晴天、雨降り
高校に上がってすぐに、とても仲の良い男の子ができた。彼の名前は佐倉ゆういち。髪の毛が茶色くて、背が小さくて、いつもにこにこ笑っているおバカさんだった。
彼とは入学したその日に初めて会話をした。私のひとつ前の席に座っていた彼は、唐突にこちらを振り返りおかしな質問をしてきたのだ。
「カリフラワーとブロッコリーの違いって解る?」
突然のキチガイな質問に、勿論私は眉間にしわを寄せた。だけどそんな私をもろともせずに、さらに彼はおかしな質問を続けてきて。
「あと、ウィル・スミスとボブ・マーリーの違い。わっかんなくね?」
その質問に、確かにそれは難しい。なんて思いながらも「こいつは頭がおかしいのだ」と納得し、かかわらないほうがよさそうだと思ったのだけれど。次の瞬間には「俺佐倉ゆういちね。よろしく」なんて人懐っこい笑顔とともに挨拶をされてしまい、思わずよろしくとつぶやいた瞬間から、私は彼の話し相手になってしまったのだ。
それから、なにかあるごとに彼は私に話しかけ、気づけば私も彼に話しかけるようになっていた。他にも友達は男女問わずたくさんできたけれど、何故か彼と居るのが一番楽だった。
それがゆういちの気さくな性格のためなのかどうなのかは解らないけれど、私たちは男女という性別の隔たりも関係なしに親友と言えるほどの関係を築き上げていて、 お互いの家に遊びに行くのは当たり前だし、気がつけば他の子には言えない悩み事なんかも簡単に打ち明けられるような仲になっていた。
だからこそ、私のゆういちへの思いがいつのまにか世間一般の友情とは違うものになってしまったことに気が付いたとき、私は愕然とした。この関係を壊してはいけないという危機感から、悪いことをしてしまった子供のように縮こまって、必死に自分の気持ちを否定しようとしたのを覚えている。
それに気付いたのがいつっだったのか、今となってはもう覚えてはいない。だけどきっと、それなりに昔のことだ。ひょっとしたら会ってすぐに彼への恋をしていたのかもしれないし、 それか長い間一緒にいるうちに、ゆっくりゆっくりと気持ちが変化していったのかもしれない。
詳しいことは自分でも解らないけれど、きっとゆういちとその彼女が付き合っている期間よりは、ずっと長い片思いをしていたのだと思う。
しかしながらあの陽気なお馬鹿さんは、こんな私の気持ちなんてひとかけらも知ってはいないのだ。
放課後。
久々にゆういちと一緒に帰る約束をしていた私は、授業が終わってすぐに彼の教室へと向った。出会った高校一年生の時は同じクラスだったのに、あまりにも仲が良かったせいか私たちは高校2年生のクラス替えで別のクラスにされてしまった。
もちろん新しいクラスにはゆういち以外の友達も居た。しかしながら彼の居ない教室は私にとっては味気ないものでしかなかった。
何処に視線をめぐらせてみても、彼の姿はない。前を見ても後ろを見ても、横を見ても、このクラスのどこにもゆういちはない。傷んだ茶色い頭の、忙しなく動き回っているおちびさんの姿が見えない。
その現実を知る度に私は物足りなさを覚えて、そのたびに私は今すぐにでも隣のクラスに行って、彼の隣の席を陣取ってくだらない話が出来たらどんなにか素晴らしいだろうと、そんなバカな考えを抱くのだ。
それが私の秘めた恋心だ。こんなことを暴露した日には、皆が私のこと「今更そんなこと言ったってどうにもならないだろう」って鼻で笑うのだろう。
途方もないことを考えながら教室を覗き込むと、そこにはほうきを持ってダラダラしているゆういちの姿があった。
どうやら掃除当番だったようだ。だけど「やりたくないことはしたくない」彼らしく(一言でいえばただのわがまま)、決して真面目に掃除はしていない。その姿に思わず笑うと、私の姿に気付いたらしいゆういちが大きな口をいっぱいに開いて笑いながら近づいてきた。
「ゆういち、ちゃんと掃除しなさいよ」
「やだよ、めんどくせぇ。どうせ明日になったらまた汚れるんだし」
「こういう人間が世の中をダメにするんだわ」
「うるさい」
お互いに罵り合いながらも、楽しくってクスクス笑ってしまう。だけどそのうちゆういちのクラスの担任が近づいてきてパシリと彼の頭を叩いたものだから、驚くゆういちをよそに私はより一層笑ってしまった。そんな私に一発蹴りを入れて、ゆういちはしぶしぶほうきを動かした。こんな関係が愛しいと、心底思う。
掃除当番が終わるのを教室の前で待っていると、ばたばたと賑やかな足音を立てながら、掃除を終えたらしいゆういちが駆け寄ってきた。そんな姿に、焦る必要なんか無いのにと思う。
思わず笑うと、ゆういちもつられて私以上に笑った。大きな口とか、子犬みたいな丸い眼が本当に好きだと思う。
「じゃあ、帰りましょうか」
「おう。またせてごめんな」
「いいわよ、一緒に帰るの久しぶりだし」
「へへへっ」
あぁ、その笑い方。この笑い方が本当に好きだなあと、そう思う。何故ってそんなの、特に理由なんてない。いたずらっこみたいにニッと口を開いて、かわいいと思う。本人に言ったら「可愛いとか言うな」って怒られるんだろうけれど、少年じみたその顔も声も時折見せる真面目な様子も、全てがすべて愛おしいとそう思わずにはいられない。
