30話 ネイティブアメリカンの話
「ネイティブアメリカンのこんな話を知っている?」
「どんな話?」
唐突に譲兄ぃは話を変えた。
「この世の中で、誰も自分のことを思ってくれずに、考えもしてくれなかったら、自分は消えてなくなってしまうんだって。」
「消えてなくなってしまう?」
「そうよ。怖い話でしょ。」
「それをネイティブアメリカンの人たちは信じているの?」
僕は想像してみた。
誰も僕を知らない。誰も僕のことを思わない。誰も僕のことを考えない。鏡を覗いてもそこには何も移らず、自分の意識さえも煙のように消えてなくなってしまうのだ。
僕はちょっと背筋が寒くなった。
自分はここにいて、自分の姿かたちは実際にあって、自分という意識もちゃんとあるのに、誰もそれを意識してくれなくなったら、自分が望む望まないにかかわらず、自分はこの世から消えてなくなってしまう。
「怖いな。」
僕はつぶやいた。
「昔、若い頃よくそんなことを考えたわ。」
「譲兄ぃが?」
この図太そうな、ゴーイングマイウェイの親父にもそんな時期があったのか。
「意外そうね。」
僕の表情を咄嗟に捉えて、彼は僕の耳を掴んだ。
「痛いよ。」
声を上げて微かに笑った後、譲兄ぃは言った。
「昔は自分に自信が全く持てなくてね。誰も私のことを認めてくれないって思ってたから、そんなネイティブアメリカンの話がずっと心に引っかかってた。誰かが自分を認めてくれる、ここにいていいんだなって思うことが、現実自分が存在しているっていう意識に繋がるんじゃないかなってずっと思ってたのね。でも、それはある意味本当のことなのよ。誰かが自分を必要とし、そこにいていいんだよって言ってくれることって、自分の存在価値を確認することに繋がるからね。」
僕はふと凛の腕の傷を思い出した。
彼女も自分の存在価値を見いだせなくて、自分で自分を傷つけたのだろうか。誰も認めてくれない。自分ですら、自分のことを認められない。誰も自分を認めず、自分ですら認めなければ、煙のようにこの世界から自分は消えてしまう。ネイティブアメリカンのその話のように。
微かな蚯蚓腫れの赤い傷になった彼女の心の暗い淵の深さを考えてみた。
いつも明るく、自分というものをしっかりと持っているように見える譲兄ぃにも、そんな淵があるのだ。