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第047話 空の向こうへ

 アルケディア各地から届いた報告は、どれも短かった。


 短く、硬く、飾り気がない。


 だからこそ、そこにあった旅の重さが消えていなかった。


 秀直は、ミリアムが並べた記録束を一つずつ見ていった。


 風の渓域。


 水神官の湖。


 火山地帯。


 翼状地形。


 神官会議。


 どれも、一つの真実へまとまってはいない。


 むしろ、未確定と保留と反対意見ばかりが残っている。


 だが、破棄されていない。


 改竄もされていない。


 複数の立会人の名が添えられ、誰か一人の物語に回収されない形で残っている。


 それだけで、第二部の終わりとしては充分なのかもしれない。


 充分だと、胸を張って言えるほど軽くはない。


 けれど、何も残せなかったわけではない。


 最初の報告は、風の渓域からだった。


 差出人はシルフェリア。


 かつて風の規律を語り、ソフィアの名を正しく呼ぶまでに時間のかかった神官である。


 報告書の一行目に、彼女の筆跡でこう記されていた。


 ソフィア殿の立会いを確認。


 秀直は、その一行を見て、少しだけ息を吐いた。


 亜人の名を飾りとしてでも、例外としてでもなく、正式記録の中に置く。


 それは大きな改革ではない。


 世界を変えたわけでもない。


 だが、あの吊り橋の上でソフィアが自分の足で立ったことは、消されなかった。


 ソフィアは隣で、黙ってその行を読んでいた。


「正しく書かれていますね」


 秀直が言うと、彼女は小さく頷いた。


「はい」


 それ以上は言わない。


 言わないまま、指先だけが少し震えていた。


 次の報告は、アクアリナのものだった。


 水神官の湖が映した黒い街について。


 黒い月の紋章について。


 銀白の髪に似た反射について。


 彼女の報告は、断定を避けていた。


 黒い街、反射記憶として保留。


 人物本人性なし。


 現在地証拠なし。


 湖は、過去と現在と外部圧を混ぜて映すことがある。


 したがって、本件を人物特定の証拠として扱わない。


 秀直は、そこに書かれた冷静さを見た。


 湖は映した。


 だが、答えなかった。


 その違いを、アクアリナは守ってくれている。


「水は、見えたものを言葉にしたがります」


 アクアリナは静かに言った。


「けれど、言葉にした瞬間、余計な確定が混じることがあります」


「だから保留」


「はい」


 彼女は水盤へ視線を落とした。


「保留も、記録の一部です」


 火山地帯からは、ヴォルケンとフレアの連名で報告が届いていた。


 古代炉の封鎖手順。


 限定検証の条件。


 歌唱による鎮静の範囲。


 観測記録の公開保留。


 そこにも、勝利の言葉はない。


 古代炉は完全に開かれたわけではない。


 竜皇の眠りが解けたわけでもない。


 ただ、封鎖と検証を両立する手順が作られた。


 閉じるか、暴くか。


 その二択を避けるための、泥臭い書類だった。


「フレアさんらしいですね」


 ティアナが、報告の末尾を見て言った。


 そこには、歌唱記録は鎮静補助であって、起動手段として扱わない、と赤字で添えられていた。


「歌えるから歌え、ではない」


 ティアナは自分に言うように呟いた。


 そして歌わなかった。


 最後の立会いに、歌はない。


 世界を起こすためでも、誰かを呼ぶためでもなく。


 ただ短い呼吸だけを、記録の拍のように置いた。


 翼状地形の記録は、もっと重かった。


 竜皇の声を含む非公開原本。


 夢層への接触経路。


 証言化された記録だけが外部へ触れ得るという仮説。


 光の英雄という鎖。


 世界の証人という言葉。


 どれも、まだ公開できない。


 ミリアムは、その束に赤い封印紙を貼った。


「第三部要検証」


 短い分類だった。


 短いのに、そこへ入りきらないものが多すぎる。


 クリスティーナが、その文字を見て言った。


「これで終わりではないのですね」


 秀直は頷いた。


「終わらせないために残した」


 答えてから、その言葉が自分の中にも落ちてくる。


 終わらせないため。


 勝つためではない。


 解き明かすためでもない。


 消されないように、次の場所へ渡すため。


 神官会議の記録には、ミラの署名があった。


 伝承改訂調査開始。


 封印派反対意見保持。


 共同鍵保管。


 公開保留。


 記録破棄要求なし。


 神官団は割れている。