彼が笑うとうれしくなる。つられて私も笑ってしまう。そう思うたびに、おかしいなぁと思う。中学の時、私はこんなに笑う女じゃなかったのだ。
いつもツンケンして、男の子なんてどうでもよかった。何度か告白はされたけれど、興味はないし告白してくる男のこの気持ちもわからなかった。人を好きになるということが、私には難しいことだった。
だから中学時代のクラスメートが今の私を見たらきっと驚くのだろう。男の子と一緒にいるからじゃない。こんなによく笑い、人を好きになっているからだ。
そんなことを考えながら、さほど身長の変わらない真横の男を盗み見る。高一の時よりは背が伸びたし、日にも焼けたなぁと思った。そんな変化に気づくことすら嬉しい。
全部全部自分のものにできたらいいのにと、そう思った。だけど同時にそれが叶わないことだって言うのも解っていはいた。私は彼の親友でしかないのだ。
「あ、そういやゆりこ、お前もこれ食う?」
「なに?」
返事をしながらゆういちを見れば、ガサゴソと汚い鞄の中を漁ってなにかを探しているようだった。
食う? って言われたからには食べ物なんだろうけど。いったいなんなのだろう。そう思いながらゆういちの手元を見ていると、現れたのはピンク色の可愛いらしいラッピングだった。甘いにおいが花咲をくすぐる。中にはどうやらクッキーが入っているようで、私は思わず眉をひそめてしまった。
「……誰から?」
「彼女がくれた。手作りらしーぜ」
あぁ、もう、どうして私は解りきっていることを聞いてしまったのだろう。思わず心の中で舌打ちしてしまう。
こんな可愛いラッピングのされたクッキーを、彼女以外に誰がゆういちに渡すと言うの。私だってこんなに可愛いラッピングで渡せやしない。
だけどそんな私の心も露知らず、ゆういちは嬉しそうにピンク色の袋の中に手を突っ込んで、クッキーを一かけ摘み出した。中から現れたそれは可愛いうさぎの形をしたもので、美味しそうなそれに激しく嫌悪感を抱いてしまう。
彼女の、手作りクッキー。
それを見ながら、ボンヤリと「あの子」の顔が思い浮かんだ。私と違ってたれ目がちでショートカットの、背の低い女の子。
話したことはないけれど、風のうわさで相当ないい子なのだと聞いたことがある。一言でいえば「THE女の子な性格の子だよ」であるらしい。料理が得意で、体育が苦手。大きな目が小動物のようで、男子の間でそれなりに人気の高いこらしい。本当に典型的な女の子だなと、それを聞いたとき私は思わず鼻で笑ってしまった。きっと私のようにこのおバカさんの頭をたたくことも、暴言を吐くこともしないのだろう。
そんな彼女がおそらく愛をこめて作ったであろうクッキーを美味そうに嬉しそうに食べるゆういちを見ながら、私は泣きそうになってしまった。
必死に涙を堪えている私を、誰か「健気だね、優しいね」って励ましてくれないかなぁ。なんて思ってみたものの、励まされたところでどうしようもないことなのだということは分かっていた。
それに私は、優しい人間なんかじゃないのだ。
「ゆりこー、食わねぇの?」
ハイ、とさも当たり前のように、ゆういちが私にクッキーを差し出した。
……これを私に、食べろと? あんたのことが好きでたまらない私に、彼女の手作りクッキーを食べろっていうの?
なんて純粋な顔で、残酷なことをするのあんたはと、そう思ってしまった私を、世の中の人達は今度は最低だと罵るのだろうか。
「……いらない」
掠れそうな声でそう答えると、ゆういちが不思議そうに首を傾げながらクッキーを食べた。「ダイエット中?」なんて、とんでもない見当違いだ。身体測定ではいつも痩せ気味と言う数値が出る私ににダイエット何て必要なもんか。あなたの彼女がうらやむような体型を私は持っているのよと、この何も考えていなさそうな愛おしい男の頭に叩き込んでやりたい。
サクリサクリ。小気味良い音が耳に残る。聞きなれていたはずのこの音がトラウマになりそうだと思った。せっかく今日は久しぶりにゆういちと一緒に帰ることを楽しみにしていたのに、今じゃ気分は最悪だった。
前はいつも2人で一緒に帰っていたのに、いつからだろう。ゆういちに彼女が出来ると、私は極力彼と一緒に帰らないようになった。
ゆういちと彼女と家の家の方向は違うから、二人が一緒に帰ることはなかったのにどうしてか彼と帰りたくなくて、忙しいだのなんだのと理由をつけて帰らなくなった。
でも、解らないふりをしていたけれど、きっと2人きりの空間でゆういちの口から彼女の話を聞きたくなかったのだと思う。私はいつだって、ゆういちと2人きりでバカみたいな話をして盛り上がっていたかっただけだ。恋をする前も、した後も変わらない。ただ一緒に居たかった。だけど彼の口から女の子の話を聞くのだけは、私には耐えがたいことだった。
だけど今日は、どんな気まぐれか久々にゆういちと一緒に帰りたくなって、朝メールをして一緒に帰ることになったのだけれど。
それがまさか、こんな思いをすることになるなんて。解っていたら誘わなかったのになと思う。彼がクッキーをもらう日が、なにも今日でなくて良かったのに。
そう思ったところで今更後悔しても遅い。その事実に落胆している私をよそに、追い打ちをかけるように、ゆういちが呟いた。
「マジ美味ぇ。つかこれ、1個1個形違ぇし。あいつスッゲーなぁ」
