第7話 拾った守りと、面倒ごとの匂い
人は皆、余計なものを懐へ入れて歩く。
銭のある者は銭を入れ、色事に浮かれる者は文を入れ、寺へ通う者は守り札を入れる。武家なら家の面子、商人なら勘定、百姓なら明日の天気まで、見えぬものを胸に抱えて生きておる。
そういう意味では、わしも今、ひどく人並みであった。
懐の内に、小さな布守りがひとつ。
寺の裏手で、あの目つきの悪い娘が落としていった品である。返すつもりはある。いや、本当にあるのだ。あるのだが、その“返す”というのは、存外に難しい。どこの誰かも分からぬ娘に、どうやって返せというのか。しかもその娘は、会うたびに人を脅し、足を掛け、ついでに命が縮むぞなどと物騒なことまで言う。
「返さぬ方が、まだ安全なのではないか」
そう口に出してみたが、すぐに首を振った。
いや、それはいかん。いかんというより、面倒の種を懐に抱えて歩くようなものだ。しかもあの娘の持ち物だ。持っておるだけで、ろくでもないことを引き寄せそうである。
それなのに。
それなのに、わしは市の帰り道、人気の少ない裏通りへ入ると、ふと足を止めてその守りを取り出してしまった。
夕方の城下は、昼の騒がしさがまだ抜けきらぬまま、どこか疲れた顔を見せる。市を終えた者は荷をまとめ、売れ残りに舌打ちし、早く帰って飯にありつきたい者は足を急がせる。通りの端では、野良犬が魚の骨を取り合って唸り、軒先では女が桶の水を替えておる。そんな人の流れから少し外れた路地は、昼よりも物音が澄んで聞こえる。
わしは板塀の陰へ寄り、掌の上に守りを乗せた。
小さい。
指でつまめるほどの布袋だ。地味な色で、土でも灰でもない、中途半端に目立たぬ色をしておる。こういう色は面白い。わざわざ選ばねば、このような“目立たぬ目立ち方”にはならぬ。
「村娘の持ち物では、ないのう……」
指先で布をなぞる。
布地は丈夫だ。安い木綿ではない。絹ほど上等でもないが、擦れに強く、しかも水に濡れてもすぐへたらぬような織りだ。農家の娘が日常で持つには少し不釣り合いで、武家の姫君が持つにはあまりに実用向きすぎる。
結び目も妙であった。
ただ縛っただけではない。ほどけにくく、それでいて一息で解けるように結ばれておる。旅慣れた者か、荷を扱う者か、あるいは道具を素早く出し入れする者の手癖だ。寺の守り袋のような“飾りの結び”ではない。
そして香。
鼻を近づけると、ほんのかすかに、乾いた匂いが残っていた。白檀ほど重くない。花の香でもない。香木に薬草を少し混ぜたような、あの娘が近くにおった時にふっと感じた匂いだ。汗や土の匂いを消すために使うておるのかもしれぬ。そうだとすれば、やはり“人の目を気にして動く者”の持ち物である。
「ほれ見よ」
わしは守りへ小さく言った。
「おぬし、ただの娘の品ではないではないか」
もちろん、守りは答えぬ。
答えぬが、ますます気になる。
中に何が入っておるのか確かめる手もある。結び目を解いて見ればよい。だが、それはさすがにまずい。返すべきものを勝手に開けば、たとえ中身が米粒ひとつでも、こちらの分が悪い。
何より、あの娘に知られた時が怖い。
「……いや、知られずとも怖い顔をしておるが」
思い出しただけで、耳元にあの低い声が蘇る。
見たことは忘れよ。
忘れねば、命が縮むぞ。
命が縮むと脅した娘の持ち物を、こうして人目の少ない路地で眺め回しておるのだから、わしも大概である。どう考えても、長生きする手合いの振る舞いではない。
そう苦笑した時、ふと背のあたりがむずりとした。
気配。
誰かの視線、と言うほどはっきりしたものではない。だが、裏通りの空気がほんの少しだけ変わった。人が近づけば、土の匂いも、音の返りも、風の流れも微かに違う。そういう違いは、腹が減って道ばたをうろつく暮らしをしておると、案外身につく。
わしは守りをすぐ懐へしまい、何も気づいておらぬ顔で歩き出した。
「さて、今日はどこの軒下が寝心地よいかのう」
独り言を言うてみる。返事はない。
だが、後ろに何かおる。
人通りのある大路へ戻る手もあったが、それでは相手も隠れやすい。ならば逆に、細い路地を使って様子を見た方がよい。わしは肩の力を抜いたまま、城下の裏道を折れた。
