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婚約破棄しようとしたら冷たかった幼馴染に溺愛されました

作者: シャル爵
掲載日:2026/04/06


目が覚めた瞬間、アリシアはすべてを思い出した。

天井には白い石灰石の彫刻。香水とバラの匂いが混じった空気。絹のカーテン越しにさす朝陽が、部屋全体を金色に染めている。


「……嘘でしょ」


こぼれ落ちた自分の声に、彼女ははっとした。聞き慣れた声ではない。よく通る、凛とした少女の声だった。


彼女——もとい、前世の彼女は——平凡な日本人の大学生だった。ライトノベルを読み漁り、授業中も電子書籍を開いて怒られ、恋愛ゲームには課金しすぎて毎月末に後悔する、どこにでもいる女子大生。


そして昨晩(前世で言う昨晩だが)、ゲームのクリア直後、バスに轢かれてあっさりと命を落としたのだ。


「……まさか、転生したの……?」


呆然と呟きながら、鏡台の前に座る。銀細工の縁を持つ鏡の中に映っているのは、十六歳ほどの美少女だった。白金に近い銀色の髪が腰まで流れ、瞳は深い紫紺。肌は病的なほど白く、唇だけが淡い薔薇色をしている。

見覚えがありすぎる顔だった。


「アリシア・ヴァレンシア……」


このゲームのラスボスにして、最も嫌われたヒロインの敵役。王国最大の侯爵家の令嬢にして、王太子の婚約者。そして第一部の最後、断罪シーンで「国外追放」か「処刑」か、二択のバッドエンドを迎える悪役令嬢。

彼女は、よりによってそのキャラクターに転生してしまったらしかった。


「最悪すぎる……」


豪奢な寝室に、アリシアの弱々しい呟きだけが響いた。


***


記憶を整理するのに一週間かかった。

アリシア・ヴァレンシアとして生きてきた十六年間の記憶と、前世の二十一年間の記憶。どちらも確かに「自分」のものなのに、まるでちぐはぐな布地を縫い合わせたようにぎこちない。


ゲームの知識は、この転生において最大の武器になるはずだった。

主人公は平民出身の魔法使いの少女、ルシア。魔力の天才だが身分が低く、王立学院に入学してから多くの試練に遭う。そしてアリシアは、婚約者である王太子を主人公に「奪われる」のを恐れて、様々な嫌がらせをするようになるのだ。


結末は知っている。学院の卒業式に行われる断罪イベント。王太子、ヒーロー候補の四人、そして周囲の生徒たちが一斉にアリシアを糾弾し、追放か処刑を宣言する。


つまり今のアリシアは、その断罪エンドに向かってまっすぐ走る列車に乗っている状態だ。


「止まれるかどうかはわからないけど……やれるだけのことはやってみよう」


鏡の中の悪役令嬢に向かって、アリシアは自分自身に言い聞かせた。


***


まず着手したのは、婚約破棄だった。

原作のアリシアが王太子・エドワードに執着するあまり悪役化するのなら、最初から王太子への感情を断ち切ってしまえばいい。幸い、前世の彼女は恋愛ゲームを腐るほどプレイしてきた。「好感度の操作」については人一倍詳しいつもりだった。


エドワード王太子とは幼少期から顔見知りの仲だが、元々のアリシアの彼への感情は「恋」というより「所有欲」に近かったらしい。侯爵家の誇りとして「王太子の婚約者」という地位を手放せない、そういう意地っ張りな少女だったのだ。


「その執着、今の私には欠片もないわ」


むしろ王太子とは適切な距離を保ち、こちらから婚約を解消する算段を立てよう。主人公・ルシアが入学する前に先手を打っておけば、断罪イベント自体が起きないかもしれない。

計画は順調に思えた。


——しかし、想定外の問題が一つあった。

幼馴染の、ライナス・クロフォードだ。



ライナス・クロフォードは、ヴァレンシア侯爵家と並ぶ貴族の名門、クロフォード公爵家の嫡男である。

年齢はアリシアと同じ十六歳。


光の少ない金色の髪、彫刻的に整った顔立ち、どこまでも透き通った銀灰色の瞳。背は高く、物腰は洗練されていて、公の場では常に完璧な令息として振る舞う。


問題は、彼が「幼馴染」というくくりの中で、最も彼女に冷たかったことだ。 


ゲームの中でライナスは「攻略不可能キャラ」として登場する。ヒーロー候補四人のうちの一人ではなく、あくまで背景キャラ。断罪シーンでも感情を見せず「処罰は妥当かと」とだけ発言する、徹底的に冷淡な人物として描かれていた。


