第二十三話 成功すると、皆が最初から正しかった顔をします。けれど今回は違いました
建国祭の朝、王宮はまだ夜の冷えを少しだけ残していた。
白の間、蒼の間、大広間。
三つの会場は、それぞれ別の顔をしているのに、今日だけは一つの長い儀礼の列として繋がっている。
そのことを知っている人間だけが、廊下の角度や盆の順番まで神経を尖らせていた。
私は中央回廊の工程板の前に立っていた。
赤札、白札、青札、灰札、緑札。
黒札は例外用。
昨日まで積み上げた線と順番が、今日は本当に人を動かす。
「白の間、入場開始」
マルタ女官の声が飛ぶ。
最初の赤札がロッテへ渡り、彼女が一礼して列を動かす。
エミルが中継へ入り、蒼の間側のミナが次の札を受け取る。
誰も慌てていない。
緊張はしている。
けれど、少なくとも自分が何を持ってどこへ渡すかは、全員の手の中にある。
私はその流れを見ながら、ようやく小さく息を吐いた。
始まった。
もう、途中で「やはり私が全部走るしかない」とは言えない。
今日は本当に、この形が立つかどうかの日だ。
白の間では顕彰式が予定どおり進む。
勲章盆の順も崩れない。
ロッテは黒札を一度だけ使った。
年配の功労夫人が、自分の列の順番へ不満を示したときだ。
でも昨日までの訓練どおり、彼女は《《北列で最初に勲章盆をご覧になる位置です》》と返し、相手を座らせた。
私はわざわざ近寄らなかった。
必要ないと分かっていたからだ。
蒼の間では歓迎宴の準備が少しだけ詰まった。
通訳の控えが半歩遅れた。
でも、エミルが灰札を切り替え、ミナがそのまま位置をずらした。
札の上で決めたことが、人の足へ変わっていく。
それを見るのは不思議な気分だった。
私は動いていないのに、私が引いた線の続きを誰かが歩いている。
「補佐官殿、白の間はこのまま持ちます」
エミルが小走りで戻ってきて報告する。
頬は少し赤い。
でも目は落ち着いていた。
「ええ。蒼の間へ戻って」
「はい!」
その背を見送りながら、私は少しだけ可笑しくなる。
少し前まで、彼は紙束を抱えておろおろする若い書記官だった。
今は違う。
工程の一部として、ちゃんと動いている。
昼の顕彰式が終わるころ、大広間では舞踏会の準備が始まった。
ヴァルブルク公爵令嬢は北列で夫人方の迎えを捌いている。
あの人を殿下の隣ではなく、流れの先頭へ置いた判断は正しかった。
華やかで、顔が利いて、しかも目立つことに慣れている。
だからこそ「こちらへどうぞ」と言うだけで人が動く。
あれは、座らせるより働かせたほうが強い人だ。
ルドヴィク典礼監補も、今日は黒札の流れを止めなかった。
むしろ、自分の古い私用覚えから拾った注意点を、先回りしてマルタ女官へ口頭で渡している。
完全に手放したわけではない。
でも、《《自分一人しか分からない形》》からは出てきていた。
それで十分だと思った。
そして夕方、使節歓迎宴から祝賀舞踏会への切り替えが始まる。
今日最大の継ぎ目だった。
片づけ、花台、照明、通訳の引き上げ、楽団の再配置。
どれか一つ遅れれば、夜の大広間が冷える。
冷えた夜会は空気まで冷える。
そういうものだ。
「灰札三、北列の花を先に!」
クラウディア次席儀礼官の声が走る。
その声に、若い下働きが迷いなく反応する。
昨日までなら、たぶん誰かが「誰の指示ですか」と立ち止まっていた。
今日は違う。
札があり、順番があり、声を受ける場所まで決まっている。
だから人が止まらない。
私は中央回廊の位置から、その全部を見ていた。
白の間の終わり。
蒼の間の退席。
大広間の立ち上がり。
流れが一本になっているのが分かる。
見える。
ちゃんと見える。
その瞬間、不思議な気持ちになった。
私がいなくても白の間は回った。
私が走らなくても蒼の間はつながった。
そして今、大広間も誰かたちの手で立ち上がっている。
それは寂しいことではなかった。
少し前まで私が恐れていた《《消える感じ》》とは、まるで違った。
むしろ、自分の仕事が人の手に渡って残っているのを、初めて見た気がした。
「……いい」
思わず漏れた声に、自分で少しだけ驚く。
かなりいい。
本当にそう思ったのだ。
夜の祝賀舞踏会は、ついに最後まで大きく崩れなかった。
遅れはあった。
小さな綻びもいくつか出た。
でも、どれも札の内側で吸収された。
誰か一人が目立って埋めたのではない。
局全体で回したのだ。
その違いは、思っていた以上に大きかった。
そして、いつもの時間が来る。
催しが成功したあと、人々はたいてい《《最初から正しかった顔》》をするのだ。
王妃殿下も王女殿下もお美しく。
使節団も満足げで。
列も乱れず。
