33話 引越し
「あれ、直人くん。」
部屋一杯に積み上げられたダンボールの向こう側で、凛が素っ頓狂な声を上げた。
「びっくりした。誰かと思っちゃった。」
エプロンをつけ、頭にバンダナを巻いた凛が、玄関先に出てきた。
階段を上がったところで、凛の部屋の扉が開きっぱなしになっているのを見て、僕がドア越しに中を覗き込んだら、凛が部屋の真ん中で、荷物の整理に精を出しているのが見えたんだ。
「引越し?」
「うん。」
そう頷いた彼女は、どこか吹っ切れた様子で、さばさばとした笑顔を浮かべていた。
「だって、引越しするからってメール入れたのに、直人君から何にも返事ないし、その前にも何度かメールしたのにやっぱり返事ないし、あれ、嫌われちゃったかなあって、ちょっと落ち込んでたんだよ。」
凛は、荷物の整理を再開しながら、こちらに背を向けて恨み言をつぶやいた。
「え、引越しするってメールは来てなかったよ。」
なぜかな。何か通信の異常かな。そんな内容のメールは届いていなかった。
だけど、それ以前にいくつかもらったメールには確かに返事をしていなかった。そのことを素直に謝ると、
「別にいいけど。だって、何とか引っ越す前に会えたしね。」
凛は笑った。
僕は横に座って、荷物を取ってやったり、本や雑誌を紐で縛ったりしながら聞いた。
「引っ越すって、どこへ?店も辞めちゃったんだな。さっき店に行ったら、辞めたって言われてびっくりした。」
「うん。大阪へ戻ろうと思うの。」
大阪へ。実家にか。
「お母さんが帰ってきて欲しいって。いろいろ考えたんだけど、店をお母さんの代で終わらせちゃうのも勿体無いし、せっかく私も美容師の仕事してるしね。」
翠さんが新しい店に勤めだして、このアパートから出て行き、凛はこのアパートにひとり残った。ここにはいろんな思い出があって、その空間にひとり取り残されていることは、僕だって想像したけど、苦しいことだろうなって思う。翠さんのことを思い出しちゃうし、どうしてこんなことになったんだろうとか、彼女のことを恨んだり、自分を卑下したりしちゃうんだろうなって、容易に想像できた。
だから、住む場所を引っ越すっていう発想はわかるし、翠さんと一緒だった店を辞めて心機一転するっていう考えもわかるし、だけど、まさか地元へ帰るとは思わなかった。
この町からは、新幹線で数時間。容易に会えるような距離じゃない。
がっかりした。いや、膝から力が抜けるような感覚だ。
もう気力ゼロって感じ。
僕の落ち込んだ様子を見て取ってか、凛が明るく、
「あ、この箱何?」
僕が持ってきたケーキの箱を指差した。
「ああ。譲兄ぃのケーキだよ。凛が食べたいって言ってたからって、持たせてくれたんだ。」
そう言うと、凛は引越しの荷物が詰まった箱が積み上げられたフローリングの空間を見回し、
「ちょうどお茶の時間よね。ああ、食べたいけど、もうガスも止められちゃったし、お茶も沸かせないわ。」
って、もう今日引越し?ガスも止めてあるって?
「え、もう今日引っ越しちゃうってこと?ガスも水道ももう止めてあるの?」
「そうね。あ、いい考えがある。下のスタバでコーヒーをテイクアウトして、あの展望台まで行かない?そこで景色を眺めながらケーキ食べようよ。」
僕の質問には答えず、お茶する場所を彼女は提案してきた。
このアパートの下には、スターバックスがテナントで入っている。
「あの展望台?」
「うん。こないだゲートが閉まってていけなかったとこ。私あの展望台からの景色、好きなんだよね。前に昼間に登った時、こんな景色がいいんだってびっくりしちゃった。夜の夜景もいいけど、明るい時の眺めも最高よ。」
明るいんだ。明るいとさらに高さが実感できる。
高所恐怖症の僕は咄嗟にそう思った。夜の暗闇なら、自分がどの高さにいるのか視覚的にはまだ曖昧にごまかされるような気がする。
ちょっと腰が引けた。
「いや、それなら下のスタバでコーヒー買ってくるよ。外じゃなくてもこの部屋でもいいじゃない。」
そう反論したけど、凛はすでにエプロンをはずし、Tシャツの上にカーティガンを羽織って部屋の鍵を手にした。
「あそこまですぐよ。さ、行こ。直人くん。」
丸く切りそろえられた茶褐色のボブの毛先が、彼女の動きに合わせて揺れた。それを見てまた胸の奥が音を立てている自分を感じた。
やはり、凛にはかなわない。