感嘆としたその声に、私は傷ついたのだろうか。憤ったのだろうか。悲しかったのだろうか。憎らしかったのだろうか。不意にそう思う。
自分でもわからない気持ちがふつふつと胸の内を渦巻いて、気がつけば私はとんでもないことを言っていた。
「バカみたい」
独り言のように吐き捨てたその一言に、ゆういちが「えっ」とマヌケに聞き返す。目を合わせれば、私が今なんと言ったのか解らないというような顔をしていた。
その無防備な幼い表情にも、私の胸の中を渦巻く何かがドクリと大きく脈を打つ。言葉が止まらなかった。
「そんなの、私にだって作れるわよ」
「……なに、お前……なんか機嫌悪ぃの?」
俺、なんかしたっけ? なんて吐かれるその言葉に、私は切れてしまうんじゃないか、っていうくらいに唇をかみしめて。そしてその唇からこぼれた言葉はと言えば、
「あんたの彼女、かわいくないわ」
とんでもない暴言だった。
瞬間、ゆういちの手から食べようとしていたクッキーが滑り落ちた。ポロリと、アスファルトに転がった。その映像がスローモーションのように見える。
ねぇ、いいの? あなたが嬉しそうに食べてたクッキー、地面に落っこちてるわよ。
冷めた頭でそんなことを考えながらゆういちを見れば、驚いたようにただ目を見開いて私を見ていた。大きな目がこぼれ落ちそうだと、そんな場違いなことを思う。そしてそんな風に目を見開くゆういちの姿が妙にマヌケに見えて、私は思わず小さく笑ってしまった。そんな私を見て、ゆういちがハッとしたように息を飲む。
それからだんだんと、ゆういちの頬が怒りのために赤く染まっていった。彼の癖だ。彼は怒りを抑えることができない人間だった。ちょっとした言葉にも、彼はすぐに傷つき怒りをあらわにしてしまう。今回の出来事は明らかに私に非があるので、ちょっとしたことと受け流すこともできなかったが、それでもそんな風に簡単に怒りを表すことが出来るゆういちをうらやましいと、そう感じた。
「……お前、今、なんつったの?」
震えた声で問いかけられても、どうしてか私の心は冷めたままだった。自分の感情が解らない。私は今、怒っているのだろうか。それとも悲しんでいるのだろうか。それとも何も感じてはいないのだろうか。
ただただ言葉がこぼれた。
「別に。……ねぇ、いいの? クッキー落っこちてるわよ。大事なんでしょ? 食べてあげたら?」
「っ!」
自分でも信じられないほどに冷静かつ最低な言葉が音になる。聞いたことのない自身の声音を聞きながら、私という人間はこんなにも恐ろしい奴だったのかと初めて思った。
そんな私を前にして、一瞬ゆういちの表情から怒りが消えた。それからその目はただ泣きそうにクシャリと歪み、まるで縋るような色を含みながら私を見つめた。
怒り以上に悲しみを湛えたその表情に、締め付けられるように胸が痛んだ。親友であり想い人である人物を傷つけているのだという現実が、ひどく苦しかった。
私は基本的に性格がよろしくないけれど、本気で誰かが傷つくようなことを言ったことはこれまで一度もなかった。それに比べてゆういちは子供で素直でおばかさんだから、ちょっとしたけんかをするとすぐに暴言を吐きちらかす。だけどそんなゆういちに対して私はいつだって冷静で、売り言葉を買ったりもせずに彼の気が静まるのを待っていた。いつもいつも、どんなにゆういちの方が悪くても私の方が折れていたのだ。そうすれば冷静になった彼も「さっきのは本気じゃないんだ」って、謝らずとも必死に弁解をしてきて、またいつもどおりの日常を送れるようになることを知っていたのだ。
それなのに、どうして、今。数秒前に自分が口走った言葉を思い出してめまいを感じた。何故私は故意にゆういちを傷つけようとしているのだろうと、疑問を抱く。しかし傷つく彼を心のどこかで臨んでいたような気もした。自分の心が、解らなかった。
「……なんで、お前、そゆこと言うわけ……?」
……なんでですって? ねぇ、私自身解らないわ。私はきっと、怒っているの。悲しんでいるの。苦しんでいるの。
どんなに頑張っても手に入らないゆういちに対して、いとも簡単にゆういちを手に入れた彼女に対して、そしてそれ以上に、あなたに思いを伝えられずにいる、私自身に対して。
だけど、ねぇ、でもきっとそれ以上に……。解らない思いが、更に大きくなる。
「……さぁね」
答えられなくてそう吐き捨てると、藤原が眉をひそめて歯を食いしばった。その表情を見て、殴られるのだわと、そう思った。だけどそれは私がもし男だったらの話で、幾らおバカさんな彼であろうとも、女の頬を殴るようなまねはしないのだと知っていた。
だけどその代わりに吐き出された言葉が、殴られることよりもはるかに大きな痛みを伴って私に降り注いだ。
「さいていだ、」
「、」
「……お前なんか、もう、知らねぇ…っ」
「……」
「バカヤロウっ」
掠れた声で苦しそうに言いながら、ゆういちが走り去っていった。取り残された私は振り返ることも出来ず、当然後を追うことも出来やしないで、ただ呆然と立ちつくしていた。
お前なんかもう知らねぇ、ですって? 耳に残る言葉が反芻される。唇を強くかんだ。
初めから、なにも知らなかったくせに。思わずつぶやいていた。