まるで、最初から何の危うさもなかったみたいに。
そういう顔を、私は前から何度も見てきた。
だから、今夜もそうなるのだろうと思っていた。
少し苦く、でももう受け入れられる気持ちで。
けれど今回は、違った。
祝賀舞踏会の最後、楽団がゆるやかな終曲へ入ったそのときだった。
レオンハルト殿下が、王妃殿下の少し後ろから一歩前へ出たのだ。
大広間の空気が、わずかに張る。
皆が見る。
王弟が何を言うのか、と。
「本日の建国祭は、無事に終わった」
声は大きくない。
でも、広間の隅までよく届く声だった。
「それは《《自然に》》ではない」
一拍。
その言葉で、私は思わず顔を上げた。
今、はっきりと《《自然にではない》》と言った。
それだけで、何かが変わる気がした。
「王家儀礼局が、今年は一つの催しごとではなく、三会場を一つの流れとして組み直したからだ」
広間が静かになる。
ざわつきすら起きない。
たぶん皆、どう受け取るべきか一瞬だけ測っているのだろう。
「補佐官エルシェナ・リューネが工程を切り、次席儀礼官クラウディア・ベルムが運用を整え、マルタ女官が現場を支え、ルドヴィク典礼監補が長年の覚えを開いた」
私は息を止めた。
名前が、一つずつ、順番に呼ばれていく。
しかも私だけではない。
私が組んだやり方で動いた人たちの名も、一緒に。
「ロッテ女官、エミル書記官をはじめ、若い者も今日の流れを実際に担った」
ロッテが、はっとして顔を上げる。
エミルなど、今にもひっくり返りそうな顔をしている。
無理もない。
自分の名がこういう場で出るとは思っていなかったはずだ。
「ゆえに、今年の建国祭は《《王家儀礼局の仕事》》として記す」
そこで、ようやく広間に小さなどよめきが広がった。
でも、それは不満の気配ではない。
少なくとも今日は、正しく伝わったのだと思う。
私の仕事が、私だけのものではなく、人の手へ渡って残る。
しかも消えずに、名前ごと。
胸の奥が熱くなる。
危うく、泣きそうになる。
こんなふうに残る形を、私はずっと欲しかったのだろう。
ただ便利に使われて、ただ当然に消えていくのではなく。
ちゃんと仕事として、誰が何をしたかが見える形を。
王妃殿下が、そこで静かに頷いた。
王女殿下も、はっきりと嬉しそうに笑っている。
私はその場で深く礼を取った。
顔を上げるときには、どうにか平静を保てていたと思う。
たぶん。
舞踏会のあと、書記室へ戻る道すがら、ロッテがまだ信じられない顔で私の隣へ来た。
「補佐官殿……今、本当に私の名前が」
「ええ」
私は笑った。
「ちゃんと聞こえたわ」
彼女の目が、少しだけ潤む。
エミルも後ろで、どうしていいか分からない顔のまま何度も瞬きをしていた。
マルタ女官は「泣くなら札を全部片づけてからにしなさい」と呆れたように言い、クラウディア次席儀礼官は黙ってうなずいている。
その光景を見て、私はようやく本当に思った。
これは、私一人の成功ではないのだと。
書記室へ戻ると、工程板がまだそのまま残っていた。
赤札も白札も、黒札も。
人が動いた跡だけが、少し乱れている。
私はその板の前へ立ち、指先でひとつだけ黒札を揃えた。
「どうだ」
低い声が横から落ちる。
レオンハルト殿下だった。
私はしばらく答えられなかった。
だって、まだうまく言葉が追いついていなかったからだ。
「……不思議です」
ようやく出たのは、その一言だった。
「何が」
「私の仕事が、人のものにもなっていることが」
そう口にしてから、少しだけ笑う。
「でも、嫌ではありません」
むしろ嬉しい。
すごく嬉しい。
けれど、その嬉しさを《《自分が消えた》》と取り違えなくて済むくらいには、私はもう少しだけ変われたのだと思う。
「それでいい」
殿下は短く言った。
「役目が人に残ることと、あなたが要らなくなることは違う」
その言葉に、私は静かに頷く。
たしかにそうだ。
今日の建国祭で、私の仕事は人の手に渡った。
でも、だからこそ私は次を見られる。
札の外側を見る役目へ、少しずつ移っていける。
「ありがとうございます」
私がそう言うと、殿下の灰色の目がほんの少しだけやわらいだ。
今夜はそれで十分だった。
たぶん次に話すべきことは、もう少し先にある。
でも、ここまで来たからこそ、私はそれを待てる気がした。
成功すると、皆が最初から正しかった顔をする。
けれど今回は違った。
ちゃんと名前が呼ばれた。
やり方ごと残った。
そして私は、ようやくそのことを嬉しいと思えた。
それだけで、建国祭は十分に価値があった。
次話は明日の19:40投稿予定です。
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