Case1
少女は逃げていた。背後から確実に迫ってくる狂気に怯えながら。深夜の路地を突き進んでいた。
彼女は脚を身体に染み付いた動きに添って動作させながら、なぜ路地が一向に終わらず大通りに、そも誰一人人間らしい人間に出会わないのかを、泣きながら吐き出した。なんで、誰もいないの!
「ココはキミとボクの世界だからだよ」
虚空へ消えるはずの問いに答える声。彼女の脇腹から影が突き抜ける。異形の腕が影を纏い、若々しい女性のハラワタをかき回して引き抜かれる。
「いぎっ――」
子を産んだことのない女性が、それ以上の激痛を初めて感じた瞬間、狂乱の声が空間へ投げかけられる。黒々とした影に覆われたヒトガタに近い獣が、引き摺り出したハラワタを咀嚼する。
柔らかい音と叫び声が混ざる。
「いや、あ、中身、出てる……」
いよいよ血が止まらない彼女は混沌とし出す意識に合わせ、無い横腹をあさり溢れだす血を叩く。
影の獣は異常に長い腕を伸ばし、果たして女性の心臓をえぐり出そうとするが、瞬間、壁に叩きつけられる。
「遅かったか」
左手に月光を反射し銀色に輝くナイフを持ち、ドロップキックを影に叩きこみながら出現したのは淡白な顔の男性。長い外套を広げ既に意識のない女性を抱えると、ビルの壁面を蹴りあげ一瞬で屋上まで到着する。
そこには既に同じような服装をしたタバコを咥えた女性が居た。男性は抱えた少女をゆっくりと下ろし、駆け上がってきたビルの谷を見た。
號ッ!
獣が闇を切り裂きながら中空へ駆け抜ける。覗き込んでいた男の外套が切り裂かれ、僅かばかりの血が奈落の闇へと落ちる。
「さあて、狩りの時間だ」
獣は翼を広げ、影をその両翼より吐き出しながら「赤い空」に浮かんでいた。男は見上げながらナイフを逆手に持ち直し、跳躍する。
獣は長い腕を動かし男を突き穿とうとするが、それは小さなナイフに衝突し勢いを殺される。
男の跳躍の勢いは死ぬことはなく、というわけでもなく速度は落ちる。が、まるで空に大地があるかのように中空を踏みしめ、横にスライドする男の身体。
「そら!」
大空を踏みしめ、大振りだが速度のある回し蹴りを獣の腕へと叩きこむ。影から苦痛のような叫びがあがる。
それを好機とみたか男は更に迫撃をかける。身体を大きく動かし遠心力を利用した体術を幾度となく叩きこむ。獣はどうにか失墜することは免れているが、いよいよ男が翼へと迫る。
「墜ちろよクソ犬!」
手にした刃で今の際まで黒い粒子を吐き出し続けていた翼を僅かばかりか切り裂く。血が流れることはなく、獣からは黒い何かが吹き出される。翼を傷つけられた獣は確かに高度を下げ始めていたが、それでも抵抗をやめることはなく、男へと襲いかかろうとする。
彼はそれを踵落しで封殺し、果たして今度こそビルへと落下していく。男は少しタバコを咥えた女を見下ろし、何も言ってこないのを確認した後、ナイフを垂直に投げて手袋を打ち捨てる。
外気に触れた左手は中指から手首にかけて赤い文様が穿たれ、脈動していた。
「そら、殺したいんだろ」
降りてきた白銀のナイフを再び左手でつかみとり、墜落していく。赤い空に浮かぶ白光の月に照らされ、自由落下する男の手に煌く銀色の軌跡が描かれる。男は残酷な笑みを浮かべながら獣に向かって落下していく。
獣は既にビルに叩きつけられながらもどうにか腕を伸ばし、叫びを上げた。纏っていた影が爆ぜて腕の前に収束し壁のようになる。男はそれを見ながらも尚落下を止めない。
「ハッハァ!」
そうして白銀の軌跡を実際の刃の様に固定化されていることに獣は気が付かなかった。小さなナイフは今や十メートル以上もある刃を持った凶器へと成っていた。金切り音をあげながら銀が振るわれる。闇の壁は刃を阻むことはできず、ビルを大きく切り裂きながら獣を一文字に断つ。
「クソクソク――」
獣が左右に徐々に歪み声が消えていくのと同期してか、赤い空が砕けていく。
そして世界が崩れていくのと同時に息絶えていた女性の肉体も硝子が砕けるように消失しようとしていた。その砕けゆく肉体に黒い女性はタバコの火を消し、黙祷を捧げように俯き、蹴りあげた。衝撃が崩壊していく女性を完全に消失へと導いた。
男は刃で切り裂かれたビルが、逆再生されるように復元される様を見届けてから、刃が腐食していくナイフを元の闇夜と混ざりゆく、赤い世界に捨てた。
「使い捨てはコスパが悪いんだよな……」
赤い世界に取り残されたナイフは消失していく。
帳の後ろに身を潜め、陰にして在。我は力を持った魂であった
Behind a veil,
unseen yet present,
I was the forceful soul that moved this mighty body.
―― ジャン・ラシーヌ