第二十話 同じ夜に三つの催しは開けません。だから人を置きます
建国祭まで、あと八日。
王家儀礼局の書記室は、昨日までよりさらに人が多かった。
若い女官が二人増え、書記官見習いが一人増え、王妃宮からも控え役が一名だけ借り出されている。
どれも、今までなら私が《《一人で埋める》》前提で存在しなくてよかった人員だ。
それをわざわざ増やしている時点で、もうやることは決まっていた。
「三会場を三人で回すのではありません」
私は机の前に立ち、板へ並べた札を指で叩いた。
「一人ずつ会場へ貼りつければ、どこか一つが押した瞬間に全部が止まります。だから、会場ではなく工程で人を置きます」
白の間。
蒼の間。
大広間。
その三つの名前の下ではなく、さらにその横へ五つの列を引く。
入場。
着席。
贈答。
移動。
片づけ。
「ここが基本です」
私は赤札を最初の列へ置いた。
「顕彰式と歓迎宴と舞踏会を別々に見るのではなく、《《人がどの流れに属しているか》》で見てください。自分が担当する札は一色だけ。黒札が出たときだけ例外対応です」
ロッテが真剣な顔で頷く。
エミルはすでに手元の控えへ対応表を書き写し始めていた。
マルタ女官とクラウディア次席儀礼官は、札の位置よりむしろ人の並びを見ている。
誰がどの列へ置かれ、どこで引き継ぎが発生し、どこがまだ私依存のまま残っているか。
そういう目だ。
ありがたいと思う。
この二人はもう、私が一人で抱え込む前提では見ていない。
「蒼の間の着席列は、ロッテ」
私は白札を一枚押し出した。
「え、わたしですか」
「そう」
彼女の緊張した顔へ、できるだけ穏やかに頷く。
「あなたは足が速いし、夫人方へ声をかけるときに慌てた顔をしない。向いているわ」
ロッテは一瞬だけ驚いたあと、少し赤くなって頭を下げた。
褒められ慣れていない顔だった。
それでも嬉しそうに見える。
こういうとき、人は少しだけ伸びる。
「白の間から蒼の間への移動は、エミル」
「はい」
返事が早い。
昨日までの彼より、だいぶ声が落ち着いていた。
「あなたは札を読むのが早い。だから、次へ渡す中継のほうが向いているわ」
「分かりました」
そこでルドヴィク典礼監補が、露骨にため息をついた。
「そんな若手では無理です」
部屋の空気が少しだけ張る。
彼は昨日よりもいっそう機嫌が悪そうだった。
理由は分かる。
工程を切り出し、札に落とし、若手へ渡す。
それは、彼が長年《《自分しか分からない形》》で握ってきたものを減らす行為だからだ。
「何が無理なのか、具体でお願いします」
私は正面から訊いた。
ルドヴィク典礼監補は一拍だけ黙り、それから腕を組み直す。
「蒼の間の着席は、最初の五分で夫人方の機嫌が決まる。若い女官にあの圧がいなせますか」
「いなせないかもしれません」
私は否定しなかった。
「だから今のうちに、無理を表に出します」
ルドヴィク典礼監補の眉が動く。
「表に出す?」
「ええ」
私は言う。
「本番で初めて無理だと分かるのが一番悪いでしょう? なら訓練で止まるべきです」
一歩、黒札を持ち上げる。
「止まったら、その止まり方を札へ書きます。必要なら、そこだけあなたの経験を借ります」
マルタ女官が、横から小さく口を挟んだ。
「逆に言えば、本番まで止まらなかったら、もうルドヴィク典礼監補一人で抱える必要はないということね」
「そういうことです」
私が答えると、クラウディア次席儀礼官もすぐに頷いた。
「訓練を始めましょう」
そこから先は、本当に稽古だった。
白の間の入口にロッテ。
次の廊下にエミル。
蒼の間の控えに王妃宮から借りた女官ミナ。
私は大広間と白の間の中間に立ち、全体の流れだけを見る。
今までなら、そこで自分が一番前へ出ていただろう。
でも今日は違う。
私は《《全部をやる人》》ではなく、《《回るかどうかを見る人》》でいなければならない。
「白の間、入場開始」
赤札が動く。
ロッテが札を受け取り、廊下の曲がり角でエミルへ渡す。
エミルが青札を持つミナへ声をかける。
ミナが一礼し、蒼の間側の給仕へ合図を送る。
最初の一巡は、思ったより悪くなかった。
少し足が止まる。
でも止まり方がはっきり見える。
そこへ黒札を差し込めばいい。
「二回目、ロッテ、札を渡す前に一歩下がって」
「はい!」
「エミル、返事を短く。声を張りすぎない」
「承知!」
「今の承知は長い」
「……はい!」
そこで小さな笑いが漏れた。
部屋の空気が少しだけ軽くなる。
建国祭前の書記室で笑っている場合ではないのだけれど、こういう軽さがあるほうが人は動きやすい。
三回目の通しで、初めて大きく止まった。
蒼の間の着席列で、年配の夫人役をしたマルタ女官が、わざとその場から動かなかったのだ。
「この位置では、わたくしの家格が軽く見えてよ」
いかにもありそうな言い方だった。
ロッテの顔が一瞬だけこわばる。
その顔を見て、私はすぐに動きたくなる。
でも、動かない。
「止まって」
私はそこで声をかけた。
「ロッテ、今の自分なら何と言う?」
彼女は一瞬だけこちらを見た。
助けを求める目だった。
でも私は頷くだけに留める。
「……本日は順にご案内申し上げております」
ロッテがどうにか言う。
「皆様のお足元が重ならぬよう、こちらの列で」
悪くない。
でも弱い。
マルタ女官はすぐに首を振った。
「それでは納得できないわ」
私は黒札を一枚取り、ロッテの前へ置いた。