「アリシア。……顔色が悪いな」


アリシアが初めて彼と再会したのは、転生から三日後の茶会の席だった。

向かいに座ったライナスは、紅茶のカップを口に運びながら淡々と言った。感情の起伏がほとんど感じられない、まるで天気の話でもするような口調だった。


「……ええ。ちょっと疲れているだけよ」

「そうか」


それだけ言って、彼は窓の外に視線を移した。まるでアリシアへの興味が、その一言で完全に尽きたかのように。


(これがライナス・クロフォード……)


昔から変わらない、とアリシアは思った。社交的な義務として茶会に来るが、必要以上に言葉を発しない。笑顔を見たことがない。感情の温度を感じたことがない。


幼馴染とは名ばかりで、実態はほぼ赤の他人に近かった。


「ライナス様は、最近いかがお過ごしですか?」


話題を探して、アリシアは当たり障りのない質問を投げかけた。転生前の記憶を探っても、ライナスと二人きりで長い会話をした経験がほとんどない。どんな話題が好きか、何が嫌いか、まったくわからなかった。


「別に。いつも通りだ」

「……そうですか」

「アリシアの方こそ、最近何かおかしいようだが」


ふいにライナスがこちらを向いた。

細められた瞳が、ゆっくりとアリシアの顔を見る。品定めをするような、温度のない眼差しだった。


「おかしいって……何が?」

「声の調子。目の動き。以前と何かが違う」


アリシアは内心、ひやりとした。転生三日目。まだ完全にアリシアらしさを演じられていないのかもしれない。

「……体調を崩していたから、そのせいかもしれないわ」

「病気か? 医者には診せたのか」

「ええ、もうすっかり良くなったわ」

「そうか」


また短い返事。そして再び、窓の外へ視線を戻す。


(どうしてこんな人が「幼馴染」なのだろう……)


アリシアは心の中で苦笑した。少なくともライナスに関して言えば、断罪イベントに向けた「好感度の操作」などする必要すらない。最初から好感度がほぼゼロに近いのだから。


茶会が終わり、馬車で帰路につく。

窓から流れる街並みを眺めながら、これからの計画を頭の中で組み立て直す。エドワード王太子との婚約を自然な形で解消すること。主人公・ルシアが入学する前に、できるだけ「悪役令嬢フラグ」を潰しておくこと。

ライナスのことは、考えなくていい。

あの人は「関わらない人」のカテゴリーに入れておけばいい。

——そう、彼女は思っていた。


転生から二週間が経った頃、アリシアは侯爵家の庭園で一人、本を読む習慣をつけていた。


前世の記憶が戻ってから、貴族令嬢としての「社交的な義務」が重く感じられるようになっていた。茶会、音楽会、夜会。四六時中「悪役令嬢にならないよう」気を張り続けるのは、正直、精神的に疲弊する。


だから庭の隅にある藤棚の下が、彼女の逃げ場所になった。蔓に覆われた石のベンチに腰を下ろして、侯爵家の書庫から借り出した本を読む。植物学の図鑑だったり、遠い国の旅行記だったり、ときには詩集だったり。


「……こんな趣味、元のアリシアにあったかしら」


呟いて、少し笑った。前世の習慣が出ているな、と思う。日本にいた頃も、図書館の片隅でこうして一人、本を読んでいた。


「何を読んでいる」


突然、頭上から声がした。

顔を上げると、藤棚の入口にライナスが立っていた。白い詰め襟の制服姿——学院の夏服だ。どうしてここに、と思ったが、彼の邸宅はヴァレンシア侯爵家に隣接している。気晴らしに散歩でもしていたのかもしれない。


