第4話 握り飯ひとつの恩も、乱世では重い
寺の裏手で見つけた小さな布守りは、懐へ入れた途端に妙な熱を持ったような気がした。
もちろん、本当に熱を持つわけではない。春先の陽に温められておっただけかもしれぬし、あるいは、あの名も知らぬ娘のことを思い出したせいで、わしの胸のあたりが勝手にざわついただけかもしれぬ。
どちらにせよ、ろくでもない。
布守りひとつで胸をざわつかせるなど、これは恋ではない。断じて恋ではない。第一、わしはあの娘に二度も脅されておる。足も掛けられた。目つきも悪い。あれを慕うのは、井戸へ飛び込んで「濡れるとは思わなんだ」と言うようなものである。
「……じゃが、返さねばならぬものは返さねばならぬ」
寺の裏を離れ、わしはひとりごちた。
返すと言うは易いが、どこでどう返せばよいのかはさっぱり分からぬ。娘は名も告げず、どこの誰とも知れず、しかもこちらを巻き込まぬようにしておきながら、肝心なところではわしの前へ現れる。まるで狐か野良猫だ。気づけば近くにおるくせに、手を伸ばせば消える。
厄介な縁ができたものである。
とはいえ、今すぐそれを追う腹ではなかった。
粥ひと椀では、腹の底に空いた穴は埋まらぬ。先ほどの騒ぎで少し落ち着いたかに思えた飢えも、歩き出せばすぐに目を覚ます。胃の腑が、「もう一椀」「いや二つ」と、実にわがままな声を上げ始める。
「世の中、なんでもっとこう、ひと椀で済むようにできておらぬのかのう」
誰にともなく文句を言いながら、わしは寺を下りた。
道はゆるやかに城下へ続いている。昼の陽はだいぶ高くなり、人の行き来も増えてきた。荷を担ぐ男、菜を売る女、寺へ参る老人、馬を引く足軽、どこかの使いらしい小姓。尾張の空気はぬるく、だがその下にはいつもせわしなさがある。皆、生きるのに忙しい。
それは城下へ近づくほど濃くなる。
村では土の匂いが先に立つが、城下では人の匂いが先に立つ。味噌、干魚、油、馬、汗、灰、炊いた米、濡れた木、川の泥。金のある者もない者も、きれいな者も汚い者も、ひとところへ集まって暮らせば、匂いというものは遠慮をせぬ。
わしはこの匂いが嫌いではない。
豊かな匂いではない。だが、生きておる匂いだ。
店が並ぶ通りへ出ると、早速、聞き覚えのある甲高い声が飛んできた。
「おやおや。どこの犬ころかと思うたら、日吉丸ではないか」
犬ころとはひどい言いぐさである。
声のした方を見ると、小さな店先で干した菜や味噌玉を並べている娘が、腰に手を当ててこちらを見ていた。年の頃はわしとそう変わらぬ。日焼けした頬に張りがあり、目はくるくるとよく動く。髪は手早くまとめてあるが、働き者らしく後れ毛が頬にかかっておる。着ているものは町娘らしい木綿だが、袖口はしっかり締めてあり、手元の動きに無駄がない。
顔なじみの町娘――おつねである。
「犬ころとは何じゃ。もっとこう、空腹に耐えつつも気品を失わぬ男と言え」
「気品のある男は、寺帰りの草履に泥をつけて歩かぬよ」
「泥もまた風情」
「腹が減って、ふらふらしておるだけだろう」
一息で言い切りよる。
わしは胸に手を当て、わざとらしく感心してみせた。
「相変わらず、よう見ておる」
「おぬしみたいな分かりやすい男、見ずとも分かる」
つれない口を利きながらも、おつねは手を止めてこちらを見ておる。追い払うでもなく、忙しいふりをして無視するでもない。つまり、多少は相手にしてくれておるのだ。ありがたいことである。
おつねはこの辺りで小商いをしておる家の娘で、母とふたりで漬け菜や味噌や小物を売って暮らしている。父は早くに亡くなったと聞いておる。大店というほどではないが、手を抜けばすぐ暮らしが傾くような家である。だからおつねは、わしなどよりよほど現実を知っておる。
そして、その現実を知る娘にとって、わしのような男はだいぶ“面倒な部類”に入るらしい。
「今日はどこで食いつないだ」
と、おつねが聞く。
