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第043話 空の向こうの誰か

 湖面の黒い線は、消えたはずだった。


 封印紐は結ばれ、七環錫杖は布の奥へ納められ、竜皇夢層記録も箱の中へ沈んだ。


 それなのに、秀直の目にはまだ残っていた。


 水の上に引かれた、夜の縁。


 こちらへ伸びてこない線。


 こちらの呼びかけを待っていない線。


 ただ、そこに在ったというだけの黒い月の経路。


「秀直」


 クリスティーナの声がした。


 名前を呼ばれて、ようやく息をしていなかったことに気づく。


 喉の奥が痛かった。


 返事をしようとして、声が出ない。


 湖畔の風が、封印紐の端を小さく揺らした。


 黒い線はもうない。


 湖は、何もなかったように夕暮れを映している。


 だが、秀直の胸の中では、何かがまだ閉じていなかった。


「今のは」


 ミリアムが、慎重に端末へ視線を落としたまま言う。


「自然反射です。こちらからの追跡条件は成立していません。呼びかけもありません。本人性もありません」


 本人性もありません。


 その言葉は、必要だった。


 必要で、正しくて、冷たい。


 秀直は頷いた。


 頷けたことに、自分で少し驚いた。


 昨日なら、そこで食い下がっていたかもしれない。


 もう一度見せてくれ。


 何が映った。


 誰なのか。


 どこにいる。


 届くのか。


 そんな問いを、湖へ投げたかもしれない。


 今は、投げなかった。


 投げなかっただけで、消えたわけではない。


 問いは、胸の内側で爪を立てている。


「顔はありませんでした」


 ミリアムが続ける。


「声もありません。銀白の光もありません。黒月経路反応のみ。選択反応の感触あり。証言化ログへの接触と仮分類」


 彼女は、ひとつずつ壁を置いてくれた。


 顔ではない。


 声ではない。


 光ではない。


 名前ではない。


 本人ではない。


 その壁がなければ、秀直は簡単に越えてしまう。


 越えた先に弟がいると信じるのは、あまりにも甘い。


 そして、あまりにも残酷だった。


「でも」


 ティアナが小さく息を吐いた。


 歌ではなかった。


 ただの呼吸だった。


 それでも、その短い息で湖面の揺れが少し落ち着いた。


「何か、いたんだよね」


 誰もすぐには答えなかった。


 いた。


 そう言えば、近づきすぎる。


 いなかった。


 そう言えば、消しすぎる。


 秀直は、その狭い隙間に立たされていた。


 何も証明できない。


 けれど、何もなかったとは言えない。


「感触は、ありました」


 ミリアムが答えた。


「誰か、と呼ぶのが限界です」


 誰か。


 その言葉が、胸に落ちた。


 あまりにも遠い。


 だが、名前を勝手につけるよりは正しい。


 秀直は湖面を見つめた。


 そこには、過去が映っていない。


 それなのに、過去が戻ってくる。


 小さな部屋。


 安い食卓。


 いつも自分の分を少なく見積もる癖。


 笑う時に、少しだけ目元を隠すような横顔。


 意地を張る時だけ、こちらをまっすぐ見る目。


 助けてほしいと言わない口。


 助けられる前に、平気だと言ってしまう声。


 置いてきた。


 その感覚だけが、何度も胸を抉る。


 本当は、置いてきたのではない。


 世界が裂けた。


 手を伸ばす暇もなかった。


 何も選べなかった。


 そう説明することはできる。


 誰かに言えば、責められないかもしれない。


 けれど、秀直の中では違った。


 守るべきだった。


 気づくべきだった。


 もっと早く、もっと強く、もっと正しく。


 そういう言葉が、長い間、弟の形をして胸の中に残っていた。


 だから黒い経路を見た時、秀直は過去を見た。


 生きているかもしれない人。


 取り戻せるかもしれない人。


 今度こそ手を伸ばせるかもしれない人。


 その希望は、痛いほどまぶしかった。


 だが、湖面に残った感触は、過去ではなかった。


 あの部屋に戻る影ではない。


 自分の後悔の中に閉じ込められた弟でもない。


 どこか別の場所で、誰かの隣に立っている。


 何かを背負わされている。


 選びたくて選んだのか、選ばされているのかもわからない。


 それでも、そこで選んでいる。


 そういう感触だった。


 秀直は、胸の奥で何かが裂ける音を聞いた気がした。


 救いに行きたい。


 その気持ちは消えない。


 消えないどころか、前よりはっきりした。


 もし本当に弟なら。


 もし本当に、どこかで苦しんでいるなら。


 今すぐ追いたい。


 黒い線の先を探したい。


 湖を開き、七環錫杖を鳴らし、夢層記録を重ね、届くまで呼び続けたい。


 そんな自分が、確かにいる。


「見たいものではなく」


 ソフィアの声がした。


 秀直は、湖面から目を離さずに聞いた。


「そこにいるものを見てください」


 その言葉は、昨日の手首の痛みと同じ場所へ届いた。


 見たいもの。


 取り戻したい弟。


 救えなかった過去。


 兄でありたい自分。


 そこにいるもの。


 名前のない誰か。


 顔のない誰か。


 声のない誰か。


 自分の願望ではなく、自分の場所で選んでいる誰か。


「そこにいるもの、か」


 秀直は呟いた。


 呼びたい名前が喉まで来る。


 何度も呼んできた名前だ。


 夢の中でも、目が覚めた後でも、誰にも聞こえないところで何度も呼んだ。


 だが、ここでは呼ばなかった。


 呼べば、それは祈りではなくなる。


 記録でもなくなる。


 相手を、自分の後悔の形へ引き戻す行為になる。


「そこにいる誰か」


 秀直は、そう言った。


 声は掠れていた。


 それでも、言い直さなかった。


