第5話 町娘は、たいてい優しく、たいてい容赦がない
翌朝、目が覚めた時、わしの腹はたいそう機嫌が悪かった。
昨日は寺で粥をひと椀、城下でおつねから握り飯を二つもろうた。しかもそのうち一つ半は、ちゃんとわしの腹へ入った。普段のわしなら大勝利と言うてよい一日である。だが人の腹というものは恩知らずで、昨夜あれだけありがたがっておったくせに、朝になれば「で、次は」と来る。
「昨日のありがたみを、もう少し大事にせい」
そう言うてみたが、腹は答えぬ。答えぬどころか、ぐうと鳴って抗議した。
わしは軒下の薄い板壁にもたれたまま、しばし空を見た。春先の朝はまだ冷える。夜露の残る土の匂い、遠くで鶏の鳴く声、店を開くために戸を外す音。城下は夜より朝のほうが忙しい。生きる者らが、いっせいに腹のため動き出すからだ。
わしもまた、動かねばならぬ。
昨日のうちに、おつねへ「礼はいずれ」などと見栄を張ってしまった。ああいう時のわしは本当にいかん。礼など、今の身では握り飯半分にもならぬくせに、口だけは立派なことを言う。
だが、言うたからには何かせねばならぬ。
「よし。今日は少しばかり、人の役に立つ男らしく振る舞うとするか」
誰にともなく宣言し、わしは立ち上がった。
城下の通りへ出ると、朝の市へ向かう人の流れができ始めていた。菜を入れた籠、味噌の樽、魚を包んだ藁、布や小間物を抱えた女たち。まだ日が高くなる前から、売る者も買う者もせっせと動く。この“せっせ”という空気が、わしは嫌いではない。働いておる者は皆、忙しそうな顔をしておるのに、どこか強い。
おつねの家の店先へ行くと、案の定、娘はもう働いていた。
小さな荷を仕分けし、母親と何やら短く言葉を交わし、売り物の菜と味噌玉を手早く整えておる。朝の光の中で見ると、おつねは昨日よりいっそう元気に見えた。いや、元気というより、休む暇がないから動いておるという方が近いかもしれぬ。
わしが店先へ顔を出すと、おつねはちらりとこちらを見た。
「何だい。朝から人の顔を見て、景気でも悪くしたいのかい」
「ひどい言いぐさじゃのう。礼を言いに来たのだ」
「昨日もう聞いた」
「飯の礼は何度言うても足りぬ」
「何度言われても飯にはならぬよ」
さすがである。朝から切れ味がよい。
わしは店の端へ寄りかかって、大げさにため息をついた。
「相変わらず、優しくない」
「優しい町娘など、飯の代わりに夢でも食わせるつもりかい」
「夢でも食えるほど腹が減れば、わしもいよいよ立派な仙人じゃ」
「おぬしが仙人なら、世の仙人も安くなったもんだ」
そのやり取りを聞いていたおつねの母が、奥からくすりと笑った。
「朝から仲がいいこと」
「仲がよいのではありませぬ。わしが一方的に斬られておるのです」
「口で斬られるうちは平気だろう」
と、おつねが言う。
「本当に斬られるような真似をするなよ」
「そのような危ない橋は渡らぬ」
「昨日、寺で盗人騒ぎに首を突っ込んだ男の言うことかい」
おや、とわしは眉を上げた。
「どこで聞いた」
「城下は狭いんだよ。朝にはもう流れてくるさ。腹を空かせた若いのが、寺で転んだだの、盗人を追いかけただの」
「転んだ話は要らぬ」
「肝心のところだからね」
「肝心ではない」
「大事な笑い話だよ」
おつねはつんとした顔で言うたが、口元が少し上がっておる。昨日の路地で見せた困ったような顔とはまた違う。今日は“いつものおつね”であるらしい。
そのおつねが、ふいにわしをじろりと見た。
「そこに突っ立っておるなら、荷を持ちな」
「荷?」
「市へ行くんだよ。今日は人手が足りない。口だけでなく手も動かせるなら、少しは役に立ちな」
「おお、それはつまり、わしを頼りにしておると」