ねえ、あなたは一体、私の何を知っていたというの。
一つだって知らなかったじゃないと、そう思う。私があなたの彼女を見て怒りを覚えていたことも、 あなたがが彼女の話をする度に胸を痛めていたことも、ずっと必死にその気持ちを隠していたことも。そして、もうだいぶ前からあなたのことが好きだったことも。
何も知らないじゃない。何も解ろうとしてくれなかったじゃない。
ただ私を女の子の中で一番仲がいい女と決めつけて、親友として扱って、喧嘩をしてもゆるしてくれる相手だと決めつけて。本当はいいやつだとか、そんなことも……。
でも、ねぇ、私はこんなにも酷い奴だったんだって、今さっき気付いたでしょう? 気付いて愕然としたでしょう。ずっとずっと前から、私は「ゆういちと彼女が別れますように」なんて祈っている酷い人間だったのに。
不意に、地面にポタリと滴が落ちた。
驚いて空を仰ぎ見る。雨でも降っているのだろうかと思ったのに、空は嫌味なほどに晴れ渡っていた。そうして初めて気がついた。私は今、泣いているのだ。だけどこうして泣いている私のことにも、ゆういち、あなたは気付いていないのでしょう。
そう思うとより一層胸の痛みは激しくなり、私はしばらくその場に立ち尽くしたまま、アスファルトに沁みこんでいく涙の痕を眺めていた。
次の日。朝起きてまず一番に考えたのは学校へ行くか否かだった。とりあえずボーっと考えているのもなんだからと、ベットから抜け出し朝飯を食べながら行くか行かないかを考えた。 結果、いつも通り学校に行くことにした。
普段あまりサボったりしないので、一日くらい学校をサボったって出席日数には問題なかった。放任主義な母親は娘が学校を休んだところで口やかましくとがめることもしない。にも関わらず学校へ行くことを選んだのは、休むことに意味などないことに気がついていたからだ。
どうせ学校に行ったところで今日ゆういちは絶対に私の前に現れない。私に会わないようにとずっと教室にひきこもって、たとえすれ違ったところで見向きもしないに違いない。喧嘩したときのゆういちは、私が折れて謝るまで目さえも合わせようとはしない強情っぷりを発揮する。それなら学校を休むことなんてまったく無意味なことであるに違いない。むしろ部屋のベッドの中で悶々と彼のことを考えるよりは、つまらない授業を聞き流すことの方が幾らか賢明なことのように思えた。
そうして学校に行ったのだけれど、案の定、お昼を過ぎても学校内でゆういちと会うことはなかった。
「……バカみたい……」
ポツリと独り言を漏らすと、「えっ?」と聞き返しながら、前の席の男子が振り向いた。髪が短くて、健康的に日焼けをしている背の高い男の子だ。バスケ部に所属しているらしく、運動全般が得意な彼は顔だってとても格好いい男の子だった。
だけど自分がこんな格好いい人を前にしても自分が胸をときめかせたりしないことは解っていた。なぜなら間抜けな私はどんなに腹を立てようが悲しもうが、あのおばかさんのことしか見えてはいないのだ
「佐々木さん、何か言った?」
「んー? ……独り言」
「ふうん」
「気にしないで」
そう言うと、その子は切れ長の目をパチクリさせながらも小さく笑った。その姿を見て、私がもしこの人を好きになっていたとしたら、こんな気持ちになることなんてなかったのかもしれないなぁなんてぼんやりと思った。
そうして不意に、どうして私は、それが出来なかったのだろうと不思議に思った。どうしてゆういちだったのだろう。沢山の男の子がいるこの教室なのに、なぜ誰よりも近しい場所にいた親友のことなど好きになってしまったのだろう。そしてまた、どうしてゆういちが好きになった子が私の知らないあの子だったのだろう。
考えて、泣きそうになった。そうして思う。ひょっとしてこれは何かの間違いだったのだろうかと。
10、20と年を取った頃に「私、親友の男の子に恋してたのよ。しかも彼は彼女もちだった」なんて笑い話に出来るような、そんな一時の感情でしかないのだろうかと。いつかは消えてなくなる、気の迷いのような淡い恋心なのではないだろうかと。。
そう考えて、思わず鼻で笑ってしまった。そんなはずはない。そんな恋なはずがない。だってそれなら、私はこんなにも他人のことで悩んだりしない。
好き。好きだ。ただ、ゆういちのことが。親友の、あの背の小さなおばかさんのことが。それがどうして、こんなにも難しいのだろう。五時間目のこれっぽっちも面白くない国語の授業を受けながら、そんなことを思った。
私が彼の一番仲のいい女であるばっかりに、彼を好きな女の子が現れてしまったばっかりに、どうしてこんなにも世の中が不条理に見えるのだろう。
昨日抱いていた怒りが、悲しみが、急激にしぼんでいく。そしてそれと同時に、また訳の解らない感情が蘇った。
ゆういちが彼女のクッキーを美味そうに食べていたあの時の、あの感情、あの言いようもない胸を締め付けたあの感情がよみがえる。あの時私は、どんな気持ちだったのだろう。
不意に、ポタリと音がした。目を見開く。だけど視界は歪んでいて、あぁ、これは、なに? ポロポロポロポロ、何かが頬を伝ってる。そしてそれが机に落ちて、小さな水たまりを作った。
雨? 雨漏り? そんなまさか。でも、じゃあ、これはなんだっていうの?