左へ。右へ。桶の積んである路地を抜け、塀沿いの狭い道へ入り、干し物の揺れる間を抜ける。
追ってくる。
足音は立てぬようにしておるが、立てぬようにしておる者ほど、わずかなためらいが音に出る。普通の町人ではない。酔っ払いでもない。こやつ、身を隠すことに少し慣れておる。
「ほう」
わしは口の端だけで笑った。
寺の裏で脅され、市でうつけの噂を聞き、帰り道で尾けられる。ほんに忙しい一日だ。だが、こういう時に大声を出して助けを呼ぶのは下策である。相手がただの盗人ならともかく、面倒の匂いが濃い者なら、人を集めたところで余計にこじれる。
わしは次の角を曲がった。
その先は少し開けた空き地になっておるはず――と見せかけて、実は板塀が新しく継ぎ足されていて、道が狭まっている。こないだ通った時には抜けられたが、今は行き止まりに近い。
「……やれやれ」
袋小路である。
誰だ、このような時に限って板を打ち付けたのは。世はほんに意地が悪い。
わしは立ち止まり、ゆっくり振り返った。
細い路地の入口に、人影がひとつ立っていた。
夕方の光の中、逆光になって顔まではよく見えぬ。だが、立ち方で分かる。重心が低く、逃がすより塞ぐ位置だ。追いつめるつもりで来ておる。
「さて」
と、わしは笑った。
「顔も見せぬまま追い立てるとは、ずいぶん奥ゆかしい客人じゃのう」
人影が一歩、二歩と近づく。
そして光の加減が変わったところで、ようやく顔が見えた。
あの娘であった。
寺で会うた、目つきの悪い娘。村娘のふうをしておるくせに、立ち方だけがまるで違う娘。足を掛け、脅し、名も告げず去った娘。
「……おぬしか」
と、わしは言うた。
「そう言うおぬしは、ずいぶん“尾けられる顔”をしておる」
「そちらが尾けたのではないか」
「先に人の持ち物を懐へ入れたのはおぬしだ」
「落としたのはおぬしだろう」
「拾うたなら、すぐ捨てればよい」
「捨てたら後で首を絞められそうでな」
「半分は当たりじゃ」
ひどい。
だが、その声を聞いてわしは少しだけ安堵した。尾ける者が見知らぬ悪党でなく、少なくとも見知った目つきの悪い娘であるというのは、良いこととは言えぬが、最悪でもない。
娘は近づいてきて、わしの胸元へ視線を落とした。
「あるな」
「何のことじゃ」
「そういう時だけ、とぼけるのが下手だ」
「傷つくのう」
「懐だ」
「近い」
「返せ」
短い。
まったく、情もへったくれもない言い方である。
わしは壁に背を預けたまま、わざとらしくため息をついた。
「拾うた品を返すのに、もう少しこう、礼とか、事情とか、柔らかい言いようはないのか」
「人のあとを嗅ぎ回る男に、丁寧な口を利く義理はない」
「嗅ぎ回るとはまたひどい。わしはただ、落とし物を眺めておっただけじゃ」
「布の質まで見て、結び目まで眺める男が、ただの拾い主と思うか」
「おぬし、見ておったのか」
「最初からな」
ぞくりとした。
最初から、ということは、市を出たあたりからか。わしが裏通りで守りを取り出すまで、ずっと見られておったのかもしれぬ。
「……怖い娘じゃのう」
と、わしは本音を漏らした。
「今さらか」
「今だからこそよく分かる」
娘は面倒くさそうに眉を寄せた。だが、その目には少しばかり焦れが混じっておる。守りを取り戻したいのは本気らしい。あれは単なる飾りではなく、やはり彼女にとって必要な品なのだろう。
「返せ」
と、娘はもう一度言った。
「素直に返せば、それで済む」
「本当に済むのか」
「済ませる」
「命は縮まぬか」
「おぬし次第だ」
わしは苦笑した。
この娘の“済む”は、どこまで信用してよいのやら分からぬ。だが、ここで持ち帰るわけにもいかぬし、取り合いになれば勝てる気がしない。第一、返すつもり自体は最初からあった。
わしは懐から守りを取り出した。
娘の目が、わずかにその動きを追う。普段冷たいくせに、必要なものが戻る時だけは目の奥が動く。その変わりようが少しだけ年相応に見えて、わしは妙な気持ちになった。
「ほれ」
と、わしは掌に守りを乗せる。
「中は見ておらぬ」
「見ようとしたか」
「少し」
「この阿呆」
「だが見てはおらぬ」
「結び目の形を見ておった」
「それも少し」
「匂いまで嗅いだな」
「……よう見ておる」
娘はあきれたように目を細めた。