「ただ働きの小者が目の前におるなら使う、というだけだ」
「言いよう」
「ありがたく思いな」
ありがたく思うほかない。
わしは二つ返事で荷を担いだ。籠に入った菜、味噌玉を包んだ布、少しばかりの乾物。軽いとは言えぬが、荷運びを首になったばかりの身としては、むしろ得意分野である。いや、得意だったなら首になっておらぬ、というもっともな話は今は脇へ置く。
市は城下の通りを少し抜けた広場で開かれていた。
朝のうちはまだ余裕があるが、日が高くなるにつれて人も声も匂いも増していく。菜売り、魚売り、薬種売り、桶売り、古道具、布、草履、針。人の暮らしにいるものはだいたいここにあり、いらぬものまで紛れ込んでくる。
おつねはいつもの場所らしい一角へござを敷き、品を並べ始めた。わしも手伝う。菜の並べ方、味噌玉の置き方、客の目に入りやすい角度。こういう細かなことにも商いの知恵があるらしい。女というのは細いところまでよう見ておる。
「その味噌玉、もう少し前」
「こうか」
「寄せすぎだ」
「こうか」
「今度は離しすぎ」
「難しいのう」
「人の目は勝手に動くんだよ。取りやすく見えて、安く見えすぎぬ置き方がある」
「商いとは奥が深い」
「深いよ。おぬしの浅い軽口よりは、ずっとね」
「今日も朝から容赦がない」
だが、おつねに使われておると、なぜだか妙に落ち着く。やることがあって、口を叩く相手がいて、飯に繋がる見込みがある。根なし草のわしにとって、それは案外たいしたことだ。
並べ終わる頃には、もう人が増えてきた。
だが正直なところ、おつねの家の品は悪くないくせに、最初の客付きはあまり早くない。隣の魚売りは威勢がよく、反対側の布売りは色が派手で人目を引く。菜と味噌では、どうしても見た目の華がないのだ。
「ううむ」
と、わしは腕を組んだ。
「何だい、その顔は」
「このままでは、おつねの漬け菜のうまさを知らぬ者が多すぎる」
「朝から何を大げさな」
「大げさではない。世の損失じゃ」
「世まで広げるな」
だが、わしはもう少し前へ出た。
「さあさあ、見ていかれよ! 朝の菜は朝のうち! 昼にはしなびる顔も、今ならしゃんとしておるぞ!」
「何だ、その言い草は!」
と、近くの婆さまが笑う。
「菜に向かって“顔”とは失礼な若造だ」
「いやいや、菜も人も朝の張りが肝心でして」
「おぬしみたいな口の軽い男は、昼にはしなびておるだろうよ」
「夕べからしなび気味です」
「正直だねえ」
笑いが起きる。
よし、これだ。
客は品だけで寄るわけではない。足を止めさせるには、まず顔を上げさせねばならぬ。顔を上げれば目が行く。目が行けば、うまくすれば手も伸びる。
わしはさらに声を張った。
「味噌玉もあるぞ! 煮てもよし、塗ってよし、舐めてよし! この娘が朝から手ぇ込めて作った品じゃ、まずいわけがない!」
「ちょっと!」
と、おつねが小声で睨む。
「誰が舐めてよしなんて言うた!」
「味噌はだいたい舐めてもうまい」
「そういう問題じゃない!」
だが客は来た。
最初の婆さまが漬け菜を手に取り、匂いをかぎ、「あら、こりゃよい」と言う。続いて若い女が味噌玉を二つ。釣られて、向こうの男もひと包み。おつねはわしを睨みつつも、手は休めず、値を伝え、品を包み、銭を受ける。
しばらくすると、すっかりいつもの商いの流れができてきた。
「おお、これは景気がよい」
と、わしが言う。
「おぬしの口がうるさいだけだよ」
とおつねは返す。
「だが売れた」
「……まあ、それはそうだね」
「素直に褒めよ」
「増長するから嫌だ」
「今さら増える余地があるか」
「あるから怖いんだよ」
それでも、おつねの目つきが少しだけ和らいでおるのを、わしは見逃さなかった。母親も向こうで小さく笑っておる。人の役に立つというのは、こうして目に見えて銭になると分かりやすくてよい。