「植物学の本よ。珍しい花の記録集」

「……お前が植物に興味を持つとはな」

「人も変わるものよ」

「そうだな」


ライナスはしばらく動かなかった。立ち去るわけでも、近づいてくるわけでもなく、ただ藤棚の入口に佇んでアリシアの方を見ている。


「……座ってもいいわよ。うちの敷地だけど、あなたなら構わないし」

「いや、遠慮する」

「そう」


アリシアは再び本に目を落とした。少ししてから何となく気になって顔を上げると、彼はまだそこにいた。


「……何か用があるの?」

「いや」

「じゃあ、どうして……」

「日が当たっている」


ライナスは短く言った。


「この時間、ここが一番風通しが良い。それだけだ」


なるほど、とアリシアは納得した。彼も彼なりの逃げ場所を探していて、たまたまここに来たら先客がいた、ということらしい。


「邪魔だったら、向こうに行くけど?」

「いや……お前がいても別に構わない」


ひどい言い方だとは思ったが、ライナスにとってはきっと最大限の「残っていいよ」という意味なのだろう。アリシアは苦笑して、再び本のページを開いた。

それから不思議なことに、二人はしばらくの間、互いに声も交わさず、同じ藤棚の下に並んで過ごした。

沈黙は、思ったより不快ではなかった。


***


それが最初だった。


次の日も、ライナスは来た。その次の日も。雨の日以外は、ほぼ毎日。


会話はほとんどない。彼は自分でも本を持ってくるようになり、アリシアの向かいのベンチに腰を下ろして黙々とページをめくる。アリシアも自分の本を読む。

たまに視線がぶつかる。ライナスは何の感情も見せずに目をそらす。アリシアも同じようにする。


(……これって、友達なのかしら。それとも単なる隣人?)


帰り道、馬車の中でアリシアは一人考えた。

ゲームの中でのライナスは「冷淡」以外の形容詞がない人物だ。断罪シーンでも、感情を込めず、まるで書類を読み上げるように「処罰は妥当かと」と言った。

だが今の彼は——少なくとも、あの藤棚の下では——「冷淡」というより「無口」に近い気がした。


感情がないのではなく、感情の表し方を知らないか、または見せたくないか。


(まあ、どうでもいいか) 


アリシアには今、もっと大事なことがある。断罪エンドを回避するための計画だ。ライナスとの「なんとなく藤棚に共存する」関係は、害もなければ得もない。そのままにしておけばいい。


——そう、決め込んでいた。 



転生から一ヶ月が経った、秋のことだった。

その日、侯爵家の庭園に見知らぬ男が侵入していた。若い男で、剣を携えていた。貴族の服装ではなく、農民か傭兵かといった風貌。鋭い目つきが庭を見回しており、あきらかに「散歩」ではない。

アリシアが気づいたのは、ちょうど藤棚に向かう途中だった。


男と目が合った。男の視線がアリシアの顔に一瞬釘付けになり、素早く剣に伸びた。


——刺客だ。


頭が一瞬真っ白になった。これはゲームにあったイベントなのか、それとも転生によって生じた新たなトラブルなのか。考える間もなく、男が距離を縮めてくる。


「アリシア!」 


声と同時に、彼女の前に人影が割り込んだ。

ライナスだった。

彼は無言で男の剣を受け止め——いつの間に抜いたのか、一本の細身の剣が男の刃を弾いた。息をのむほど洗練された動き。感情の色は一切なかったが、その剣筋には凄みがあった。


「逃げろ!」


振り返りもせず、ライナスは鋭い声で言った。


「で、でも……!」

「早く邸の中に入れ! 走れ!」


アリシアは走った。後ろで金属のぶつかる音が続いたが、振り返らずに邸の中へ駆け込み、すぐに使用人たちに知らせた。衛兵が出てきた頃には、刺客はすでに取り押さえられていた。ライナスは浅い傷を腕に負っていた。


「ライナス……!」

「大した傷じゃない」

「そんなこと言って、血が滲んでるじゃない……」

「お前は……」


ライナスが、アリシアを振り返った。

その瞳が、いつもと違っていた。

感情がないとずっと思っていた目。透明な銀灰色の瞳が、その瞬間、何かを強く映していた。恐れとも怒りとも違う、もっと根の深い何かが、一瞬だけ水面に浮かびあがっていた。


「……怪我はないか?」


声が、いつもより低く震えていた。


「平気よ。あなたが助けてくれたから……」

「そうか」

彼は目をそらした。いつものように。

だがアリシアには、どうしてもあの一瞬の表情が頭から離れなかった。


(あの目は、何だったのだろう……)


