第9話 村はずれの夜に、火の気は少ない方がよい
その日は、どうにも寝ぐらの定まらぬ日であった。
いや、わしの日というものは大抵そうなのだが、それにしても落ち着かぬ。市の帰りにあの娘――勝手に“猫目”と名づけた目つきの悪い娘――とまた顔を合わせ、知り合いの顔はするななどという無茶な捨て台詞をもらってしまったせいもあるだろう。
知り合いの顔はするなと言われても、知り合いになってしまったものは仕方がない。人は、顔を合わせて、言葉を交わして、足を掛けられて、守りを拾えば、もうそれなりに縁ができる。望もうが望むまいが、そういうものだ。
もっとも、向こうがその縁をありがたがっておるとは、とても思えぬが。
「……やれやれ」
夕暮れの城下を離れながら、わしはひとりごちた。
日はすでにだいぶ傾き、空の赤みも薄れてきている。城下に留まって、どこぞの軒先へ転がり込む手もあったが、今日はなぜか人の多いところにおる気になれなかった。市のざわつき、うつけの噂、猫目の顔、あの守りの感触。胸の中が妙に騒がしく、静かなところで頭を冷やしたくなったのである。
だからわしは、城下から少し離れた村はずれの道を歩いていた。
春の夜は、油断するとまだ冷える。昼のぬくさに騙されて薄着で出ると、夕方には風の冷たさが骨へしみる。田の水は薄く光り、畦の草は夕闇に沈み、遠くで蛙が先走って鳴いている。土の匂いは昼より濃く、湿り気を帯びていた。
こういう時間の村はずれは嫌いではない。
人の営みがまだ消えず、だが昼の喧噪はもう遠い。炊事の煙が屋根の向こうに薄くのぼり、犬の吠える声がどこかで返り、飯の匂いだけがやけに生々しく流れてくる。
――飯の匂い。
「腹が減るのう……」
さっき市で残り物を少し恵んでもらったとはいえ、若い男の腹というやつは実に際限がない。昨日よりまし、という程度では、すぐにまた次を求めてくる。
だが今日のところは、腹ばかり気にしてもおれぬ気分でもあった。
城下から村へ抜ける道は、昼の間は荷馬や百姓が行き交うが、夜に近づくとぐっと人影が減る。減るからこそ、見えるものもある。
たとえば、遠くの明かりの揺れ方。
たとえば、風の乗り方。
たとえば、人の声が急に高くなる時の気配。
わしがそれに気づいたのは、曲がりくねった畦道の向こうで、急に誰かが叫んだからであった。
「火だ! 水を持て!」
「納屋だ、納屋の裏だ!」
「早うせい!」
火。
その一字を聞いた時には、もう足が動いていた。
火事というものは厄介だ。ひとつの家が燃えるだけでは済まぬ。村の家は寄り添って建ち、納屋には藁があり、藁が燃えれば火は走る。火は百姓にとって、煮炊きにも灯りにも要るが、ひとたび牙を剥けば田畑より先に暮らしそのものを焼いてしまう。
わしは草履を鳴らしながら走った。
村はずれの小さな集落に着くと、そこではすでに人がわらわらと動いていた。納屋の脇、屋根の下あたりから火が上がり、乾いた藁に移りかけている。まだ大火というほどではない。だが、放っておけば危うい。
「水桶を回せ!」
「そっちから土をかけろ!」
「子どもは下がらせろ!」
怒鳴り声、泣き声、桶のぶつかる音。夜気の中で火だけが妙に鮮やかに見える。
わしは近くの桶をひったくると、井戸の方へ走った。こういう時、考えておる暇はない。まず火を殺す。話はそれからだ。
「おぬし、何をぼさっとしておる! こっちの縄を解け!」
「はいよ!」
「そこの板を外せ、延焼したらまずい!」
誰かに怒鳴られるたび、返事だけはよくして走る。こういう時のわしは便利なのだ。どこの村の者でもないから、変に遠慮せず手が出せる。逆に言えば、見ず知らずでも動かねば誰も気に留めぬ。根なし草のよさというやつである。
水を汲み、桶を渡し、濡らした筵を屋根へ投げ、薪の束を退かす。煙が目にしみ、喉が焼ける。火のそばは熱いくせに、背中には夜風が冷たい。
だが、火そのものは大きくない。
あれ、と、わしは作業の合間に思った。
火はたしかに危ない位置から出ておる。だが勢いが妙だ。失火なら、もっと広く藁へ噛みつくはずだし、炊事の火が移ったなら、火元はもっと家寄りになる。これは、納屋の裏手、しかも壁際からちろりと舐めるように立ち上がっておる。
