表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/9

第6話 うつけと呼ばれる男の噂

市というものは、品を売り買いする場であると同時に、噂を売り買いする場でもある。


菜ひと束、味噌玉三つ、干魚ひと包み――それらが人の手から手へ渡るあいだに、どこの村で堰が壊れたとか、どこの娘が奉公に出ただとか、どこぞの侍が酔って溝へ落ちただとか、そういう話がするりと混じる。銭で買うわけでもないのに、噂というやつは妙によく流れる。


しかも厄介なことに、安い噂ほどよく売れ、重い噂ほど後から効く。


その日の市も、昼を回る頃にはすっかり人で膨れていた。


朝のうちは菜の青さや魚の匂いが勝っていたが、今は人の熱と土埃と、炙ったものの匂いまで混じって、実に城下らしい濃さになっておる。値切る声、笑う声、喧嘩腰の声、子どもの泣き声、荷車のきしみ。耳に入るものが多すぎて、ぼんやりしておると頭の中まで市になってしまいそうだ。


わしはおつねの店先の脇に腰を下ろし、売り物の菜が減ってできた隙間を何とはなしに眺めていた。


先ほどの荒くれ者とのひと揉めは、どうにかこうにか傷も残さず済んだ。いや、傷が残っておるとすれば、それはおつねの「本当にそのうち殴られるよ」という呆れ声くらいのものである。


「まだ座っておるのかい」

と、おつねが言った。

「働いた後の男には休息が必要じゃ」

「さっきから口しか休んでおらぬだろう」

「それは違う。口は常に働いておる」

「威張ることかね」


おつねは味噌玉を包みながら、こちらを見もせずにそう言う。だが追い払わぬあたり、まだ使い道くらいは認めておるのだろう。ありがたいことである。


わしは通りの向こうを見やった。


少し離れたところで、先ほどの人足たちがまだ何やら騒いでおる。酒の勢いが抜けぬまま、別の荷担ぎ衆や魚売りと入り混じって、世間話とも悪態ともつかぬことを口走っている。


その中で、また聞こえた。


“うつけ”。


あの言葉である。


寺でも聞いた。道でも聞いた。今また、ここでも聞く。まるでこの城下のどこかに、小さな火種のように埋まっておって、人の足が近づくたびにじり、と煙を上げるようだ。


「のう、おつね」

「何だい」

「“うつけ”とは、そんなによう話の種になるものか」

「何を今さら」

おつねは呆れたように言う。

「城下へ来ておいて、織田の若殿の噂を聞かぬ方が難しいよ」

「若殿、か」

「うつけ殿、とも言うし、尾張一の変わり者とも言うし、恐ろしい御人だとも言うしね」

「ずいぶん忙しいお方じゃのう」

「見る者で違うんだろうさ」


見る者で違う。


それはつまり、ひとことで片づかぬ相手ということだ。


ただの馬鹿なら、“馬鹿”で話は終わる。だが人は、得体の知れぬ者ほどあれこれ言いたがる。あれこれ言うということは、少なくとも皆、放ってはおけぬのだ。


「どんなお方なのじゃ」

と、わしは聞いた。

「会うたこともないのに、よう聞くよ」

「会うておらぬから聞くのだ。会うた後では、聞く暇もなく斬られるやもしれぬ」

「縁起でもないことを言うな」


おつねは小さく鼻を鳴らしたが、少し考えてから答えた。


「派手なものがお好きだって話はよう聞くね。変わった着物を着たり、周りが顔をしかめるようなことを平気でやったり」

「うむ」

「寺でも、年寄り衆でも、“あれでは織田は持たぬ”って言う人は多いよ」

「ほう」

「けれど、そう言いながら気にしておる。皆ね」


それは、だいぶ面白い。


呆れられておるのに、人の目を引く。悪く言われておるのに、忘れられぬ。そういう人間は、たまにおる。たいていは近づくと面倒だ。だが遠くから見ておる分には、実に気になる。