「寺で粥をひと椀」
「それだけか」
「それだけとは何じゃ。粥ひと椀にも仏の慈悲と人の情けが――」
「足りぬ顔をしておる」
「さすが、よう分かる」
「分かりたくもない」
言いながら、おつねは木箱の陰から水を入れた竹筒を取り出した。
「飲むか」
「おお、神よ」
「大げさだよ」
「大げさではない。今のわしには清水ひと口も黄金千枚に勝る」
「黄金千枚なんぞ見たこともないくせに」
「見たことがないからこそ、好き勝手言えるのだ」
おつねはあきれたように鼻を鳴らしたが、竹筒を寄越してくれた。冷たくはないが、乾いた喉にはありがたい。わしは二口、三口と飲み、ようやく人心地ついた。
「生き返った」
「死んでおらぬ」
「気分の話じゃ」
「その気分というやつで、ずいぶん長う生き延びておるな、おぬしは」
「褒めてくれてもよいぞ」
「褒めておらぬ」
このやり取り、実に落ち着く。
寺で出会ったあの娘との言葉の応酬は、ひとつ間違えば喉元へ刃が飛んできそうな空気がある。だが、おつねの棘は口先に留まる。鋭いが、血までは出ぬ。慣れた痛みというものは、案外気安い。
おつねは商品を並べ直しながら、ちらりとわしを見た。
「で、荷運びの仕事は」
「首になった」
「やはり」
「“やはり”とは何じゃ」
「おぬしが長続きすると思うた方が間違いだ」
「ひどい娘じゃのう」
「ひどいのはおぬしの舌だよ。前も言うたろう。働きは悪くないのに、余計なことまで言うからこうなるんだ」
その通りなので反論しづらい。
わしはごほんと咳払いした。
「働きは悪くない、と言うたな。そこだけもう一度」
「聞こえのよいところだけ拾うな」
「生きる知恵よ」
「その知恵を、もう少し別のところへ回せばいいのにねえ」
おつねの言葉に、わしは肩をすくめた。
別のところ、と言われても難しい。わしは何でもそこそこできるが、何ひとつ“これだ”と胸を張れるものがない。荷も運べる。使いも走れる。人の機嫌も取れる。喧嘩を止める口もある。だがそれらは全部、“そこそこ”だ。
武芸が立つわけではない。学があるわけでもない。家があるわけでもない。田畑もなければ、店もない。今日の寝床も、明日の飯も、その日その日でどうにかするばかり。
そういう男を、器用と言う者もおれば、半端者と言う者もおる。
おつねはたぶん、後の方で見ておる。
「どこか落ち着く気はないのかい」
と、おつねがふいに言うた。
「落ち着く、とは」
「どこかの店へきちんと入るとか、寺へ奉公するとか、腕の立つ親方を見つけるとか。おぬし、いつもふらふらしておるだろう」
ふらふら。
まことにもっともな言いようである。
わしは通りの向こうを見た。荷を運ぶ男らが汗を流し、店先では女が客と値を詰めている。誰も彼も、自分の立つ場所を持っておる。狭くとも、苦しくとも、“ここだ”という場所がある。
わしにはそれがない。
「まあ」
と、わしは笑ってみせた。
「風の向く方へ転がるのも、ひとつの生き方よ」
「石ころか、おぬしは」
「石ころよりはよく喋る」
「石ころの方が、まだ役に立つよ。漬物石になるから」
「ひどすぎぬか」
「本当のことだ」
おつねはそう言ったあと、少しだけ眉を寄せた。言いすぎたと思うたのかもしれぬ。だが、謝るような娘ではない。
代わりに、店の奥から布で包んだものを取り出して、ぽんとこちらへ投げてよこした。
危うく落としそうになって受け取る。
重み。温かさ。包みの形。
握り飯であった。
しかも、朝に村で貰ったような小さなものではない。女の手できちんと握られた、ほどよい大きさの握り飯が二つ。布越しに、ほんのり塩と海苔ではない藻の匂いがする。
「……おお」
思わず声が漏れた。
おつねはそっぽを向いたまま言う。
「朝の売れ残りだ。客には出せぬ」
「客に出せぬものを、わしには出すのか」
「文句があるなら返しな」
「ない。まったくない。これほどありがたい売れ残りが、この世にあろうとは」
