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第032話 竜皇、神々の遊戯を語る

 夢の奥に、湖の冷たさはなかった。


 火山の熱も、古代炉の鼓動も、そこでは遠かった。


 ただ、深い暗がりがあった。


 暗がりの中に、無数の線が浮いている。


 人の歩いた道。


 誰かが選ばなかった道。


 選べなかった道。


 それらが、物語、反応、分岐という名で分類されていた。


 秀直は、言葉の意味をすぐには理解できなかった。


 理解したくなかったのかもしれない。


 人の生が、誰かの記録棚に並べられている。


 その印象だけで、胸の奥が冷えた。


「これは……古代観測記録か」


 秀直の声は、夢の中で少し遅れて響いた。


 隣にミリアムの気配がある。


 肉体ごとここへ来ているわけではない。帰還線越しに、秀直が見ているものを追い、言葉になった部分だけを拾っている。


 ミラも、ティアナも、遠い場所で息を潜めているのがわかった。


 誰も軽々しく口を挟まない。


 この暗がりが、問いを拒んでいるからだ。


 やがて、一つの語が浮かび上がった。


 遊戯。


 前に見た文字より、さらに古い層に刻まれている。


 その前に、かすれた修飾があった。


 神々の。


 秀直は、思わず息を止めた。


「神々の、遊戯」


 口にした瞬間、暗がりの線がわずかに震えた。


 ミリアムの声が、すぐに重なる。


「待ってください。記録上の語としては確認できます。でも、記録主体が本当に神々であるとは確定できません」


「記録の名が、事実の名とは限らない」


「はい。誰かがそう呼んだ、あるいはそう呼ばせた可能性もあります」


 冷静な言葉だった。


 それに救われるほど、秀直は冷静ではなかった。


 神々。


 遊戯。


 その二つが並んだだけで、これまで拾ってきた多くの違和感が、嫌な形で結びついていく。


 召喚。


 配信。


 称号。


 選択。


 誰かが見ている。


 誰かが面白がっている。


 誰かが、人の人生に分岐点を置いている。


 暗がりの底で、低い声が鳴った。


 竜皇の声だった。


「否定はせぬ」


 秀直は顔を上げた。


 姿はない。


 巨大な輪郭も、炎の翼も、黄金の瞳もない。


 ただ、夢の奥そのものが声を持っている。


「神と呼ばれたものはいた」


 ミリアムが小さく息を呑む。


 竜皇は、続けた。


「見る者がいた」


 暗がりの線が、一斉にこちらを向いた気がした。


「分ける者がいた」


 道が二つに裂ける。


 裂けた先で、別の光が別の闇に落ちていく。


「選ばせる者がいた」


 その言葉だけが、妙に近かった。


 秀直の喉が乾く。


 問いが、胸の奥からせり上がった。


 弟は。


 あいつは、どこにいる。


 生きているのか。


 この線のどこかにいるのか。


 この記録棚のどこかに、あいつの選択も並べられているのか。


 言葉にしようとした。


 けれど、名前は出なかった。


 夢の中の記録にも、その名は現れなかった。


 代わりに、竜皇の声が低く落ちた。


「もう一人の証言者は、別の場所から来る」


 秀直の胸が強く鳴った。


 証言者。


 もう一人。


 別の場所。


 たったそれだけの言葉に、手を伸ばしたくなる。


 伸ばせば、何かを掴める気がした。


 けれど、ミリアムの声が細い糸のように秀直を留めた。


「秀直様。今の発話は、対象を特定できません」


「わかってる」


「可能性は記録します。でも、確証にはしません」


「……わかってる」


 二度目の返事は、一度目より遅れた。


 わかっている。


 わかっているのに、胸は勝手に希望へ走ろうとする。


 死んだと思っていたもの。


 失ったと思っていたもの。


 もう二度と届かないと思っていた声。


 それが、どこか別の場所でまだ選んでいるのだとしたら。


 そう考えるだけで、足元の暗がりが崩れそうになった。


「師匠」


 遠くから、クリスティーナの声がした。


 帰還線の向こうで、彼女が手を添えている。


「それは、証拠ですか」


 短い問いだった。


 慰めではない。


 止める言葉でもない。


 秀直が、秀直自身のルールを捨てないための問いだった。


 秀直は、拳を握った。


「証拠じゃない」


 言った瞬間、胸が痛んだ。


 それでも言い直さない。


「記録すべき可能性だ」


 クリスティーナは、それ以上言わなかった。


 暗がりの奥で、水面のようなものが揺れた。


 湖の記憶ではない。


 火山の夢でもない。


 もっと遠く、もっと薄い反射。


 そこに、一瞬だけ黒い月が浮かんだ。


 輪郭は街の影を抱いている。


 その下を、白金の波形が走った。


 七つの環に似た揺らぎが、波形の周りでほどけ、重なり、また消えていく。