 それを隠さない文面だった。


 セルヴィアの反対意見も、ラウルの監査保留も、イリスの自分で検証するという注記も、すべて残っている。


 ミラは、会議室の窓辺に立っていた。


「きれいな決着にはなりませんでした」


「きれいな決着だったら、たぶん嘘になっていました」


 秀直が言うと、ミラは少しだけ笑った。


「そうですね」


 シャルロッタが記録束を整える。


「第三部では、この記録が政治と戦うことになります」


 その声は、先を見ていた。


「神官団内の対立だけでは済みません。竜皇、黒月経路、光の英雄、証言者。どれも、誰かが利用したがる言葉です」


「わかっています」


 秀直は答えた。


「わかっていても、残しますか」


「残します」


 迷いはあった。


 恐れもある。


 それでも、その答えだけは変わらなかった。


 ミリアムが、第二部兄編の記録台帳を閉じる準備を始めた。


 未確定。


 公開保留。


 第三部要検証。


 その三つの印が、何度も押されている。


 完成した書物ではない。


 穴だらけの台帳だ。


 しかし、その穴を埋めるために嘘を書かなかった。


 それが、今の到達点だった。


「最後の非公開原本を確認します」


 ミリアムが言った。


 黒月経路反応。


 空の向こうの誰か。


 未確定。


 返事なし。


 更新なし。


 声なし。


 顔なし。


 名前なし。


 直接接続なし。


 その記録は、何も増えていなかった。


 何も増えていないことを、秀直は少しだけ悲しいと思った。


 同時に、少しだけ安堵した。


 増えていないなら、こちらから侵していない。


 追っていない。


 呼んでいない。


 誰かの場所を、こちらの物語へ引きずり込んでいない。


 ソフィアが隣へ来た。


「空の向こうへ行きたくなったら」


 彼女は静かに言った。


「また止めます」


 秀直は、彼女を見た。


 もう、守られるだけの少女ではない。


 主と従者という言葉の中に押し込めるには、あまりにも確かな相棒だった。


「止めてくれ」


 秀直は答えた。


 ソフィアは頷いた。


「はい」


 短いやり取りだった。


 だが、その短さがよかった。


 約束は、飾ると逃げ道が増える。


 ミリアムが台帳を閉じた。


「兄編第二部、記録台帳を仮締めします」


 仮。


 ここでも、その一文字が残る。


 確定できないものが多い。


 公開できないものも多い。


 だが、残った。


 秀直は配信端末を手に取った。


 画面は暗い。


 公開状態ではない。


 配信を始めるわけではない。


 視聴者へ向けて語るわけでもない。


 ただ、記録開始のボタンだけを押す。


 小さな振動が手のひらに返った。


 開始。


 それは世界へ叫ぶ合図ではなかった。


 自分がここで何を証言したかを、未来へ残すための合図だった。


 竜皇の気配は遠い。


 眠っているのか、見ているのかもわからない。


 神々の反応もない。


 笑い声も、祝福も、干渉もない。


 空は静かだった。


 その沈黙の中で、秀直は思う。


 弟を探す痛みは消えない。


 救いに行きたい気持ちも消えない。


 兄でありたい願いも消えない。


 けれど、消えないからといって、相手の場所を奪っていい理由にはならない。


 自分はここにいる。


 ここで記録する。


 ここで裁かれる。


 ここで、空の向こうの誰かを、勝手な名前で呼ばずに残す。


 仲間たちが、少し離れた場所にいた。


 ソフィア。


 シャルロッタ。


 ミリアム。


 ティアナ。


 クリスティーナ。


 ミラ。


 アクアリナ。


 それぞれが、それぞれの立会人として立っている。


 秀直を一人の証人にしないために。


 英雄の物語へ閉じ込めないために。


 記録が遊戯の外へ届くかどうかは、まだわからない。


 証言化された記録だけが、どこかの外圧へ触れ得る。


 それは仮説でしかない。


 だが、仮説でも残す。


 勝利ではない。


 救済でもない。


 再会でもない。


 それでも、記録は消えない。


 秀直は空の向こうを見た。


 届くかどうかわからない。


 届かなくてもいい、とまでは言えない。


 届いてほしい気持ちは、今もある。


 だからこそ、これは呼びかけではなく証言として残す。


 俺はここにいる。お前もどこかにいるなら、そこで選べ



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