「うるさいよ」
「ほんに、うるさいと言われる人生じゃ」
だが、胸がじんわりと温かくなる。
寺の粥は仏の慈悲。村の握り飯は人の礼。そして今のこれは、たぶん顔なじみの情けだ。わしのような定まりのない男にとって、誰かが飯を寄越してくれるというのは、それだけで少し居場所をもらうようなものだ。
おつねは相変わらずこちらを見ぬまま、小さく言った。
「おぬし、器用そうで一番不器用じゃ」
その声は、いつものからかいより少しだけ低かった。
わしは布包みを見つめたまま、しばし言葉を失う。
器用そうで、不器用。
ああ、まことにそうかもしれぬ。
その場その場で口を回し、人を笑わせ、何とか飯にありつく。それだけ見れば、わしは器用に生きておるように見えるだろう。だが、どこにも根を張れず、誰の下にも長くおれず、家も仕事も定まらぬのだから、結局は不器用の極みである。
「……それは、慰めておるのか、馬鹿にしておるのか」
と、わしは尋ねた。
「どちらもだよ」
「欲張りじゃな」
「生きるのに必要なんだ」
おつねはそこでやっとこちらを見た。
強い目だ。やさしい目ではない。だが、目の前の者がどう生きるかを気にする目ではある。
「食うなら、あっちで食いな」
と、おつねは路地の方を顎で示した。
「店先でぼろぼろこぼされると困る」
「承知した。礼はいずれ」
「礼ができる身分になってから言いな」
「では、ずいぶん先になりそうじゃ」
「だから先に言うなと言うてる」
わしは笑い、布包みを大事に抱えて路地へ入った。
狭い路地は日陰になっており、表通りの喧噪が少し遠い。木箱や樽が積まれ、洗い桶が伏せてある。猫が一匹、塀の上からこちらを見下ろしておる。実によい食事場である。
「さて」
わしは木箱に腰を下ろし、布を開いた。
白い飯。塩の気配。指で握られた跡が、まだ少し残っている。人の手で作られた飯というのは、それだけで不思議と腹へ沁みる。
さあ食うぞ、と口を開けかけた、その時だった。
路地の奥から、小さな咳き込みが聞こえた。
またか、と思う。
ほんに、世の中というものは、腹を空かせた者にゆっくり飯を食わせぬようにできておるらしい。
目を向けると、樽の陰に子どもが二人、小さくうずくまっていた。男の子と女の子。年は八つと五つほどか。着物は擦り切れ、頬はこけ、目だけがぎょろりと大きい。こちらの握り飯を見ておる。あまりに真っ直ぐに。
「……」
わしは無言で天を仰いだ。
さっき村で会うた姉弟とはまた別だ。城下には、こういう子がおる。親を失うたか、奉公にあぶれたか、流れてきたか。理由はひとつではないだろうが、腹が減っておることだけは同じ顔をしている。
男の子の方が、妹らしい子をかばうように前へ出た。
「見てねえよ」
と言う。いや、見ておる。
「そうか」
と、わしは答えた。
「では、わしもまだ食うておらぬ」
「……」
子どもは黙る。嘘をつけ、と言いたい顔だ。
わしは握り飯を見た。ふたつある。ひとつ半なら、自分もだいぶ助かる。いや、ひとつでも十分ありがたい。半分ずつでも、ましにはなる。
頭では色々と勘定をする。するのだが。
「まったく、今日という今日は……」
ぶつくさ言いながら、わしは握り飯のひとつを割った。さらにその半分を、男の子へ差し出す。
「ほれ」
子どもは目を見開いた。
「いいのか」
「よくはない。わしも腹が減っておる」
「じゃあ、なんで」
「見ておれぬからじゃ」
「……」
男の子は戸惑いながらも受け取り、妹へ半分やった。妹は最初こそ兄の顔を見たが、すぐにかじりついた。男の子も、警戒しつつ一口、二口と食う。食べ始めると止まらぬ。あれは本当に空いておる腹だ。
わしは残った一つ半のうち、半分を自分の口へ運んだ。
うまい。
塩がきいておる。米がよい。おつねの家の飯は、いつも妙にうまい。きっと、働きながらでも手を抜かずに作るからだろう。そういう家の飯には、腹だけでなく気持ちまで少し収まる力がある。