だが、よいことばかりは続かぬ。
昼近くになり、市がいちばん賑わいを見せる頃、近くでどたどたと荒い足音がした。見ると、酒の匂いをぷんとさせた男が三人、ふらつくように歩いてくる。荷担ぎか人足あがりか、腕は太いが顔色はよくない。朝から飲んだのか、昨夜の酒が抜けきらぬのか、とにかく碌な気配ではない。
そのうち一人が、わしの声を聞きつけたのだろう、わざわざこちらへ寄ってきた。
「何だ何だ、朝からよく喋る若造だな」
「商いですので」
と、わしはにこやかに答える。
「喋って銭になるなら、わしらも楽でよい」
「その腕で喋れば、ずいぶん迫力がありましょう」
「はっ、舐めた口を利くな」
来た。こういう輩は、気分がよければ笑うが、少しでも鼻につけば噛みつく。しかも、周りに仲間がおる時ほど面倒だ。
おつねがすっと前へ出かけたので、わしは軽く手で制した。
「待て待て」
男はわしの前へ立ち、にやにやしながら味噌玉を一つつまんだ。
「これ、ただで寄越せ」
「商いの場でそれを言うのは、なかなか立派な面の皮ですな」
「何?」
「いや、褒めておる」
「褒められておる気がせぬな」
「気のせいでは」
最後まで言う前に、おつねの足がわしの踵を軽く踏んだ。黙れ、の合図である。痛い。容赦がない。
男の後ろの二人が笑う。
「おいおい、面白い口だ」
「その口で飯を食うておるのだろう」
「だったら、今日はその口でもてなせよ」
なるほど。酒の席の延長で人をからかいたいだけか。ならまだましだ。だが、一歩踏み違えると荷も品もひっくり返される。殴り合いになればわしが負けるのは目に見えておるし、ここで騒げばおつねの商いも台無しだ。
さて、どう収めるか。
わしは男らの顔を順に見た。
一人は声が大きいが、決めるのは真ん中の男だ。そやつの草履の汚れは川辺仕事のもの、腰の縄の結び方は荷担ぎ衆に多い癖。腕が太いのは喧嘩好きというより、日々の労働の賜物だ。つまり、ただの悪党ではなく、どこかの組の下で動く人足に近い。
なら、単に馬鹿にしては逆効果だ。
わしは顔色ひとつ変えず、少し声を落とした。
「旦那方、もしや川向こうの荷組の方か」
真ん中の男の眉が上がる。
「……だったら何だ」
「いや、そうであれば、この味噌玉はただでは渡せぬ、と思うただけで」
「は?」
「ただで渡して、後で“あそこの娘は誰にでもタダでくれる”と知れたら、旦那方の顔が潰れよう」
男らが一瞬、黙った。
おつねもきょとんとしておる。まあ、当然である。わし自身、半分は今思いついた。
わしはさらに続けた。
「市というのは、怖いところでのう。今日ひとつただで貰うたと噂が立てば、“あの人足衆は娘相手に品を巻き上げた”と言う者も出る。もちろん、旦那方にそのつもりがないのは顔を見れば分かる。分かるが、口の悪い連中はそうは言わぬ」
真ん中の男の口元がわずかに引き締まる。
よし、そこだ。
「なら、どうする」
男が低く言う。
「簡単です」
わしはにっこり笑った。
「ここはひとつ、堂々と買うていかれるがよい。ひと包み買うて、“ここの味噌は悪くないぞ”と一言添えれば、旦那方の面も立つし、娘の商いも助かる。誰も損をせぬ」
「……うまいことを言う」
「うまいことを言わねば、生きていけませぬので」
後ろの二人が、互いの顔を見てにやりとした。
「おい、確かにそれなら面が立つな」
「ただで貰うより、気分がいい」
「そうじゃろう。しかもこの味噌、なかなかいけますぞ。酒の後にもよい」
真ん中の男はしばらくわしを見ていたが、やがて鼻を鳴らした。
「減らず口のわりに、少しは頭が回るな」
「少しばかり」
「少しか?」
「かなり、と言いたいところですが、そこは奥ゆかしく」
