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第8話 終いにせよと言われて、終われる男ではない

「これで終いにせよ」


あの娘は、たしかにそう言った。


夕暮れの路地で、守りを取り戻し、借りは作ったとだけ言い残して、風のように消えていった。あれきり背を見せ、もう会うこともあるまいという顔で去ったのである。


もっとも、そういう顔で去る者ほど、妙に後を引く。


わしは路地の出口まで歩きかけて、ふと立ち止まった。


「……終いにせよ、か」


口に出してみる。


なるほど、もっともな話である。わしのような定まりのない若造が、寺の裏で何やらしておる得体の知れぬ娘に関わってよい道理はない。向こうがそう言うのも当然だし、こちらも頷いておくのがたぶん正しい。


正しいのだが。


「誰に向かって言うておるのやら」


わしは一人でにやりとした。


終われる男なら、最初から寺の裏へ忍んだりはせぬ。あの小さな布守りを懐へ入れて持ち歩いたりもしない。ましてや、守りを返したあとでさえ、あの娘の背を目で追うような真似はせぬ。


つまり、今さらである。


「せめて名くらい知っておかねば、後で道端で踏みつけても呼びようがないではないか」


理屈としてはだいぶおかしい。だがわしは、そのおかしい理屈を胸に、娘の消えた方角へ足を向けた。


夕暮れの城下は、人が引くようでいて、別の人が出てくる時刻でもある。昼の市を片づける者、夜に備えて戸を閉める者、酒を求めてうろつく者、どこぞの屋敷へ走る小者。光が薄くなると、人の顔つきも少し変わる。昼の顔を仕舞い、夜の用心を出すのだ。


あの娘は、そういう変わり目に紛れるのがうまい。


路地を抜けた先、井戸端の影、板塀の角、干し物の下、荷車の陰。きっと遠くへは行っておらぬ。行っておらぬが、何も知らぬ者には気づかれぬように動く。そういう足である。


わしは通りへ出ると、わざと何でもない顔で歩き始めた。


目だけを使う。きょろきょろせず、顔は前へ。耳と横目で拾う。こういう時、あからさまに探しておる顔をすると、逆に相手を逃がす。


すると、すぐに見つかった。


少し先の角を、灰色の小袖の裾がひらりと曲がった。娘だ。あの歩幅、あの体の軽さ。間違いない。


「おおい」


わしは声をかけた。


当然のように、娘の背がぴたりと止まる。


止まってから、ものすごく嫌そうに、ゆっくり振り返った。


「……何だ」

「終いにせよと言われて、少し考えた」

「で」

「終われぬことが分かった」

「それはおぬしが阿呆なだけだ」


ひどい。だが間違っておらぬのが腹立たしい。


娘は通りの端へ寄り、行き交う人の邪魔にならぬよう立った。立ちながらも、背後の路地と左右の気配へ意識を配っておるのが分かる。ほんに落ち着かぬ娘だ。


わしはそんな彼女の前まで行って、腕を組んだ。


「のう、ひとつだけ聞こう」

「嫌だ」

「まだ何も言うておらぬ」

「聞かずとも分かる」

「名じゃ」

「やはりな」

「やはりな、ではない。人には名がある。あるなら教えよ」

「要らぬ」

「おぬし、ほんにそればかりじゃのう」

「何度も言うた方が、おぬしのような男には効く」

「効いておらぬが」

「見れば分かる」


娘はそう言って、少しだけ目を細めた。


怒っておるというより、呆れておる顔である。寺で会うた時の冷えた刃のような顔と比べると、ほんの少しだけ年相応に見える。もっとも、そう思った途端にまた鋭くなるので、油断ならぬのだが。