「返してもらう側で、ここまで腹が立つのも珍しい」
「礼を言われぬのは慣れておる」
「礼を言う筋ではない」
そう言いつつも、娘は手を出した。
指先が細い。だが爪の形は綺麗すぎず、手の腹にはわずかな硬さがある。女の手というより、道具を使い、走り、何かを掴んできた手だ。
その指が守りへ伸びた瞬間、わしはふと思いついて言った。
「のう」
娘の目が上がる。
「何だ」
「これは、やはり普通の娘の持ち物ではないな」
「……」
「布も結びも、よう出来すぎておる。武家の品か、忍びの類のしるしか、そういう――」
「黙れ」
ぴしゃりと切られた。
しかも今度は、声だけでなく目も本気で冷えておる。夕暮れの路地が少し狭くなるような冷たさだ。
わしは肩をすくめる。
「分かった、分かった。余計なことは言わぬ」
「最初からそうしろ」
「だが、わしも拾うただけではない。これはおぬしに返るべきものと思うたから、懐へ入れておった」
「それで鼻を利かせすぎる」
「生まれつきでな」
「直せ」
「難しい」
「面倒な男だ」
娘はそう言いながら、ようやく守りを取り戻した。小さく握りしめる。その仕草はほんの一瞬だけ、警戒より安堵が勝ったように見えた。
やはり、大事な品なのだ。
「それほど大事なら、落とすな」
と、わしが言うと、
「おぬしがいたから落としたようなものだ」
と返ってきた。
「責任転嫁ではないか」
「事実だ」
「横暴な娘じゃ」
「生きるのに要る」
少し前にも似たようなことを、おつねが言うておった気がする。女というものは、案外よく似た理屈で世を渡るのかもしれぬ。もちろん、棘の向きはそれぞれ違うが。
路地の入口の方で、誰かが通る気配がした。話し込んでおる場合ではないと娘も思うたのだろう。守りを懐へ戻し、身を翻しかける。
その前に、彼女はわしを見た。
「日吉丸」
「おお、名を覚えてくれたか」
「忘れる方が難しい」
「それは褒めておるのか」
「迷惑という意味だ」
ひどい。
だが、その次の一言は予想より少しだけ違った。
「借りは作った」
と、娘は短く言った。
「守りを戻した分だけな」
借り。
この娘の口から、そんな言葉が出るとは思わなかった。
わしは目を瞬いた。
「ほう。では、礼でもくれるのか」
「調子に乗るな」
「では、借りとやらはどこへ置いていく」
「置いていかぬ。あるだけだ」
そうして娘は、少しだけ声を低くした。
「だが、これで終いにせよ」
終い。
つまり、これ以上わしが首を突っ込むな、ということだろう。
もっともな話である。寺の裏手を覗き、坊主に化けた男を見て、守りの布を眺め回しておるような若造に、これ以上関わられては、向こうもたまったものではない。
だが、そう言われると、余計に気になるのが人情というものだ。
わしが何か言う前に、娘は一歩下がった。
「次に会うても、これ以上は知らぬ顔をせよ」
「それはだいぶ寂しい言いようじゃのう」
「寂しがる仲ではない」
「足を掛けられ、脅され、守りを拾うた仲ぞ」
「なおさらだ」
娘はそれだけ言うと、今度こそくるりと踵を返した。
夕暮れの薄い光の中、裾がひるがえり、細い背があっという間に路地の影へ溶けていく。足音はほとんどしない。ほんに、人より猫に近い娘だ。
わしはその背を見送った。
借りは作った。だが、これで終いにせよ。
なかなか強い言葉である。
「終いにできれば、苦労はないのじゃがな」
ひとりごちて、わしは壁から背を離した。
路地には、もう娘の気配はない。残ったのは、夕方の湿った土の匂いと、どこかで炊き始めた飯の匂いだけだ。腹が、また小さく鳴った。
まったく、面倒ごとは飯時を選んでくれぬ。
だが胸の内には、さっきまでのような重さとは別のものが残っていた。
借り。
あの娘がそう言うた以上、またどこかで会うことがあるのかもしれぬ。いや、会わぬ方がよいのだろう。よいのだが、世の中は大抵、よい方へは転がらぬ。
わしは路地の出口へ向かいながら、空を見上げた。
日はもうだいぶ傾き、城下の屋根が赤く染まり始めている。遠くの城の方角は、夕の光のせいか、少しだけ大きく見えた。
面倒ごとの匂いは、消えぬ。
だが今のところ、それはまだ鼻先をかすめる程度であった。
問題は、その匂いを、わしが嫌いではないことである。