「補助文言その一」
読み上げる。
「《《王妃宮のお目にもっとも入りやすい列でございます》》」
ロッテが、はっとしてそれをなぞる。
「王妃宮のお目にもっとも入りやすい列でございます」
マルタ女官が、そこでようやく満足そうに扇を引いた。
「……ならよろしいわ」
空気が少し戻る。
ロッテが小さく息を吐くのが分かった。
「今のが必要だったのですね」
エミルが言う。
「ええ」
私は頷く。
「ただ《《並んでください》》では足りない相手がいる。なら、返す言葉も先に見えるようにしておく」
これが、昨日から作っている仕組みの正体だった。
動線だけではない。
札だけでもない。
人が止まる場所で、どう言葉を置くかまで、見える形にする。
「見えない仕事は、たいてい言葉の順番でできているのね」
クラウディア次席儀礼官が、小さく言った。
「そうかもしれません」
私は答える。
「少なくとも、私はそういうところでずっと埋めてきました」
その言葉を、自分で口にして少しだけ驚く。
昔なら、こんなふうに言わなかっただろう。
でも今は、言ってもいい気がする。
ここには机があって、役目があって、そしてそれをちゃんと聞く人たちがいるから。
そこへ、不意にやわらかな声が落ちた。
「面白い考え方ね」
振り向くと、ヴァルブルク公爵令嬢がいつの間にか扉口に立っていた。
今日も淡い青の装いで、でも昨日より少しだけ肩の力が抜けて見える。
「仕事の段取りを、夫人方のご機嫌ごと見える形にするなんて」
彼女はそう言って、室内の札の動きを興味深そうに見回した。
「見えないままだと、また誰か一人が抱えることになりますので」
私が答えると、フロレンティアは頷いた。
「ええ。たぶんそうね」
それから、少しだけレオンハルト殿下のほうを見る。
でも、視線はすぐ戻った。
そのさりげなさが、余計に洗練されていて少し困る。
「今の夫人役、わたくしでもやってみてよろしい?」
その申し出は予想外だった。
けれど悪くない。
むしろちょうどいいと思う。
「お願いします」
私は黒札を一枚抜き取り、彼女の前に置いた。
「では、もう少し手強い方で」
フロレンティアの目が、ほんの少しだけ楽しそうに細くなる。
「受けて立ちますわ」
その軽やかさが、やはりこの人らしい。
次の通しで、フロレンティアは見事なくらい《《王宮の面倒な夫人》》を演じた。
しかも嫌味の置き方が絶妙で、ロッテが二度ほど本気で詰まりかけた。
でも、そこで黒札が活きる。
返しの文言。
引き渡しの位置。
誰が半歩前へ出るか。
全部を紙に落としていたおかげで、今までならその場の勘でしか埋められなかったものが、ちゃんと若手の動きになる。
「いいわね」
フロレンティアが、通しのあとで素直に言った。
「これなら、その場で一番できる人を一人擦り減らさなくて済む」
その一言に、私は少しだけ息を詰めた。
彼女はやはり、飾りではない。
見ているところが同じだ。
「気に入ったか」
レオンハルト殿下が、珍しく先に彼女へ問いかける。
「ええ」
フロレンティアは頷く。
「ですが、少し羨ましいですわ」
私は思わず顔を上げた。
羨ましい。
その言葉の意味を、うまく測れなかったからだ。
「何がですか」
私が訊くと、彼女はごく自然に言った。
「あなたが、その机を手に入れたことです」
それだけ言って、彼女はまた少しだけ笑った。
嫌味ではない。
本当にそう思っている顔だ。
「王宮で、自分のやり方を机ごと持てる人は、思っているより少ないの」
私は返事ができなかった。
そうかもしれない、と思ってしまったからだ。
この人もまた、違う形で見えないものを抱えているのかもしれない。
「でも」
フロレンティアは続ける。
「だからこそ、その机を放さないほうがいいわ」
その言葉が、なぜか強く胸へ残った。
競うような相手だと思っていたのに、彼女はむしろ今の私の足元を確かめるみたいなことを言う。
フロレンティアが去ったあと、私はしばらく札の上へ手を置いたまま動けなかった。
王弟殿下の隣に立つ席を、仕事以外の人も欲しがる。
そういう怖さは、たしかにある。
でも、その隣に立つかどうか以前に、私はまず自分の机を守るべきなのだと、彼女に言われた気がした。
「エルシェナ」
低い声で呼ばれ、私は顔を上げる。
レオンハルト殿下が、窓際からこちらを見ていた。
「はい」
「今日の通しは悪くない」
いつものように、それだけしか言わない。
でも、その「悪くない」の中に、今日は少し別の意味が混じっている気がした。
「ありがとうございます」
「……だが、浮つくな」
私は少しだけ目を瞬いた。
叱られているのではない。
たぶん、気を引き締めろという意味だ。
でも、その言葉の中にほんのわずかな《《他の何か》》が混じっているようにも聞こえた。
「はい」
私は頷く。
「建国祭が終わるまでは、札のことだけ考えます」
「それでいい」
短い返答。
それなのに、なぜか少しだけ胸が軽くなる。
見えない仕事を見える形にしていくこと。
自分の机を持つこと。
そして、その上でなお誰かの隣を考えること。
全部が同じ日に来る必要はないのだろう。
いまはまず、建国祭を止めないこと。
それだけで十分だ。
そう思えるくらいには、私はもう昔の私ではなかった。
次話は明日の19:40投稿予定です。
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