上なく温かい風景だった。帰るのは此処であると母はジェレミアに言った。ジェレミアもそのつもりで、捨て去る気など毛頭ない。
彼は今貪欲に、すべてを掴むつもりでいた。