「誰ぞ、火種を見た者はおらぬか!」
と、年寄りの声が飛ぶ。
「鍋の火じゃないのか?」
「違う、今は炊きの時刻ではない!」
「灯りが倒れたか?」
「納屋の外に灯りなど置くか!」
村人らも、ただの失火とは思うておらぬらしい。
わしは濡れ筵を押し当てながら、周りの言葉に耳を澄ませた。
「この頃、変な者が道をうろついとると聞いたぞ」
「昼間も、田のあたりを見ておる男がおった」
「男か?」
「いや、よう見えなんだ」
「この辺り、探りが増えとるのは本当じゃ」
「村の入りを数えとるような目つきの奴がなあ……」
探り。
その言い方が耳に引っかかった。
ただの盗人なら盗人と言うだろう。だが“探り”というのは、もっとこう、村の中身を見て回る者のことだ。どこに何があり、誰が何人おり、どの納屋に藁が積まれておるか。そういうものを見ていく者。
火はようやく弱まり始めた。何人かが一斉に土を投げ、最後の火の気へ水を浴びせる。じゅっと嫌な音がして、煙ばかりが濃くなる。
「よし、そこで抑えろ!」
「火はもう広がらんぞ!」
「まだ油断するな!」
ひとまず、大事には至らず済みそうだ。
わしが額の汗を袖で拭ったその時、背後から鋭い声がした。
「おぬし、またおるのか」
振り返ると、そこに立っていたのは、以前村境の水争いの時に顔を合わせた娘であった。
農村娘――名はまだ聞いておらぬが、こちらをまるで胡散臭い荷物のように見る、あの娘である。年はわしとそう違わぬ。頬は日に焼け、髪はざっくりと結ばれ、袖はたすきでしっかり上げてある。村娘らしい丈夫な足つきだが、ただ柔らかいだけの女ではない。地に足がついておる。
わしはにやりと笑った。
「火事場でも再会するとは、なかなか縁が深いのう」
「軽口は後にせよ」
「相変わらず、よう働く娘じゃ」
「おぬしが喋っておる間にも、水桶ひとつ運べる」
まことにもっともである。
わしは大人しく桶を受け取った。娘はそういうところがある。余計なことを言う男に、余計な余地を与えぬ。おつねの棘とは違う、土の固さのような棘だ。
「納屋の中は無事か」
と、わしが聞く。
「半分はな。藁束が少しやられた」
「火元は」
「裏だ」
「やはり」
「やはり、とは何だ」
「失火には見えぬ」
娘の目がすっと細くなった。
「おぬしもそう思うか」
「思う。火のつき方が妙じゃ。しかも人の目につきにくい側を狙っておる」
「……」
娘は少しだけ黙り、それから小さく鼻を鳴らした。
「軽いくせに、見るところは見ておる」
「褒められたか」
「まだだ」
「では、そのうち頼む」
「そのうちもない」
ほんに手厳しい。
だが、さっきまでわしを完全に“邪魔な男”として見ておった目が、ほんの少しだけ変わったのは分かる。火を消す時、人は役に立った者を完全には追い払えぬ。
村人たちは納屋の周りへ集まり、口々に話し始めていた。
「誰かおったのではないか」
「犬も吠えなんだぞ」
「昼間、見慣れぬ者を見たという話もある」
「この頃、村をうかがうような奴がおるのは本当だ」
「年貢か、盗人か、それとも――」
最後の言葉は濁った。
年貢、盗人、それ以外。
そういう濁し方は嫌いではない。人がはっきり言わぬ時は、大抵そこに一番厄介なものがある。
農村娘が、火の消えた納屋の脇を見ながら言った。
「村の者は、こういうのが一番嫌なんだ」
「火事か」
「火事もだが、“誰が何のためにやったか分からぬ火”だよ」
「ふむ」
「田が荒れる、年貢が重い、そういう苦しさはまだ腹を括れる。だが、見えぬものが村を見ておると思うと、寝る時まで落ち着かぬ」
その言葉には、城下にはない重みがあった。
城下の者は、人と噂の多さに慣れておる。面倒も“来るもの”として受ける。だが村の恐れは違う。村は狭い。狭いところで暮らしが近いぶん、ひとつの火、ひとつの足跡、ひとつの見知らぬ影が、そのまま夜の恐れになる。
土地に根を張っておる者の怖さだ。