通りの向こうでは、今度は魚売りの男が大声で笑っていた。


「おい、あれだろう! この前も派手な小袖でふらふらしとったって話じゃねえか!」

「うつけよ、うつけ!」

「うつけにしては、妙に人がついていくのが気味悪い」

「気味悪いっちゅうより、あれは若い衆が面白がっとるのよ」

「面白がるだけで命を張れるかよ」

「だが、あの殿の周りは、妙に熱いぞ」


最後の言葉は、酒気混じりの笑い声の中でも少し重かった。


わしは耳をそばだてる。


若い衆が面白がる、というのは分かる。変わり者というのは、退屈な世にはよい見世物だ。だが“命を張れるか”という言い方になると、それはただの見世物では済まぬ。


織田の若殿――うつけと呼ばれる男の周りには、笑いだけではない何かがあるのだろう。


「なあ、おつね」

「まだ聞くのかい」

「気になるのでな」

「気になるものは碌でもない、って顔をしておるよ、おぬしは」

「うつけに引かれるのは、うつけの相か」

「おぬしが言うと、笑えないねえ」


おつねはそう言いながらも、隣の店の婆さまと目を合わせた。

「ねえ、おかね婆さん。あんた、うつけ殿のこと何か知っておるかい」

「知るも何も、見たことくらいはあるさ」

と、隣で乾物を売る婆さまが言う。

「それで?」

と、わし。

婆さまは歯の欠けた口をにやりとさせた。

「派手よ。とにかく派手。昔の殿様みたいな取り澄ましたところがない。だが、ただ騒がしいだけなら、あそこまで人の口には乗らん」

「何が違うのじゃ」

「さあねえ。わしぁ侍のことは分からんよ。ただ、ああいう人は、嫌う者も多いが、妙に“ついていってみたい”と思う者もおるもんさ」


なるほど。


それはやはり、ただの阿呆ではない。


婆さまはさらに声を潜めた。

「だがね、城下じゃ面白がってばかりもおれん。殿がどう動くかで、税のかかり方も、警固の厳しさも、寺との揉め方も変わる」

「寺との揉め方?」

と、わしが聞き返すと、婆さまは肩をすくめた。

「城下の者なら皆知っとるよ。寺社が強いところは、年貢だけじゃ済まぬ。人も銭も、あちこちへ頭を下げて回るんだ。殿が強く出れば楽になることもあれば、そのぶん別のしわ寄せも来る」

「ふむ」


おつねもそこで口を挟んだ。

「この前も、通りの端で警固の者が露店を追い立てていただろう」

「ああ」

「“城下の筋を乱すな”だの、“寺前の場所代がどうだ”だの、上の話が下へ落ちてくる時は、たいてい面倒になってる」

「世は上から下まで面倒でできておるのう」

「面倒でなけりゃ、あたしたちみたいなのはもう少し楽に暮らせるよ」


おつねは笑わずに言った。


その言葉には、いつもの棘とは少し違う重みがあった。


確かにそうだ。


うつけだの変わり者だのと、上の者を面白おかしく語るのは市の楽しみのひとつだろう。だがその“うつけ”が城を動かせば、下の者の暮らしも動く。警固がきつくなれば、露店は追われる。寺と揉めれば、寺前で商う者が困る。税が変われば、菜ひと束の値も、味噌玉ひとつの重みも変わる。