あぁそうか、私、また泣いているのね。
気付いた途端に、制服の袖で顔を拭って立ち上がった。ガタリと椅子が鳴って、みんなが振り返る。教師が不思議そうに首を傾げた。
「佐々木、どうした?」
どうした、ですって? あぁ、うん。やっと解ったの。2度目の自分の涙を見て、ようやく解ったことがあるの。
「…保健室、行ってきます」
そう言って、教師の言葉も聞かずに教室を飛び出した。名前を呼ばれたけれど、振り返らなかった。
教室を出て、その途中にゆういちのクラスをチラリと見る。すると、あぁもう、なんでなのかしら。ボンヤリと廊下を眺めていたらしいゆういちと、パチリと目があってしまった。一瞬のことでよく解らなかったけれど、多分、きっと、彼の目が大きく見開かれたと思う。
だけどそんなことにも構わずに、顔を背けて走り出した。でも何処に行けばいいだろう。やっぱり屋上かしら。吹きさらしの風が、私の涙を乾かしてくれれば良いのだけど。
走りながら、思った。
私はあの時、怒っていたわけでも悲しかったわけでもない。ただひたすら、切なかったのだ。叶わない恋心を思って、胸を痛めていたのだ。
バタンと音を立てて、屋上の扉を開いた。真っ先に目に入ってきた青い空に目眩がする。だけど思ったより風はなくて、あぁもう、こんなんじゃ私の涙はきっと乾かないわと残念に思った。
苦笑しながら、ドサリと地面に座り込んだ。制服のスカートに砂がついたけれど、そんなの気にしていられなかった。ただ何をするでもなく、ただボーッと空を見上げてみる。
この空と同じくらい、全てに対して寛大でいられたなら。そうしたら、すくなくともあんな本心とも知れないくだらない暴言でゆういちを傷つけずにすんだのに。私は自分の恋心を胸の奥底にしまって、子供みたいなゆういちとその可愛い彼女の恋の行方を応援できたのに。
だけどそんなことを考えたところでもうどうにもならないと解っていて、私はもう一度笑った。もう、どうにもできやしないのだ。
いろいろと考えながら、青空に浮かぶ雲の形を眼で追っていると、不意に物音がした。パタパタと、誰かが階段を駆け上がる音。それが誰の足音かどうしてか解ってしまって、私は慌てて涙を拭いた。
ガチャリ。扉が、開く。
「……ゆりこ……」
名前を呼ばれて振り返れば、あぁ、予想通り。そこには目を真っ赤に腫らしたゆういちが立っていた。男のくせにみっともないだなんて、そんなことも思えない。むしろ私とのことで泣いたのかと思えば、更に愛おしさは募るばかりだった。そんな自分にも嫌気がさす。私はこれから先どれだけの期間彼を想って胸を痛めるのだろう。途方もない夜を涙をこらえてやり過ごすのだろうか。そんな未来しか、私にはないのだろうか。
「………」
思わず立ち上がるも、言葉はでなかった。なにを言えばいいのか、どんな顔をすればいいのか解らない。だけどそんなあやふやな脳みその中でただ思う。どうしてあなた、ここに来たの? と。そう思った瞬間に、私は唇を噛みしめていた。
そんな私を見て、ゆういちの顔がクッと歪む。どうしてそんな顔をするの? もう知らないって、そう言ったのはあなたのくせに。
堪えきれずに俯いて、ゆういちに背を向ける。一歩二歩と進んで、更にゆういちから遠ざかってみると、 慌てたように後ろから足音が聞こえてきた。ねぇ、どうして私を追ってくるの。
「……なぁ、ゆりこっ」
「っさわんないでよ!」
「っ!」
進むごとに足音が早まって、とうとうゆういちに腕を掴まれた。とっさに振り払うと、彼が息をのんだのがわかった。そうして気づく。この腕を私が振り払ったのは初めてのことだった。いつだって振り払われるのは私のほうで、その腕をひくのも私だった。
そうして記憶がめぐる。怒りを携えて、背を向けて歩き出すゆういちの腕を何時だって私は引っ張った。行かないでと、そう思いながら。だけどそんな私の願いを力任せに彼は振り払って、いつだって聞き分けのない小さな子供みたいに拗ねていた。
そんな今までを思い出して一瞬懐かしさがこみ上げる。しかしすぐにその懐かしさは影をひそめた。
ねえ、つかんだ腕を振り払われるその気持ちがあなたにもわかったかしら。離れていく背中を追いかける気持ちが、あなたに少しでも理解できたかしら。
重いとともに頭の中は煮えたぎりそうなほどに熱くなっていく。いいや、違う。全身が熱い。痛い。苦しい。私は今、まともな思考回路が働いているのだろうか。きっとそうではないと思う。鼻の奥が熱い。泣きそうだった。
「……あんた、なんなわけ? なんで私に、話しかけてるの?」
じりじりと痛む鼻孔に堪えながら、呆然と私を見つめているゆういちに問いかけた。問いかける声がバカみたいに震えて掠れて、頭のどこか冷静な一部が、なんて自分はみっともないのだろうと呟いた。
「ゆりこ……」
その声にもイライラする。愛おしいはずのその声に、切なかったはずの思いが一気に怒りと悲しみに変わる。
ねぇ、あんた、なんなの? 睨み付けるようにゆういちを見ると、一瞬にしてその表情が泣きそうに歪んだ。そんな顔は止めてちょうだいと、そう思う。ずっとずっと、泣きたいのは私の方よ。
「なんで……なぁ、ゆりこ、お前……」
……なんで、どうして、なんでなんで。
そんなの、こっちが聞きたいわ。私だって、解らないことが山ほどある。自分のことだって、ゆういち、あなたのことだって解らないことだらけ。それなのに、そんな私に向って質問するのはやめてちょうだい。
私は切なかった。悲しかった。そして心底憎らしくて、妬ましかった。