わしのように、今日の寝床を変えられる男には、その恐れは少し鈍いのかもしれぬ。
「おぬしは」
と、娘がふいに言う。
「こういうのも、面白がるのか」
「火事をか」
「違う。匂いのせぬ厄介ごとを」
わしは少し考えた。
「面白がる、というのとは違うな」
「では何だ」
「鼻につく」
「鼻につく?」
「うむ。どこかで何かが動いた時の匂いが、少し鼻につく。そうすると、見過ごせぬことがある」
娘はわしをじっと見た。
その目には、信用も不信も半々に混じっている。簡単には人を信じぬ目だ。百姓の娘は大抵そうである。いや、百姓に限らぬか。だが、この娘のそれは、特に“今日食う米の分だけ人を見る”目をしておる。
「おぬしは」
と、娘。
「口だけの男かと思うたが、少し違うのかもしれぬ」
「今のはだいぶ褒めておるな」
「半分だ」
「では、残り半分は」
「面倒を呼び込みそうな顔をしておる」
「それはよく言われる」
「やはりな」
やはり、で片づけられてしまった。
その時、村の年寄りのひとりが納屋の裏を見て首を振った。
「火種は残っておらぬ」
「じゃあ、誰かが持ち込んだのか」
「それも分からぬ」
「足跡は?」
「人が集まって分からんようになった」
その言葉に、わしはぴくりとした。
足跡。
火事場というものは、火を消した後の方が物が残ることがある。人が慌てておる時ほど、肝心なものを踏みつけぬまま残す場合もあるのだ。
「少し見てくる」
と、わしは言った。
「何を」
と、農村娘が怪訝な顔をする。
「火の外れじゃ。人が集まりすぎぬところなら、何か残っておるやもしれぬ」
「勝手なことをするな」
「勝手は得意でな」
「威張るな」
言われながらも、わしは納屋の脇から少し外れた畦の方へ回った。
火元そのものは踏み荒らされておる。だが、そこからほんの少し離れた、藁を運ぶための細い通い道は、まだ人の足が少ない。夜露の気配を含んだ柔らかい土が、いくつかの跡を受けておる。
村人の草履。裸足の子ども。急いで走った男の深い踏み込み。そこに混じって――
「ほう」
わしはしゃがみ込んだ。
細い。
草履の跡にしては幅が狭い。しかも踵の沈み方が軽い。男衆の足ではない。村の年寄り女の足とも違う。もっと重心が前にあり、歩幅が無駄に小さくない。普段から動く者の足だ。
畦から納屋裏へ向かい、途中で向きを変えておる。その返しが妙に鋭い。ためらいがない。しかも足の先が少し内へ入る。あれは女の足だ。
わしは土へ指をかざしたまま、小さく呟いた。
「女……じゃな」
後ろから近づいてきた農村娘が聞き返した。
「何だ」
「足跡じゃ」
「分かるのか」
「少しはな。細くて軽い。村の男ではない。しかも火事場へ駆け寄った足ではなく、火元の方から離れた足に見える」
「……女の足だと?」
「たぶん」
娘は隣へしゃがみ込み、わしの指さす先を見た。
夜の色が濃くなり始めており、見やすいとは言えぬ。だが一度見えれば、たしかに普通の足跡とは違う。
「村の娘か?」
と、娘が言う。
「どうじゃろう」
と、わしは答えた。
「村の娘なら、もっと土の踏み方が重い。水桶や薪を運ぶ足は、こういう抜けるような残り方をせぬ」
「じゃあ誰だ」
「それはまだ分からぬ」
分からぬが――胸のどこかで、ひどく嫌なものが小さく鳴った。
寺の裏で会うた、あの娘の軽い足。
城下の路地で、人を尾けてきた者の静かな足。
守りの結び目の癖。
そして今、村はずれの納屋裏に残る、妙に軽い女の足跡。
繋がっておると決めるのは早い。早いのだが、鼻の奥に残る匂いが似ている。
農村娘が低く言った。
「おぬし、変な顔をしておる」
「そうか」
「ろくでもないことを思いついた顔だ」
「それもよく言われる」
「よく言われすぎだ」
その言葉に、わしは少しだけ笑った。
笑ったが、目は足跡から離せなかった。
村はずれの夜に、火の気は少ない方がよい。
それは火が怖いからだけではない。火の向こうに、見えぬ誰かの思惑が透けて見える時、人はようやく“ただの火事ではない”と知るのだ。
そして今、納屋裏の土には、その“誰か”が、ほんの少しだけ足を残していったらしい。