乱世とは、槍働きの話ばかりではない。


飯の量、銭の数、通りの居心地、そういう小さなところへ重くのしかかるのだ。


「……面白いのう」

と、わしはぽつりと言った。


おつねがじろりと見る。

「何がだい」

「皆、うつけと笑うておる。だが、そのうつけが何をするかで、こうして市の空気まで変わる」

「だからこそ、皆、好き勝手言うんだよ」

「好き勝手言うのに、無関心ではおれぬわけだ」

「そういうことだね」


わしは頬杖をついた。


見たことのない男だ。会うたこともない。どんな顔をし、どんな声で喋り、どんなふうに怒るのかも知らぬ。


だが、名前も知らぬ寺の娘と同じで、“見ておらぬのに気になる”というのは厄介だ。


いや、違うか。


あの娘の方は見てしまった。見てしまって、よけいに気になっておる。


その違いを考えた時、胸の内に、懐へ入れた布守りの存在がふと浮かんだ。


わしは無意識に胸元へ手をやった。


布越しに、あの小さな守りの感触がある。


おつねがその仕草を見とがめた。

「何を持っておる」

「宝物じゃ」

「急に胡散臭くなったね」

「胡散臭いとは何じゃ。男には誰しも、ひとつふたつ、懐に訳ありのものがある」

「ろくでもない物言いだ」

「もっとよい言い方をすると、“縁のしるし”」

「もっと胡散臭くなった」


もっともである。


わしは笑ってごまかしたが、心の中では守りのことが妙に引っかかっていた。


寺で会うた娘。僧に化けた男。門前の小僧。商人ふうの男。そして、この城下で囁かれる“うつけ”の噂。


まだ何も繋がってはおらぬ。繋がっておると決めつけるのは、ただの阿呆だ。だが、世の中の面倒というものは、たいてい“最初は繋がって見えぬ”ものでもある。


おつねの母が、店の奥から声をかけてきた。

「おつね、水が足りないよ」

「はいはい」

おつねは立ち上がり、わしを見た。

「おぬし、そこに座っておるなら番をしておいで」

「番賃は」

「さっきの売り上げで許してやる」

「安い」

「飯つきなら高い方だよ」


そう言って、おつねは桶を持って離れた。


わしは店先へ残される。


番と言うても、菜と味噌玉を見ておるだけだ。だが、この“見ておるだけ”というのが、案外嫌いではない。通りを行く人の顔を見、荷の重さを見、誰と誰がつるんでおるかを見る。見ておれば、その場その場の空気は少し分かる。


向こうでは武家風の小者が二人、足早に通り過ぎた。寺帰りらしい老人が何やら不満げに首を振る。露店の男が警固らしい者を見て目をそらす。皆、それぞれに城下の風へ気を配っている。


“うつけ”ひとりの話ではない。


この城下そのものが、何やら落ち着かぬのだ。


やがて、おつねが戻ってきた。桶を置き、菜に水を打ち、手際よく並べ直す。その横顔を見ながら、わしはふと口にした。


「のう」

「何だい」

「もし、そのうつけとやらが、本当にただの阿呆ではないとしたら」

「したら?」

「面白いことになるかもしれぬ」

「ろくでもないことになる、の間違いじゃないかい」

「面白いことと、ろくでもないことは、たいてい隣同士よ」

「おぬしの人生みたいにね」

「うまいことを言う」

「褒めておらぬ」


まったく、容赦がない。


だが、その容赦のなさが、今のわしには妙に心地よかった。夢ばかり見ておると、こういう娘が土の上へ引き戻してくれる。ありがたいことだ。


日が少し傾き始め、市の賑わいも朝の鋭さから昼の重さへ変わっていく。人の声はまだ多いが、値切りの勢いより、売れ残りをどうするかの顔が増えてくる。


わしはその間に、そっと懐の布守りを取り出した。


おつねはちょうど別の客の相手をしており、こちらへ目を向けておらぬ。


布守りは手の中にすっぽり収まるほど小さい。地味な色合いだが、改めて見ると、織り柄がただの飾りではない気がした。糸の合わせ方が独特で、花でも鳥でもない。だが、どこか“印”めいている。


武家の家紋ほど露骨ではない。寺の守り札ほど素朴でもない。


もっと、隠すための柄だ。


「……何じゃろうな、これは」


指先でなぞる。


寺で会うた娘が持っておったにしては、質がよい。だが、町の娘の持ち物というには無骨だ。しかも使い込まれておる。実用品か、所属のしるしか、あるいは命綱のようなものか。


あの娘の細い指。冷えた声。人を見る目。僧に化けた男。走り方。


守りを見つめるうちに、わしの胸の内で、ぼんやりしておったものが少しずつ形を取り始める。


これは、ただの娘の持ち物ではない。


どこか武家の、それも表に出ぬ側の者か。


あるいは、忍びのような者らが持つしるしではないか。


「おぬし、何をにやにやしておる」

ふいに声がして、わしはあわてて守りを握りこんだ。

「うおっ」

おつねが呆れた顔で立っておる。

「怪しい男だねえ」

「怪しくはない。物思いにふけっておっただけじゃ」

「物思いをする顔ではなかったよ。腹が減った犬が、骨を見つけた顔だった」

「おつね、おぬし、比えがいちいち辛辣じゃのう」

「おぬし相手にはちょうどいい」


わしは苦笑して、守りをまた懐へしまった。


まだ誰にも言う気はない。


言うても、どう説明したものか分からぬし、おつねに知られれば「だから面倒ごとを拾うなと言うたのに」と一刻は説教されるに違いない。それはそれで正しいのだが、正しい説教ほど耳が痛い。


通りの向こうで、城の方へ向かう風が吹いた。


わしは何とはなしに、その方角を見た。


“うつけ”と呼ばれる男のいる城。

その城下で動く人々。

そして、この小さな布守りを落としていった娘。


どれもまだ、わしには遠い。


遠いが、どうにも気になって仕方がない。


まるで、腹の底に小さな火種が落ちたように。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