あなたが嬉しそうな顔をして「彼女ができた」といったその日、まるで死刑宣告でもされたように全身から血の気が引いたのを覚えている。
どうして? って。一番仲が良くて、一番一緒にいたのは私だったのに。あなたが一番見ていたのも、私が一番見ていたのもお互いだったはずなのに。それなのにどうして、私の知らないような女の子の所へ行ってしまったの、私の知らないところで、その子とも仲が良かったの、って。
ちっぽけな独占欲だと笑えばいい。それを私は否定したりしない。何故なら私たちはただの友達だったのだから。私が知らない彼のことがあってもおかしくはないのだ。だけど私は、その現実が許せなかった。
私はあなたが彼女の話をする度に、今感じている鼻の奥の痛みをいつだって感じてた。いつだって切なくて、泣きそうだった。ポロリと出てしまいそうな本音を隠すのに必死だった。
それが昨日、あの時、ああいう形で溢れてしまった、ただそれだけのこと。
でも、それならばゆういち、あなたは何だというの。私を睨みつけて、もう知らないって、さいていだって、バカヤロウと罵って背を向けたのはあなたのほうなのに。それなのに、どうして落ち込んだりするの。今まで謝ることも出来なかったあなたが、どうして今更そんな泣きそうな顔をしているの。
親友だから? 私のことを信じていたから? だったら今すぐ、あなたの中の過去の私を、今の私で塗りつぶしたらいい。あなたの中の許すことも謝ることもできて、酷いことなど一つも言わなかった物わかりのいい私を、今すぐこの醜い私に塗り替えてしまうべきだ。醜いだけの私で埋め尽くしてしまえばいい。
考えながら、拳を握りしめた。掌に爪が食い込む。その痛みさえも、胸の痛みに比べれば甘いものだった。
やめてちょうだい。そう思う。もうこれ以上、こんな思いをさせたりしないでと。だって本当は嫌でたまらないのだ。こんな自分が大嫌いでたまらない。
いつだって嘘をつき続けていたかった。汚い心を隠して、あなたに笑いかけて、許せる女でいたかった。優しくすることができなかったとしても、酷いことを言うこともしない女でいたかった。ただただ純粋に、ゆういちと一緒にいたかった。あなたの一番でいたかった。ただそれだけだったのに。
だけど、もうそれが無理なのだということも解っている。一度漏らしてしまった本音を再びしまい込むことは出来ないのだ。もう、嘘をつくことが出来ない。私はゆういちのことが好きで好きでたまらなくて、だけど今はあなたが憎らしくてたまらなくて、この関係を壊したくなくて言えなくて、彼女が憎らしくて……。
「……好きな、だけよ……」
ポツリ。グルグルと色々な感情で渦を巻く胸の中から、一番言ってはいけない言葉が雨粒のように私の唇からこぼれ落ちた。かき消されそうなその声に、ゆういちが「え?」っと聞き返す。そんなゆういちを見て、咄嗟に思う。
今の言葉をかき消して、昨日のことを冗談にして謝ればすべてがなかったことになるのだと。だけど、もう、無理だった。
「私は、あなたのことが好きなだけ」
先ほどよりもずっとはっきりしたその言葉に、ゆういちが大きく目を見開いた。その表情に、心臓がえぐれたように痛む。このままばらばらになって死んでしまえたらいいのにと、そんなことを思った。だけど自分の言葉にそのような力はない。止めることのできない本心だけが、雨のようにぽろぽろと音になった。
「……ずっと、思っていたの。なんで? って。どうしてあの子なのって。私の方がずっと一緒にいて、ずっとあなたのこと知ってるのに。なんでなの、って」
初めてであったその日から今まで、くだらないことも真面目なこともたくさん話した。いろんな場所に遊びに行って、いろんなことをした。
出会った頃の私は、今みたいにゆういちに恋愛感情を抱くことはなかったけれど、それでも私の中で一番大事な男の子が彼なのだということは漠然と解っていた。そしてゆういちの中での一番大事な女の子も私なのだろうと、そう信じて疑わなかった。
いつだか友達の女の子に、「ゆういちとゆりこはいつかきっと付き合うよ」と言われたときは「さぁ今更どうかしらね」と興味なさげに呟いたけれど、自分でもきっとそうなるんじゃないかと感じていた。それくらい、私にとって彼はいて当たり前の存在だったし、大事な大事な親友で、大事な大事な人だった。
もしたった一人この世で最後の瞬間を迎える人を選べるとと言うのなら、間違いなく彼を選んでいただろう。少年少女であったころの日々を思い出して、一緒にくだらないことで笑い合って息絶えることができたのなら私はそれを幸福と呼ぶのだろうと、そう思える程度には彼の存在は私の中で重要な意味をはらんでいた。
それなのに、それがたった一人の女の子のせいで全てが難しいものになってしまった。
「……解らない、でしょう?」
「……、」
「楽しそうにあの子の話をするあんたを見て、別れればいいって、そう思ったこともあるの」
「――な、」
「だけどね、そう思う自分にさえ、嫌気がさしていたのよ。何もかもがいやだった。そのたびにいっそ自分からあんたのそばを離れればいいんだってそう思ったけど、ねぇ、今更できると思う?」
出来るわけが、ないのだ。例えクラスが違っても、それだけでは変わらないのが私たちの関係だった。事実私たちの友情は、ゆういちに彼女ができた後であってもとくには変わらなかった。遊ぶ回数こそは減ったけれど、相変わらず遊ぶ時は二人で遊んだし、たまには一緒に帰ったし、何よりそのことは彼女も公認だったらしいから、そうなれば今更もう離れる理由もなくて、たとえこの先ゆういちと彼女が分かれたとしても私たちの関係だけは何があっても変わることはないのだろうと、そう思っていたしゆういちも思っていたに違いない。