「名を聞いてどうする」

と、娘が言う。

「今後、会うた時に呼ぶ」

「会わぬ」

「会う」

「会わぬ」

「会うておるではないか、今」

「今のことを言うておるのではない」


面倒な言い回しをする娘である。


わしは肩をすくめた。

「では、今後に備えて今のうちに聞いておく」

「備えるな」

「ひどい」


娘はふっと息を吐いた。笑うたのではない。呆れを吐き出したのである。


それでも帰らぬということは、ほんの少しは相手にする気があるのだろう。でなければ、さっさと細路地へ消えるだけだ。そういう娘である。


「おぬし」

と、娘が言う。

「なぜそこまで人のことを知りたがる」

「面白いから」

「最低だな」

「嘘をつけぬ質でな」

「それを誇るな」

「では半分だけ言い直そう。面白いし、危ういし、放っておけぬ」

「もっと悪い」


本気で嫌そうな顔をされた。


だが、その嫌そうな顔の奥で、娘の目が少しだけ変わったのをわしは見た。ほんのわずかだ。表面の棘はそのままに、内側で何かを測り直した目である。


わしがただの無駄口男ではなく、多少は本気で言うておると気づいた時の顔だ。


娘は腕を組んだ。

「放っておけぬ、か」

「うむ」

「寺の裏を覗き、守りを嗅ぎ、尾けられても気づいておった男の言うことは違うな」

「褒めておるか」

「気味が悪いと言うておる」

「それもよく言われる」

「よく言われすぎだ」


その返しが少しだけ早かった。


やはり、この娘、こちらの調子に引きずられかけることがある。真面目な顔を崩さぬようにしておるが、間の詰め方が時々乱れるのだ。そこが面白い。


「のう」

と、わしはまた言う。

「おぬし、どこぞへ属しておるのう」

娘の目がぴくりとした。

「何の話だ」

「寺の坊主ではない男と話し、城下を一人で歩いても怖がらず、守りひとつ失えば追ってくる。しかも、名を隠すのは“隠したい”というより“そういう決まり”がある者の隠し方じゃ」

「……」

「村娘のふりも、町娘のふりも、板についておる。つまり、最初から誰かにそういうことを仕込まれておる」

「口を閉じよ」

「当たりか」

「閉じろ」


娘の声が少し低くなった。


周囲に人目がある以上、怒鳴りはせぬ。だが、その静かな言い方の方が、かえって本気である。


わしは慌てて両手を上げた。

「分かった、分かった。大きな声では言わぬ」

「大きさの問題ではない」

「では小さな声で」

「そういうことでもない」


ほんに、容赦がない。


だが、今の沈み方で分かった。やはりこの娘は、どこかへ属しておる。家か、組か、忍びの類か、そこまでは分からぬ。だが、ただ一人で気ままに生きておる者の顔ではない。ひとりで動いておるように見せて、その実、背後に何かを背負うておる顔だ。


娘はしばらく無言でわしを見ていたが、やがてぽつりと言った。


「おぬし、妙なところばかり見よる」

「よう言われる」

「耳もだ」

「耳も悪くない」

「鼻も利く」

「腹も鳴る」

「最後のは知るか」


あ、今のは少し面白かったのではないか。


わしがにやりとしたのを見て、娘はすぐ顔をしかめた。

「その顔をするな」

「どの顔じゃ」

「いかにも“今、少し笑わせたろう”という顔だ」

「心を読むのがうまいのう」

「おぬしが分かりやすすぎる」


それは否定しづらい。


通りの向こうを、荷を担いだ若い男たちが通っていく。娘はその一団へ一瞬だけ視線を投げ、またすぐこちらへ戻した。癖のようなものだ。人の出入り、足運び、誰がどこへ目をやるか。そういうものを、常に拾っておる。