***


刺客の正体は翌日判明した。エドワード王太子の側近の一人が雇った者だと、調査でわかった。


理由は単純だった。アリシアが最近、エドワードとの接触を意図的に減らしていたこと。「アリシアが他の男と親しくなっているのでは」という嫉妬めいた疑念が、歪んだ形で行動に出たらしい。 


(皮肉なことね。断罪エンドを避けようとして、別のトラブルを引き込んでしまうなんて)


「あなたが助けてくれなかったら、今頃どうなっていたか……」


包帯を巻かれたライナスの腕を見ながら、アリシアは痛ましそうに言った。


「たまたま、そこにいただけだ」

「それでもよ」

「偶然だ」

「偶然でも、ありがとう」


ライナスはしばらく黙っていた。


「……礼など要らない」

「でも言いたいの。あなたのおかげで助かったわ」

また沈黙が降りる。

「……来年、学院に入ることになるな」


突然、彼が言った。


「ええ、そうね。同い年だもの」

「ああ。だから言ったんだ」

「どういう意味?」

「学院でも、なるべくお前の傍にいる。……また危ない目に遭うかもしれないからな」


アリシアは目を丸くした。

ライナス・クロフォードが、今、何と言ったのか。あの「幼馴染の中で一番冷たかった」人物が、「傍にいる」と言ったのだ。


「どうして急に、そんな……」

「別に急な話じゃない」

「でも……」

「昔から……お前のことはずっと見ていた」


また、あの目だった。

窓から差し込む夕陽を受けて、銀灰色の瞳が細くなる。感情を押さえ込んでいるような、あるいは感情そのものが溢れるのを恐れているような、そういう繊細さがそこにあった。


「お前が、変わったからな」

「変わった?」

「以前のお前は、常に誰かと比較していた。王太子が、令嬢が、と。だが最近は、庭で一人本を読んで笑っている。誰の評価も気にせずに」


アリシアは言葉に詰まった。

それはまさしく、転生した彼女の変化だ。前世の記憶を持つ彼女は、貴族社会のくだらない序列争いに興味が持てなかった。それが「アリシアの変化」として、彼の目に映っていたのか。


「……ライナスも、見ていたのね」

「ああ」

「ずっと?」

「ずっとだ」


短い言葉なのに、不思議なほどその響きは重かった。




王立学院への入学は、春の第一週に行われた。

広大な敷地を持つ白亜の校舎、貴族の子息たちが集う場所。アリシアにとってはゲームの舞台が、ついに現実として目の前に広がった瞬間だった。


そしてやはり、主人公・ルシアが現れた。

茶色の髪を二つに結んだ、快活そうな少女。クラスの発表で彼女の名前が読み上げられた瞬間、アリシアは密かに身を固くした。 


ゲームの流れでいけば、これから彼女に敵意を向け、ちょっかいを出し、最終的に断罪イベントに向かっていくはずだ。


(——絶対に関わらない)


アリシアは固く誓った。

ルシアには近づかない。エドワードとも接触しない。ただ静かに、優等生として学院生活を送る。それが最善のシナリオのはずだ。

入学式が終わり、教室に向かう廊下で、隣に人の気配がした。


「アリシア」


ライナスだった。


「……同じクラスになったな」

「そうね」

「約束通り、傍にいるから」

「ちょっと、目立つんだけど……」

「構わない」


(全然構わないのね……)


とアリシアは内心苦笑した。

しかしクロフォード公爵家の嫡男が隣を歩くことで、周囲の視線が変わったのも事実だった。誰も彼女に軽率に近づいてこない。これはこれで「悪役令嬢フラグ」を潰す一助になるかもしれない。


「ねえライナス、あなたってもしかして、すごく策士なの?」

「違う」

「じゃあ、どうして……」

「ただ、傍にいたいからいるだけだ」


静かな口調でそう言われ、アリシアは返す言葉を失った。


***


三週間が経ち、学院の生活に慣れてきた頃、事件が起きた。

魔法の実技授業で、アリシアの練習場の足元に細工がされていたのだ。特定の魔法を発動した瞬間に爆発する術式が埋め込まれた罠で、もし気づかずに使っていれば重傷を負っていたはずだった。


犯人は後で判明したが——ゲームには存在しないキャラクターだった。彼女が転生したことで生じた、新たな「変数」によるトラブルだ。

しかしその罠に気づけたのは、一つの偶然によるものだった。


魔法を使おうとした瞬間、ライナスが彼女の手を掴んで引き止めたのだ。 


「待て」

「えっ、何……?」

「足元をよく見てみろ」


地面に目をやると、ほんのわずか、石畳の色が違う。よく見ると術式の痕跡が光を屈折させていた。魔法に精通していなければ気づかない微細な変化だ。


「……よく気づいたわね」

「昨日から、この辺りをうろついてる奴がいてな。少し、嫌な予感がしていたんだ」

「……嫌な予感?」

「お前の周りで何か起きるんじゃないかって……そう思っただけだ」


それだけで、気づいて、引き止めてくれたの? 