そんな素晴らしい関係を築けていたものだから、全部全部、自分が悪いのだと、そう思ったこともあった。友人でいられれば問題はなかったのに、それ以上の感情を抱いてしまった私が悪いのだと。私がそんな感情を抱いたから、勝手に傷ついて二人の関係を妬んだりする羽目になったのだと、愚かだったのは私だったのだとそう思うたびに頭を抱えた。抱く感情はただの僻みであって、ゆういちもその彼女も一つも悪くはないのだ。道を違えたのは私だった。私だけだった。
「……なんで、好きになんてなったのかしら……」
呟くと同時に、じんわりと目頭が熱くなった。まずいなあと、そう思うも、もう手遅れだった。気がついた時には視界がにじんで、見慣れたゆういちの姿がぼやけてしまった。
「っ、ゆりこ……」
今まで、彼の前で泣いたことはあっただろうか。なかったと思う。どんなことも相談したけれど、いつもちっぽけなプライドが邪魔をして涙を見せることはなかった。いいや、むしろ泣くようなことはなかったのだ。ゆういちといれば楽しいばかりだったから。それがいつから、こんなにも涙をためる体質になっていたのだろう。
考えて、笑った。いつから、だなんて、そんなのわかりきっていた。彼があの子と付き合いだしたその日から、私は流せない涙の中で一人おぼれていたのだ。
「っ……ねぇ、バカみたい、私。今更あんたに好きって言っても、遅いのに。バカみたい」
そう言えば、グシャリとゆういちの顔が歪んだ。だけどその表情が意味する感情は、私にはわからなかった。
馬鹿な恋をしてしまった私が哀れだったのかしらと、そう思う。こんな感情を抱かれたことに嫌悪を覚えたのかしら。それとも、申し訳ないと、彼も自分を責めているのかしら。
どれも嫌だなぁと、そう思う。可哀そうだなんて思われたくない。嫌われたくもない。そして何よりも、こんな状態を招いたのはまぎれもなく自分自身なのに、あれほど彼を傷つけたのに、これ以上彼を傷つけることはしたくはないと、そう思ってしまう。
「…ねぇ、ごめん。好きになってごめん。こんなことが言いたかったんじゃないの。こんな目にあわせたかったんじゃないの。私はただ、ゆういちと一緒にいたかった」
あなたの一番で、いたかったの。自分の口からあふれ出る弱弱しい言葉に、今更ながら後悔の念が浮かんだ。本当に、取り返しのつかないことをしてしまった。
今にも泣きそうなゆういちを見ながら、私にできた最善の策は何だったのだろうと、不意にそう思った。早いうちから覚悟を決めて彼に告白することだったのか。彼に彼女ができた時点で、自分の思いを諦めることだったのか。それとも、ただひたすら思いを秘め続けることだったのか。
どうすれば、今まで通りの私たちでいられたのだろう。どうすれば、彼は私の横で笑い続けてくれたのだろう。ひょっとしたら、子供な彼のことだ。こんなことがあっても、明日にはまた私の隣で笑ってくれるのかもしれない。友達でいてくれるのかもしれない。
でも、そんなのはもう、私が耐えられないのだ。……じゃあどうすれば? ……そんなの、決まってる。
「……やめよう、」
「……、」
「もう、今までみたいに、できそうもない。一緒にいるだけであなたが好きだって、そう思うんだもの。だめだわ。もう、一緒にいられないわ」
「……、なに、いって……」
「だって、きっと、上手くいきやしないもの」
あなたと彼女が一緒にいるところを見るだけで、もうきっと、平静でいられなくなる。酷いことを言ってしまいそうになる。それくらい私は、もう心が擦り切れそうだった。
ボロボロ溢れてくる涙を拭いもせずにそう言うと、くっと、ゆういちが息をのんだ。今更ながらこんな泣き顔を見られたくなくてうつむけば、屋上のアスファルトにポタポタと涙がしみこんでいく。まるで雨みたいだと、ひょっとしたら私の上だけ雨が降っているのだろうかと、そんなバカなことを考えた。
「……なぁ、……っ、」
不意に、ずっと口ごもってばかりだったゆういちが口を開いた。切羽詰まったようなその声に、心から申し訳ないことをしたとそう思った。だけど、
「なぁ、……っ、、いや、だっ……」
彼の口から出たのは、「いやだ」という拒絶の言葉。一体何に対して? そう思う。私の想いに対して? そんなにも、私の思いは迷惑だった? ボロリと更に大きな涙が溢れ出る。もう、心が、折れそうだ。
だけど頭上からは、ズッと鼻をすする音が聞こえてきて。私はびっくりして顔を上げた。するとそこには私以上に、子供みたいにボロボロ泣いているゆういちの姿があって。
「……な、」
「いや、だっ、いやだったら、いやだっ……、バカやろー!」
驚いた次の瞬間には、とんでもない大声で罵声を浴びせられて。一瞬何も考えられなくなって固まったら、強い力で両肩をつかまれた。涙にぬれた茶色い目が、まっすぐに私を見つめている。悲痛な色を秘めたその瞳に、脳内がしびれた。
「俺は、やだかんな! お前がいないなんて、そんなのやだ、絶対やだ、やだ、いやだ!!」
それからまるで駄々っ子のように泣きわめかれながらがくがくと肩を揺さぶられて、一瞬思考回路が停止してしまう。だけどすぐに頭は回復して、ゆういちの言葉が反芻された。
嫌だ、ですって? お前が一緒にいないなんてそんなのやだ? あぁ、ねぇ、あんたこの期に及んでなんてひどいことを言ってくれるの。
だって、ねぇ、その言葉そっくりそのままあんたに返してやりたい。私がどれだけ嫌な思いしたか、わかんないでしょう? わかんないから、そんなこと言うんでしょう?