「のう」

と、わしは少し声を落とした。

「おぬし、疲れぬか」

娘が怪訝そうに眉を寄せる。

「何がだ」

「何でも見て、何でも気にして、名まで隠して生きるのは」

「……余計なお世話だ」

「そうかもしれぬ」

「そうだ」


即答である。


だが、その返しの前にほんのわずかな間があった。ほんの、米粒ほどの間だ。たぶん誰も気づかぬ。だがわしは気づいた。


疲れぬわけではないのだろう。


生きるためにそうしておるだけで、好きで棘だらけの顔をしておるわけではない。そう思うと、少しだけ胸がむずむずした。


「よし」

と、わしは言った。

「名を教えぬなら、勝手に呼ぶことにする」

娘の顔が露骨に嫌そうになる。

「やめろ」

「やめぬ」

「碌でもないことを考えておる顔だ」

「失礼な。すでに決めた」

「決めるな」

「おぬし、目つきがいかにも鋭いのでな……」


わしは娘の顔をじっと見た。


やはりよく整っておる。きつい目だが、ただ怖いだけではない。山猫のような気配がある。夜でも道を迷わず走り、誰かに投げられた石など簡単にかわしそうだ。


「――“猫目”でどうじゃ」

と言うてみた。


娘はしばし黙った。


夕方の通りの音が、妙に遠く感じるほどの間であった。


それから、娘は信じられぬものを見るような顔をした。


「……猫目?」

「うむ。目つきがよい」

「よくない」

「いや、よい。怖いがよい」

「褒めておるのか、喧嘩を売っておるのか、どちらだ」

「半々」

「最悪だな」


そう言うた娘の声が、ほんの少しだけ上ずった。


おや、と思う。


今のは、怒ったのではない。調子を崩したのだ。あの娘ほどの者が、あだ名ひとつで崩れるとは思わなんだ。勝手につけたこちらが言うのも何だが、だいぶ面白い。


「猫目」

と、わしはもう一度呼んでみた。

「呼ぶな」

「よい名ではないか」

「よくない」

「ならば“足掛け娘”」

「もっと悪い」

「では“脅し声”」

「今ここで本当に脅してやろうか」

「猫目でよいな」

「よくない!」


娘はとうとう、はっきりと嫌そうに顔をしかめた。


だが、嫌がるほどに、頬のあたりへ少しだけ生気が差して見える。寺で見たような、あの冷ややかな無表情ではない。こいつ、と本気で思うた時の、年相応の娘の顔だ。


それが妙に嬉しくて、わしはつい笑ってしまった。


「おぬし」

娘が言う。

「わざとか」

「何がじゃ」

「人の調子を乱すのが」

「いや、だいたいは生まれつきじゃ」

「最悪だ」


その“最悪”の言い方が、もう最初ほど鋭くない。


娘はそれに気づいたのか、ふっと口をつぐみ、少しだけ目を伏せた。しまった、という顔ではない。もっと嫌な顔だ。自分がこのやり取りに巻き込まれておると自覚した時の顔である。


わしはその隙に、さらに一歩だけ踏み込んだ。

「猫目」

「……」

「やはり名は教えぬか」

「教えぬ」

「どこから来た」

「答えぬ」

「誰の下だ」

「答えぬ」

「何をしておる」

「答えぬ」

「腹は減らぬか」

「……」


今度こそ一拍あった。


勝った、と思うたのも束の間、娘はそっぽを向いて言った。

「減る」

「おお、そこは答えるのか」

「人だからな」

「よいではないか。急に近し」

「近くない」


そう言いながらも、娘の目がほんの少しだけ柔らかくなった気がした。ほんの少しだ。本当に少し。だが、最初に寺で足を掛けられた時からすれば、だいぶ大きな違いである。


娘はその変化を隠すように、すぐ背を向けた。


「もう行く」

「猫目」

「呼ぶな」

「また会うぞ」

「会わぬ」

「会う」

「……」


娘は二歩、三歩と歩き、それからふと足を止めた。


ほんの一瞬だけ、迷うような間がある。


そして、思わず、というふうに振り返った。


夕暮れの薄い光の中で、その目がまっすぐこちらを射る。


「……次に会うても、知り合いの顔はするな」


それだけ言うと、娘は今度こそ人波の向こうへ消えていった。


残されたわしは、しばらく通りの真ん中で立ち尽くした。


知り合いの顔はするな、とは、なかなか難しい注文である。足を掛けられ、脅され、守りを拾い、あだ名までつけた相手に、今さら何の顔をしろと言うのか。


わしは空を見上げて、小さく笑った。


「無茶を言う娘じゃのう」


だが、その無茶が少しばかり嬉しかったのも、また事実である。

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