アリシアは呆然とライナスの横顔を見た。

長い睫毛。削ぎ落とされたような輪郭。いつも感情の読めない目。


「ライナス、あなた……」

「何だ」

「もしかして、私のこと……心配してくれたの?」

「……さあな」

「さあって、何よそれ」

「俺にも、よくわからないんだ」


そう言って、ライナスはどこか別の場所に目をやった。


「ただ、お前が怪我でもしたら……気になって寝られない気がする」

「……それ、世間じゃ『心配してる』って言うのよ」

「……そうか」

「そうよ」


彼は短く鼻から息をついた。それが、ライナス流の照れ隠しだと彼女が気づいたのは、しばらく後のことだ。




学院に入って三ヶ月が経った、夏の終わりのことだった。

放課後、図書館で課題をこなしていたアリシアは、窓から見える中庭に人影を見つけた。


ルシアとエドワード王太子だ。二人が何か楽しそうに話している。ゲームでいえば、ヒロインとメインルートのヒーローが「好感度上昇」している場面だ。

アリシアはそっと目をそらした。


嫉妬はない。未練もない。ただ、あの二人が幸せになれれば、断罪イベントも起きないはずだ——そういう安堵に近い感情だった。


「……見ていたのか」


隣の椅子を引いて、ライナスが腰を下ろした。


「ええ、少しだけ。でも、もう興味はないわ」

「殿下に、か?」

「婚約も、近いうちに解消するつもりなの。殿下が私に執着していたように見えたのも側近の暴走だし、殿下ご自身は前から……」

「ああ、知っている」


ライナスが遮った。


「殿下が、あの平民の魔法使いに惹かれているんだろう。随分前から気づいていた」

「じゃあ、婚約解消のことも……」

「お前がそれを望んでいることも、な」


アリシアは少し驚いて彼を見た。

ライナスは視線を窓の外に向けたまま、淡々と言葉を続ける。


「お前は、あの日から変わった」

「……また、その話?」

「いや、違う。もっと正確に言おう」


彼はゆっくりとアリシアの方を向いた。

いつもと変わらない顔。感情の薄い、銀灰色の瞳。

なのに、何かが違った。


「アリシア。お前は今の自分を、嫌いか?」

「……え?…何を、言って……」

「目つきが変わった時から、気づいていたんだ。一ヶ月くらい前から、お前はまるで別人のようになった。それに気づいてから……お前のことが気になって、仕方がなかった」


彼の手が、テーブルの上の彼女の手にそっと触れた。


「お前が本当は誰なのか、何を抱えているのか……全部はわからない。だが」

「……ライナス」

「怖いなら、教えてくれ。辛いなら、言ってくれ。俺は傍にいる。……ずっと前から、お前の傍にいたかった。ただ、どう伝えればいいのか、わからなかっただけなんだ」


テーブルの上で、彼の指がアリシアの手を包んだ。

冷えた指先だった。でも、震えていた。


「……ライナス、あなた、それって……」

「……好きだと言っているんだ」


直球だった。あまりにも直球で、アリシアはしばらく頭の中で言葉を処理できなかった。


ライナス・クロフォードが。あの「幼馴染の中で一番冷たかった」人物が。ゲームの中で一切の感情を見せなかった、あの人物が。

今、彼女の手を震えながら掴んで、好きだと言っている。


「ずっと、私のことなんて嫌いなんだって……冷たい人だって、思ってたのに」

「……そう見えたか」

「だって、いつも素っ気ないし、私に興味なんてなさそうだったから」

「……お前の前だと、どう振る舞えばいいかわからなかったんだ。昔からずっと」

「昔から?」

「ああ。五歳の頃からな」

「十一年間も!?」

「お前は俺になんて興味なさそうだったし……話しかけてくるときは、いつも王太子のことばかりだっただろう」


なるほど。そういうことか。

かつてのアリシアが王太子への執着を強めていくほど、ライナスは「必要とされていない」と感じて、距離を置いていったのかもしれない。感情を表すことが苦手だから、冷淡に見えた。でもずっと、傍にいたかったのだ。