 ミリアムが端末へ入力する。


「黒月経路、自然反射。本人性未確定。選択反応あり。証言化ログ接触。記録名、仮称」


 そこで彼女は止めた。


 秀直を見る。


「仮称を、どうしますか」


 答えはすぐには出なかった。


 弟。


 そう書きたい。


 書けば、少なくとも自分の中では繋がる。


 だが、それは記録ではない。


 願望だ。


 弟候補。


 それも違う。


 候補という言葉は、相手をこちらの推理の枠へ押し込める。


 遠い闇の王配候補反応。


 遠い闇の王配候補反応につけた分類語は、まだ制度的には正しい。


 だが今、秀直の胸に残っている感触は、肩書きではなかった。


「空の向こうの誰か」


 言ってから、秀直は自分の声を聞いた。


 ひどく頼りない名前だった。


 けれど、嘘ではない。


「空の向こうの誰か」


 ミリアムが復唱する。


「未確定として記録します」


「お願いします」


 端末に文字が刻まれる。


 黒月経路反応。


 空の向こうの誰か。


 未確定。


 その三行を見た瞬間、秀直は胸の奥がひどく痛くなった。


 名前を入れなかった。


 確信を捨てた。


 それは諦めに似ていた。


 だが、違う。


 諦めなら、相手を消す。


 これは、消さないための距離だった。


「よくは、ないですね」


 ソフィアが静かに言った。


 秀直は苦く笑った。


「よくはない」


「これで、いいんですか」


 問いは責めではなかった。


 確認だった。


 隣に立つ者として、もう一度止めるための問い。


 秀直はしばらく黙った。


「いい、とは言えない」


 正直に答える。


「でも、勝手に呼ぶよりはいい」


 ソフィアは頷いた。


「はい」


「もし、本当に弟なら」


 そこまで言って、秀直は息を止めた。


 全員の視線が少しだけ動く。


 今の言葉は、記録ではない。


 証明でもない。


 兄の弱さだ。


 秀直は続けた。


「もし本当に、どこかで選んでいるなら、俺が勝手に引き剥がしていい理由にはならない」


 言葉にした瞬間、胸が軋んだ。


 救いたい。


 助けたい。


 連れ戻したい。


 その全部を抱えたまま、それでも言う。


「相手が選んでいるなら、まず、その場所を奪わないことから始める」


 ティアナが目元を押さえた。


 クリスティーナは何も言わず、ただ秀直の名をもう一度呼んだ。


「秀直さん」


 今度は、呼び戻すためではない。


 そこに立っていることを確かめるための声だった。


 秀直は頷いた。


「大丈夫、とは言わない」


「はい」


「でも、追わない」


 その言葉は、約束というより、自分に刺す杭だった。


 ミリアムが記録した。


「本人発言。追跡を行わない。記録名を未確定とし、相手の選択を侵害しない方針を承認」


「硬いな」


 秀直が言うと、ミリアムは表情を変えずに答えた。


「硬く残すための記録です」


「助かる」


 本当に、助かった。


 柔らかい言葉では、きっと崩れる。


 硬い文言が、かろうじて足場になる。


 アクアリナが湖へ歩み寄った。


 水面はもう動かない。


「湖は、返事をしていません」


 彼女は言った。


「七環錫杖も鳴っていません。夢層記録も開いていません。今ここに残っているのは、あなたの証言だけです」


 秀直は頷いた。


「それでいい」


 本当は、よくない。


 返事が欲しい。


 声が欲しい。


 生きていると言ってほしい。


 名前を呼び返してほしい。


 だが、その欲しさを相手へ向けた瞬間、それは相手の場所を侵す。


 だから、ここに残す。


 届くかどうかもわからない言葉ではなく。


 届かせるための通信ではなく。


 自分が、ここでそう考えたという証言として。


 秀直は、非公開原本用の記録板を受け取った。


 筆記具を握る手が少し震えている。


 その震えを隠さなかった。


 最初に、記録名を書く。


 空の向こうの誰か。


 その下に、未確定、と付け加える。


 さらに一行、空けた。


 ミリアムが確認する。


「証言文を残しますか」


「公開しないでください」


「非公開原本に限定します」


 秀直は頷いた。


 書く前に、長く息を吐いた。


 弟へ宛てる手紙ではない。


 湖へ投げる呼びかけでもない。


 それでも、胸の奥にいる誰かへ向けてしまう自分を、完全には止められない。


 だから、文の形を変える。


 呼ぶのではなく、自分の立つ場所を書く。


 俺はここにいる。


 お前もどこかにいるなら、そこで選べ。


 書いた瞬間、湖面は動かなかった。


 七環錫杖も鳴らなかった。


 封印箱も震えなかった。


 返事はない。


 再会もない。


 直接接続もない。


 ただ、沈黙があった。


 深く、冷たく、どこまでも遠い沈黙だった。


 秀直はその沈黙を見つめた。


 失敗ではない。


 届かなかった証拠でもない。


 相手の場所を侵さなかった証として、受け止める。


 そう決めなければ、また追いたくなる。


「消さない」


 秀直は小さく言った。


「壊せなくても、消さない」


 ミラが、彼の言葉を聞いていた。


 神官団は割れたままだ。


 竜皇伝承の改訂も、まだ始まったばかりだ。


 神々の遊戯と呼ばれるものを壊す方法など、どこにもない。


 黒い経路の向こうに誰がいるのかも、わからない。


 それでも、記録は残る。


 消せないものが、残った。


 湖面は何も返さない。


 空はもう暗い。


 秀直は、その空の向こうへ目を上げた。


 救いに行くためではなく。


 名前を奪うためでもなく。


 そこに誰かの選択があると、失くさないために。



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