子どもらはあっという間に食い終え、何度も頭を下げた。
「礼は要らぬ」
と、わしは言う。
「いや、少しは要るな。将来、わしがえらい身分になった時、今日の恩を忘れぬと誓うがよい」
男の子がぽかんとする。
「えらい身分?」
「そうじゃ。今はまだ、ただの腹ぺこ男だが」
妹が小さく笑った。
「へんなの」
「よく言われる」
「おにいちゃん、へんなの」
「二度言うたな。二度言うたこと、ちゃんと覚えておるぞ」
子どもらはくすくす笑って、路地の奥へ走っていった。
その笑い声が消えてから、わしは残りの握り飯を見た。
ひとつ。
最初の二つに比べれば減った。だが、なくなったわけではない。ありがたいことだ。
「……今日のわしは、なかなか立派ではないか」
自分で自分を褒めてみる。
腹はやはり足りぬ。足りぬが、何もないよりはよほどよい。何より、子どもの目の前で自分だけ食うよりは、今の方が胸のあたりが軽い。
そう思いながら握り飯へ手を伸ばした時、ふと、路地の入口の方に気配を感じた。
おつねである。
店先から少し離れた場所に立ち、こちらを見ていた。いや、正しくは、子どもへ握り飯を分けたわしの様子を見ていたのだろう。
目が合う。
おつねはすぐに顔をそむけた。だが、その前に、ほんの少しだけ表情が変わったのをわしは見た。
呆れでも、笑いでもない。
困ったような、腹立たしいような、それでいて少しだけやわらぐような――そんな顔であった。
わしは握り飯を持ったまま、路地口のおつねへ声をかけた。
「のう」
「何だい」
「見ておったな」
「別に」
「見ておった顔じゃ」
「通りがかっただけだよ」
「ならよい。では、わしは今から残りひとつを食う」
「好きにしな」
そっけない返事である。
だが、去るでもなく、少しだけそこに立っておる。
わしは握り飯をひと口かじった。うまい。やはりうまい。塩が効き、米が甘い。生き返るとはこのことだ。
「おつね」
「何」
「恩は重いのう」
「……何の話だい」
「握り飯ひとつの話じゃ」
「大げさだよ」
「わしには重い」
「おぬしは、何でも重う言う」
「軽く扱えば、罰が当たりそうでな」
おつねは返事をせず、ただ鼻を鳴らした。
だが、その耳が少し赤いように見えたのは、たぶん気のせいではあるまい。
わしは残りの握り飯を大事に噛みしめた。
城下の喧噪は相変わらず続き、誰かが荷を落とし、誰かが怒鳴り、どこかで笑い声が上がる。世は乱れ、人は貧しく、明日のことも知れぬ。だが、それでも誰かが飯を握り、誰かがそれを分け、誰かが呆れた顔で見ておる。
それだけで、少しばかり、この世も悪くないと思う。
そして、そう思うた自分に、わしは少し驚いた。
路地口のおつねは、まだ一度だけこちらを振り返って、それから店先へ戻っていった。
その背を見送りながら、わしは布の端で指についた米粒をぬぐう。
帰る家はない。決まった仕事もない。どこかへ「ただいま」と言うような場所もない。
だが、こうして顔を見れば悪態をつきながら飯を寄越す娘がいて、見知らぬ子どもが礼を言い、寺では粥が出る。
ならば、まだ何とかなるかもしれぬ。
もちろん、何とかならぬ日もそのうち来るだろう。来るに決まっておる。だが今日のところは、握り飯ひとつで生き延びた。それで十分だ。
――そう思うた、その時だった。
通りの向こうで、誰かが早口に話しているのが聞こえた。
「この頃、織田の城下は面倒が増えた」
「うつけ殿がまた何ぞしたらしいぞ」
「いや、あれはただのうつけでは――」
わしは最後の一口を飲み込み、何とはなしにその声の方を見た。
“うつけ”。
寺で会うた娘のことでも、おつねの握った飯のことでもなく、今度はまた別の面倒が、どうやら城下の真ん中でくすぶっておるらしい。
わしは口元の米粒をぺろりとなめて、にやりと笑った。
飯を食うた後の面倒ごとは、腹ぺこの時より、ほんの少しだけ相手にしやすい。