「……もう、バカね」

「……違いないな」

「もっと早く言ってくれればよかったのに」

「……俺に、そんな器用な真似ができると思うか?」

「ふふっ、確かにそうね」


アリシアは思わず笑った。

そしてゆっくり、指に力を入れて、彼の手を握り返した。


「ねえ、ライナス。私にも言わせて」

「……何をだ」

「私、あなたのことが好きよ。たぶん……もっと早くから惹かれていたのに、認めるのが遅かっただけね」


ライナスが、息をのむ気配がした。 


顔を上げると、あの銀灰色の瞳がアリシアを見ていた。驚いたような、信じられないような、それでいて確かな喜びが、その目の奥に宿っていた。


初めて見た。ライナス・クロフォードの感情が、こんなに真っ直ぐに、こんなに不器用に、こんなに全部こちらに向いているのを。


「……本当、なのか?」

「ええ、本当よ」

「さっき、俺のことを冷たいと言ったばかりじゃないか」

「もう冷たいだなんて思ってないわ。少し不器用なだけで……本当は、すごく温かい人だってわかったから」

「……買いかぶりすぎだ」

「ふふっ。じゃあ、これから時間をかけて証明してね」


彼はしばらく黙っていた。

それから、ほんのわずか。口の端が、かすかに上がった。


「……ああ、そうさせてもらう」


それが、ライナス・クロフォードの笑顔だった。小さくて、不慣れで、どこかぎこちなくて——でもアリシアには、今まで見た中で一番きれいな笑顔に見えた。




エドワード王太子との婚約は、その年の秋に円満に解消された。


殿下もルシアへの想いに正直になり始めていたため、話は驚くほどあっさりと進んだ。「アリシアの方から申し出てくれてよかった」とエドワードに言われたのは、少し複雑な気持ちだったが。

断罪イベントは、起きなかった。

いや、正確には、「起きかけた」。


ある夜会で、ルシアに意地悪をしようとした貴族の娘たちが、「アリシアもきっと同じ気持ちのはずだ」と彼女を巻き込もうとしたのだ。


アリシアは丁重に断り、その場を立ち去った。後ろでひそひそ声が聞こえたが、翌日には何事もなかった。ルシアとは顔を合わせれば軽く会釈する程度の、ごく普通の関係になった。


「意外と、何とかなるものね」


ある午後、藤棚の下でアリシアがそう言うと、隣でライナスが本から顔を上げた。


「……何がだ?」

「普通に生きることよ。……悪役みたいにならずに済むってこと」

「……お前は、最初から普通だっただろう」

「あなたにはそう見えたかもしれないけど、私、これでも結構必死だったのよ?」

「……そうか」

「ちょっと、そこはもう少し共感してくれない?」

「……お前が一人で必死にもがいていたのは、わかっていたさ」

「……だから?」

「だから、傍にいたんだ」


アリシアは本を閉じて、隣を見た。

ライナスは相変わらず視線を本に落としたまま、短い言葉を返してくる。感情の色は薄い。表情の変化は少ない。


でも、今のアリシアにはわかる。

彼が「傍にいる」と言う時の意味が。「そうか」と短く返す時の重さが。本のページをめくりながらも、常に彼女の気配を確かめている横顔が。


「ねえ、ライナス」

「何だ」

「……ありがとう」

「……また、それか」

「また言うわよ。これからも、ずっとね」

「……好きにしろ」


口の端が、またかすかに動いた。

藤棚の葉の間から、秋の陽が差し込んでいた。二人分の影が、石畳の上に並んで落ちている。

アリシアはもう一度、本を開いた。


風が吹いて、藤の葉が揺れる。隣から、わずかな気配。


「……少し、寒くなってきたな」

「そうね」

「上着でも持ってくればよかった」

「私のショール、貸してあげましょうか?」

「……いや、いい。それよりも……」


ライナスが本を閉じ、静かにアリシアの肩に手を置いた。


「こうしていればいい」


たったそれだけ。

それだけで、全部わかった。

彼女は微笑んで、その重さにそっと寄りかかった。

 


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