32話 迷ってなんかいられない
気がつくともう季節は秋になっていた。
あの最後に凛に会った夜。
むっとする熱気が、真夜中を過ぎてもなおアスファルトの地面から生き物のように這い上がり、僕らの身体にまとわりついた。あの暑さがまるで嘘のように、季節は半袖のシャツの腕を肌寒く感じさせるようになっていた。
僕は真っ直ぐ、いや、迷い迷い、駅前の商店街の路地を右往左往しながら、凛の勤める美容室へ向かってみた。歩をそちらの方向に向けながらも、まだ気持は迷っていた。凛に会うべきか会わずに帰るべきか。いや、このケーキはどうしたもんか。
あれから、彼女から何度かメールをもらった。話題はたわいもないものだけど。
元気でいるのかとか、今度またご飯でも食べようとか、そんな内容。
僕は返事をしなければと思いつつも、どこかいろんな思いを引っ掛けたままで、フラップを開けては閉じ、開けては閉じを繰り返し、知らぬ間に日が経っていた。日にちが経てば立つほど、返事など今更出来もせず。
だから、凛に電話をしたり、アパートに向かったりなど出来なかった。
せめて、通りの向こう側から店のウィンドを覗いてみようかと思いついたわけだ。
凛の美容室へ向かう道の途中に、例の翠さんが引き抜かれたという美容室があった。オープン間もなく、まだ店先に大小色とりどりの胡蝶蘭やシンピジュウムの鉢植えが所狭しと並んでいた。
黒とシルバーを基調にしたメタリックな冷たい感じのする店内の窓越しに、翠さんのストレートの黒髪が揺れているのが見えた。きびきびと忙しく立ち動く様は、いかにも仕事に熱中し、充実した時を過ごしているキャリアウーマンの姿だった。
僕はそれをどこか醒めた目で見た。横目でホンの数秒ちらりと意識を向けただけで、足早に通り過ぎた。
凛の美容室が見えてきた。
初めてこの店に来た時。仕事の途中で、会社の名前入りのバンを店先に止めたまま、薄汚い作業着でこのドアを押したっけ。
あれからそんなに月日が過ぎたわけじゃないのに、何故かとても長い時間が過ぎていたような気がする。僕はそのドアを、あの時みたいに勢いよく押すことが出来ない。
また、店の前をうろうろと迷い犬のように歩き回り、すぐ前にある本屋の軒先で読みたくもない雑誌を立ち読みする振りをして、気持を決めかねていた。
すると、店先に凛の同僚の子が出てきた。店先のポスターを張り替えるらしい。腕に何枚かのポスターらしきものを抱えている。
チャンス。
「あの。」
店まで走っていき、その子に声をかけると、
「あら。西脇さんのお友達ね。」
僕を覚えてくれてた。
「あの、凛ちゃんいるかな。」
「あら。」
彼女は小首を傾げて不思議そうな顔をした。
「西脇さんならこないだ辞めたわよ。」
「え。そうなの。」
僕は知らなかった。
友達なのに知らなかったの?というような表情をした彼女に、お礼を言いその場を後にした。
〝オーナーが用意したマンションに移るって、翠。〟
〝じゃあ、凛はあのアパートに住み続けるのか。〟
〝でもね、翠と一緒に過ごしたところにひとりでいるってのもね。〟
僕はあの夜の会話を思い出していた。
凛は翠さんと一緒に住んでいたけど、翠さんは引き抜かれた店のオーナーに、住む場所も用意してもらっていた。凛を置いて出て行くって。
でも、凛もあのアパートにはずっと住み続けるつもりはないって言ってた。
店も辞めて、あのアパートも引っ越していたら。もう、凛に会えない。
急に気が焦ってきた。
会おうか、会おまいか。
そういう問題じゃなくなってきたぞ。
ひょっとして、このまま会えないのか?もう、引っ越してたらどうしよう。
足早に駅前の通りを過ぎ、路肩に止めてある車を取りにいく。ハンドルを握り、真っ直ぐ凛のアパートへ向かう。もう、迷ってなんかなかった。