 秀直は、息を呑んだ。


 顔は見えない。


 声も聞こえない。


 名前もない。


 ただ、別の場所に、別の記録がある。


 それだけが、火傷のように残った。


「竜皇」


 秀直は、暗がりへ向かって呼んだ。


「俺たちは、分けられたのか」


 しばらく、声は返らなかった。


 分岐の線が、無数の光を飲み込んでいく。


 やがて、竜皇が答える。


「異なる選択をさせるために」


 秀直の背筋が冷えた。


「誰が」


 答えはない。


「なぜ」


 それにも、答えはない。


 竜皇の沈黙は、知らない沈黙ではなかった。


 知っていて、今は語らない沈黙だった。


 秀直は奥歯を噛んだ。


「そこまで言って、肝心なところは隠すのか」


「隠すのではない」


「なら、何だ」


「今のおまえが聞けば、答えを選択と取り違える」


 秀直は反論できなかった。


 そうかもしれない、と思ってしまったからだ。


 弟に関わるかもしれない手がかりを前にしたとき、自分は冷静でいられるのか。


 救える道があると言われれば、その道の先に何があっても踏み込まないと言えるのか。


 この場に仲間がいる。


 帰還線を握る者がいる。


 記録を検証してくれる者がいる。


 それを巻き込んでまで、確証のない希望に飛びつくのか。


 秀直は、できないと思った。


 できないと思えることが、今は苦しかった。


「どうすれば救える」


 それでも、問いは出た。


 竜皇の声は揺れなかった。


「余は救わぬ」


 暗がりが、さらに深くなる。


「証言する」


 救わない。


 証言する。


 その二つの言葉は、似ても似つかなかった。


 だが、この夢の中では、救済より重く響いた。


「証言して、何が変わる」


「消費されたものが、消費だけで終わらぬ」


 竜皇の声は短い。


 説明を増やさない。


 答えを与えない。


 ただ、秀直の前に刃のような言葉を置いていく。


「見られた者がいた」


 竜皇が言う。


「使われた者がいた」


 線の中に、戦い、歓声、涙、祈りの断片が流れた。


「忘れられた者がいた」


 その断片が、何度も上書きされる。


 便利な物語として。


 喜ばれる展開として。


 英雄の成長として。


「英雄は要らない」


 秀直は、はっとした。


 竜皇の声が、初めて自分へ真っ直ぐ向いた気がした。


「記録者でも足りない」


 ミリアムが息を止める気配がした。


 彼女に向けられた否定ではない。


 記録だけでは届かない場所がある、という告知だった。


「証言者として来るか」


 その問いは、称号ではなかった。


 選ばれた者へ与えられる栄誉でもない。


 都合よく世界を救う役目でもない。


 見たものを、自分の痛みとして引き受けるか。


 見られた誰かの人生を、娯楽の残骸として捨てないか。


 自分自身もまた、見られ、使われ、物語にされてきたと認めたうえで、それでも語るか。


 そう問われている。


 秀直は、すぐには答えられなかった。


 答えれば、何かが確定する。


 英雄ではない。


 記録者だけでもない。


 証言者。


 その言葉は、あまりに重かった。


「今は、答えられない」


 秀直は、ようやく言った。


「答えたつもりになりたくない」


 竜皇は、責めなかった。


 笑いもしなかった。


 暗がりの底で、ただ短く告げた。


「ならば見よ」


 次の瞬間、夢が揺れた。


 分類棚が崩れる。


 物語、反応、分岐という札がはがれ、裏側に別の文字が浮かび上がる。


 光。


 勇者。


 英雄。


 召喚。


 選定。


 人々が秀直に向けてきた言葉が、記録の層から浮かび上がった。


 その一つひとつに、誰かの期待がこびりついている。


 誰かの恐怖も。


 誰かの都合も。


 そして、その中心に、最も明るい鎖のような文字があった。


 光の英雄。


 秀直は、それを見た。


 自分に与えられた名ではなく、自分を縛るために磨かれ続けた言葉として。


 夢の奥で、竜皇の声が最後に沈む。


「称号を見よ」


 帰還線が強く引かれた。


 クリスティーナの手が、遠くで震えている。


 ミリアムが記録を閉じようとしている。


 ミラが、まだ何も言わずに待っている。


 ティアナの祈りが、音にならないまま残っている。


 秀直は、浮かび上がる光の文字から目を逸らさなかった。


 弟かもしれない誰かへ伸ばしたい手を、今は握り込む。


 救う方法は、まだない。


 証拠も、まだない。


 あるのは、消費されたものを消費のまま終わらせないという、ひどく不格好な意地だけだった。


 光の英雄。


 その名が、暗がりの中で静かに軋んだ。



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