「どこがだ」
ついに男は笑った。
空気が抜けた。
おつねも、そこでようやく息をついたのが分かった。
男は銭を出し、
「じゃあ、三つ包め」
と言うた。
「ひとつは今食う。残りは連中にでもやる」
「ありがたい」
と、おつねがすぐに包み始める。
その手は少しだけ早い。緊張が残っておるのだろう。
わしは横から口を挟んだ。
「ほれ、見たか。おつねの味噌は、荒っぽい男にも効く」
「おぬしは少し黙れ」
と、おつね。
「さっきの空気でまだ喋るか」
「空気がほぐれたからこそ喋るのだ」
「その匙加減が雑なんだよ」
「才覚と言うてほしい」
「言わない」
男らは品を受け取ると、今度はもう絡む気配もなく去っていった。去り際、後ろの一人がこちらを振り返り、
「おい若造、口で飯を食うなら、たまには酒の席にも来い」
と言うた。
「飯が出るなら考えます」
「やはり飯か!」
「世は飯で回っておりますゆえ」
笑いが起こり、そのまま連中は人混みへ消えた。
ようやく本当に収まったらしい。
わしはふうと息をついた。
「危ないところであった」
「どの口が言うんだい」
と、おつねが呆れたように言う。
「半分はおぬしの軽口のせいだろう」
「半分は、わしの軽口で収まった」
「そこだけ拾うな」
「大事なところよ」
「……まあ」
おつねは少しだけ間を置いた。
「それは、そうだけど」
ほう。
素直ではない娘が、今、わずかに認めた。
わしは腕を組み、得意げに頷いた。
「どうじゃ。わしも少しは役に立つ男であろう」
「口先でその場をしのぐのは、昔から妙にうまいね」
「褒め言葉として受け取る」
「半分だけだよ」
「残り半分は」
「そのうち本当に殴られるぞ、という分だ」
「それはまことにありそうで困る」
おつねはついに吹き出した。
ほんの短く、けれどはっきりと。
こうして笑う顔を見ると、やはりこの娘はよい。棘はある。だが、その棘は誰かを遠ざけるだけのものではなく、自分の暮らしを守るためのものだ。そういう棘なら、むしろ好ましい。
市の賑わいはさらに増していく。魚の匂い、菜の青さ、銭の音、値切る声。人は相変わらず忙しく、面倒も向こうから勝手にやってくる。だが、今のところは何とか回っておる。
そう思うたところで、さきほどの男らの一人が、少し離れたところから捨てるように声を投げてきた。
「この頃、織田の城下は面倒が増えとる。うつけのせいでな」
その一言は、笑いの後に残るように、妙に耳へ引っかかった。
“うつけ”。
またその言葉か。
寺でも、道でも、ここでも聞く。織田の若殿をそう呼ぶ者は多いらしい。だが、ただの悪口にしては、人々の言い方に妙な揺れがある。呆れ、恐れ、面白がり、時に少しの期待まで混じる。
おつねは味噌玉を並べ直しながら、ぽつりと言った。
「うつけ、うつけって、皆好きに言うよ」
「本当にただのうつけなら、ここまで人の口に乗るまい」
と、わしは答えた。
「おぬし、会うたこともないのに?」
「会うておらぬからこそ、気になるのじゃ」
おつねはちらりとこちらを見る。
「ろくな気の引かれ方じゃないね」
「面倒ごとには鼻が利くので」
「それを自慢げに言うな」
だが、わしの胸のどこかで、その言葉が確かに引っかかっていた。
寺の裏で見た、僧に化けた男。
名も知らぬ目つきの悪い娘。
市で荒くれ者の口から出る、うつけの噂。
城下の空気の、妙なざわつき。
ただの飢えや小競り合いではない、もっと大きな何かが、この町のどこかで動いておる。
わしは通りの向こう、城のある方角をなんとなく見た。
まだ遠い。だが、どうにも気になる。
飯の種か、命取りか。
そのどちらであれ、たぶん、あの“うつけ”とやらのいる方へ、わしの足はそのうち向かうのだろう。