そう思ったとたんに目の前が真っ赤に染まって、気がつけば私は思いきりゆういちの頬を殴っていた。
「っ!」
「勝手なこといわないでよ!!」
殴りつけたと同時に声を荒げれば、ゆういちは真っ赤になった頬を片手で押えながら目を瞬かせていた。彼を殴ったのも、こんなに声を荒げたのも初めてだった。
頭が痛い。殴り飛ばした右手も痛い。自分が何を言おうとしているのか、自分自身でも見当がつかない。だけど胸の中には言葉があふれていて、そのどれもが本心なのだということだけは解っていた。
「なんでよっ、なんで一番近くに私が居たのに、他の子を選ぶのよ! やだっていうなら、私にしてよ! 私だってあんたが居なきゃ嫌なのに、それなのに、自分だけ、自分だけ他の子選んどいて、それなのにそんな勝手なことっ……バカは、あんたじゃない!」
ボロボロボロボロ、涙と同じ速度で言葉があふれていく。なんてみっともないのだろうと、顔が熱くなった。人生で一番の汚点だと、そう思った。
今まで胸の底に秘めてきた本音たちが、ヒステリックな泣き声と一緒にゆういちの耳に届いてしまった。そしてそれと同時に、自分の耳にまで。自分の叫び声を聞いて、沢山のことを理解してしまった。私は自分が思っている以上にずっと、ゆういちを好きで、そして彼に依存していたのだと。
それに、そう。なんで? って。本当に、ずっとずっと聞きたくて仕方がないこともたくさんあった。どうしてこんなにも私が近くにいたのに、他の子を選んでしまったの? って。
私にとって一番はゆういちなのに、どうしてあなたにとっての一番は私じゃないのって。聞きたくて、だけど到底聞けるはずもなくて、自分でさえ考えないふりをして。
そんな言葉たちが、自分の中で押しつぶされていた気持ち全てが音になってあふれてしまった。お互いの耳に入ってしまった。
それを自覚したとたんにどうしようもないほどの恐怖に襲われて、私は震えながら思わずその場にうずくまった。
「っ……、」
うずくまって泣きじゃくる私を見下ろすゆういち。彼は今、一体どんな顔をしているのだろう。先ほどと同じように、情けない顔で泣いているのだろうか。それとも信じられないと、目を見開いているのだろうか。思うことは、今はその頭の中に彼女の存在がなければいいということ。
彼の頭の中に、私だけがあればいい。私への感情だけでは溢れかえっていればいい。例えそれに、一つも意味がなかったとしても。
考えていると、不意に、心地よい暖かさと重みを感じた。びっくりして肩を震わせる。一体何が? だけど、すぐに解ってしまった。
「……ごめん、」
聞きなれない謝罪の言葉が、耳元で聞こえる。どうやらゆういちに抱きしめられているようだと、どこか客観的に感じた。いつか触れた手と同じように、子供のような温かい体温が伝わってくる。だけどその体温に、安心するどころか鼓動は高まるばかりだった。
「な、に……、」
「ごめん、ほんと、俺……ずっとそうやって、お前のこと、傷つけてたのか……」
「…………、」
ボロリ。大粒の涙が、目からこぼれ落ちた。こぼれ落ちる涙の速度と同じように、頭上から「ごめん」という言葉が降ってくる。ごめんごめんと、何度も何度も。その言葉に比例するように抱きしめる腕が強くなって、だけどその背中に腕を回していいのかどうかわからなくて、私はただ自分の制服のスカートを握りしめた。
涙が止まらない。嗚咽が漏れた。私を抱きしめる腕が、強くなる。だけどこの腕の太さや力強さを、私ははじめて知ったのだ。
子供のような外見なのに、それなのに、なんて力強いのだろうと思った。私が顔をうずめているこの胸板だって、もっともっと頼りなげで薄いと思っていたのに。
知らないことがあったのだと、知ってしまった。そしてそれを知っているあの子がいるのだということも。私はやっぱり、親友でしかなかったのだと。
悔しい。嗚咽とともに、意味のない言葉が漏れた。ごめん。変わらずにその言葉が返ってくる。そんな言葉はいらないのにと、そう思ってしまった。だけどゆういちの口からはただひたすらに「ごめん」という三文字ばかりが雨のように降り注いでいた。
私をしっかりと抱きしめる腕やその言葉に、私はやはり彼に大事にされているのだと実感しつつも、その現実に胸がえぐられるばかりで。そんなゆういちの腕の中で、私は震える手で強く自分のスカートを握りしめながら、嫌味なほどに青い空に祈りを馳せた。
(どうかどうか、彼が私の隣りからいなくなりませんように)
なんてバカなことを祈っているんだと、そう言われたってどうしようもない。だって私は、このおバカさん以外を愛せやしないのだ。
これじゃあどっちがおバカさんか解らないわ。そう思いながらも、抱きしめる腕を振り払う勇気は、私にはなかった。
遠い昔に書いた作品なので恥ずかしいくらいにアツいです。ああ恥ずかしい。顔から火が出そう。