37話 葉書
「直人、電話よ。」
おかんのばかでかい声が浴室のドアの向こうに聞こえた。
「誰?」
シャワーを止めて、返事を返すと、
「誠二くん。」
「今日のコンパのことだよ。聞いといて。」
おーい。間の延びた返事の後、おかんはいつもの調子で誠二と話し出す。
おかんの甲高い声を背にして、扉を閉めるとシャワーのコックを再び捻る。
今夜の店の場所のことだろう。
後で電話してって、言っといたんだ。会社を出る時。誠二の背中に向かって。
金曜日の夜。直行で仕事から帰り、汚れた作業着を洗濯機に突っ込み、シャワーへ飛び込む。急がないと。待ち合わせ時間に間に合わない。バスタオルを巻いて浴室のドアを開けると、廊下に立っていたおかんにぶつかりそうになる。
「なんでそんなとこ立ってんだよ。危ないだろ。」
「だって、あんたが電話聞いといてって言ったから、待ってたんだけど。」
おかんは頬を膨らませた。
「すまん。で、誠二何て。」
おかんは駅前の最近出来たばかりの居酒屋の名前を告げた。
「わかった。ありがと。」
そのまま二階の自室に駆け上がろうとすると、おかんが僕の腕を掴んだ。
「寒っ。なんて冷たい手してんだよ。」
湯気が出ている腕に、おかんの手のひんやりとした感触が堪えた。
「これ。直に来てたよ。」
おかんの手に一枚の葉書が。
あ、凛だ。ちらっと見た宛名に大阪の消し印が。葉書くれたんだ。嬉しくて、口元が緩むのが自分でもわかった。
「直。あんた今日コンパなんだって。」
「何で知ってんの。」
葉書から顔を上げると、
「だって誠二くんがそう言ってたもん。」
そんなことまでおかんに言うなよ。誠二は。
誠二もだけど、おかんは僕の友達と仲が良い。何でも根掘り葉掘り聞くんだから。嫌になっちゃう。それを言うとおかんは、直がいろんなことあんまりお母さんに話してくれないからわからないので、連れに聞くんだって言う。
すると、ふいに、
「もう、凛ちゃんのことはいいんだ。吹っ切れたの。」
葉書を手にして自室に上がろうとして、はっとして振り返る。
「何それ。」
「ふられたんだって。」
「不可抗力だ。」
振られるも何も、それ以前の問題だろ。そんなの。
っていうか、なんでおかんがそんなこと知ってるんだ。おかんがにんまりして僕の顔を見ている。
「何で知ってんの。」
「譲ちゃんから聞いた。」
なんだそれ。譲兄ぃも言うなよ。そんなこと。
何かかっこ悪いな。
気まずい気分でおかんの顔を見ると、
「まあ、いろいろあるって。若いうちは。良かったじゃない。いろんな経験が出来て。」
つらい思いも切ない思いも体験できるって貴重なことだって。そうやって自分の中にいろんな引き出しを積み重ねて持っていると、いいんだって。いろんな思いをしていろんな経験をしたぶん、人の気持がわかる人間になれるからだって。
おかんはよくそんな話をする。僕は今まで聞いて聞かない振りしてたけど、何だか凛の一件があってからおかんの言うことも少しわかるような気がしてきた。
ああ、とか、うんとか返事を濁しながら階段に足をかけると、
「今日は頑張れ。いい子いるといいねえ。」
おどけた調子で言ったおかんの言葉が、背中にむずがゆかった。