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第3話 寺の軒下で、名も知らぬ娘に脅される

人というものは、不思議なものである。


腹が減っている時は飯のことしか考えられぬくせに、いざ腹へ粥が入ると、今度は余計なことが気になりだす。さっきまで「粥さえ食えればそれでよい」と思うておった男が、ひと椀食っただけで、見知らぬ娘の正体を探ろうとするのだから始末が悪い。


そして、その始末の悪い男というのが、今のわし――日吉丸であった。


寺の門前では、炊き出しの列がまだ続いている。粥を受け取ってほっとする者、椀を抱えたまま泣き出す子、やれやれと空を見上げる婆さま。さっきの盗人騒ぎも、もう半ばまで「よくある面倒」の顔へ戻りつつある。


普通なら、ここでわしも満ち足りた顔をして、どこぞの軒下へでも転がり込み、昼寝のひとつも決め込むべきであった。


だが、あの娘が耳元で囁いた言葉が、妙に残っておる。


――見たことは忘れよ。忘れねば、命が縮むぞ。


あれはただの脅しではない。


脅しにしては、あまりに慣れていた。人を怖がらせようとして言うた言葉ではなく、「そういうものだ」と知っている者の言い方であった。


「命が縮む、か……」


寺の脇の石に腰を下ろし、わしはぽつりと呟いた。


風が吹き、松葉がかすかに鳴る。境内の土は日向で乾き、日陰はまだ少し湿っておる。春先の空気には、土と粥と、薄い香の匂いが混じっていた。


あの娘はもう見えぬ。


門前から松林へ消えたきり、風のようにいなくなった。あれで本当にどこにでもおる村娘なら、わしは今ごろ自分の目を疑うておるところだ。だが疑う余地もない。走り方、目つき、間の取り方、あの小僧を押さえつけた手つき。あれは普通の娘ではない。


となれば、もう少し見ておきたい。


見ておきたい、というのは、つまるところろくでもない好奇心である。しかも、たいていそういう時の好奇心は腹より厄介だ。飯は食えば静まるが、好奇心というやつは、下手に餌をやるとますます肥える。


「いかんな」

と、わしは自分へ言うた。

「まことにいかん。ここで深追いして、ほんに命が縮んでは笑い話にもならぬ」


だが足は立ち上がった。


口と足が勝手に別々のことをするのは、わしの悪い癖である。


寺の裏手へ回る道は、表に比べてずっと静かだ。炊き出しへ来る者の多くは門前に集まるから、裏手は僧や寺男が薪を運んだり、水桶を洗ったりする程度で、人の気配が薄い。裏山へ続く細い道、苔むした石、干された布、雨の染みた板塀。寺というものは表から見るより、裏の方がよほど“世間”を隠している。


わしは木桶の陰に身を寄せ、そろそろと覗いた。


本堂の脇を抜けた先、小さな庫裏の軒下に、人影がふたつ。


ひとつは、あの娘だ。


もうひとつは、僧である。


いや――僧に見える男、と言うべきか。


頭は剃っており、墨染めの衣も着ておる。だが、何かが違う。立ち方か、肩の張りか、目の配り方か。寺で経を唱える者の背ではなく、いつでも身を返せる者の背をしておる。


娘はその男と、ほんの二、三言だけ言葉を交わしていた。


声は低く、何を言っているかまでは聞き取れぬ。だが、相談ではない。報せである。短く、確かめ合うようなやり取りだ。男の方は娘へ紙切れのようなものを見せ、娘は首を横へ振る。次いで娘が何かを言うと、男がわずかに眉をしかめた。


「あれは……」


わしは息を潜めた。


僧ならば、もっと僧らしく無駄にゆったりしておる。あの男にはそれがない。無駄を削り、周囲の音を聞き分け、何かあればすぐ消えられるような身の置き方である。


そして娘もまた、同じように立っておる。


腹の底が、妙に冷えた。


これは、見てはならぬものかもしれぬ。


そう思うた時にはもう遅い。人は「見てはならぬ」と感じた瞬間に、余計に目を凝らす生き物である。困ったものだ。


男が、ふと首を傾けた。


わしはあわてて身を引いた。木桶の陰へ頭を引っ込める。心臓が少し速い。見つかったか。いや、まだ分からぬ。息を殺し、じっと待つ。


足音が、ひとつ。


そしてもうひとつ。


近い。


「出てこい」


男の声だった。


低い。僧の声というより、喉を鍛えた者の声である。


わしは心の中で舌を打った。やはり気づかれておる。


こうなれば下手に逃げるより、最初からそこにおりました、という顔をした方がまだましだ。わしは肩をすくめるような気持ちで、木桶の陰からひょいと顔を出した。


「これはこれは。寺の裏手というのは、ずいぶん静かで結構ですな」

娘が、露骨に嫌そうな顔をした。

「おぬし、何をしておる」

「散歩じゃ」

「桶の陰でか」

「静かな散歩もある」

「散歩で人の話を盗み聞きするな」


やれやれ、正論を言う娘である。正論だからこそ返しに困る。


男はわしを見て、わずかに目を細めた。年の頃は三十を少し回るくらいか。僧衣の下に隠しておるが、体つきは引き締まり、指には妙な硬さがある。槍か刀か、何かを振ってきた手だ。


「誰だ」

と男が問う。

「腹の減った若造でございます」

「名を聞いておる」

「日吉丸、と申します」

「ここで何をしていた」

「散歩と申した」

「本当を言え」

「気になる娘が見えたので、つい」


娘の目が、すうっと冷たくなった。


しまった、と思うたが遅い。別に嘘ではないのだが、言いようというものがある。わしはどうもそのあたりが雑でいかん。


男の視線が一瞬だけ娘へ流れ、またわしへ戻る。


「軽口の多い男だな」

「そうでもせぬと、世知辛い世は渡れませぬ」

「その舌で命を縮めることもある」

「今日はどうも、そのようなことをよく言われる日でして」


男の目が、ほんの少しだけ険を帯びた。


娘は袖の中で何かを握ったように見えた。短刀かもしれぬ。あるいはただの癖かもしれぬ。だが、たぶん前者である。


いやはや、まことに穏やかではない。


わしは両手を軽く上げてみせた。

「お怒りなさるな。聞こえたのは二、三言、いや、ほとんど聞こえておらぬ。見えたのは、娘御が坊主どのと話しておる姿だけ」

「坊主どの、か」

と男は言った。


そこに、ほんのかすかな違和感があった。


尾張の坊主なら、もう少し語尾がやわらかい。言葉の置き方も違う。この男は尾張の言い回しを知っておるが、根のところが尾張ではない。山向こうか、もっと西か。京に近い響きもなければ、美濃とも少し違う。寺者ふうに振る舞っておるくせに、どこか“言葉を借りている”感じがする。


娘もわしも黙ったまま、その男を見る。


男は一歩だけ近づいた。


「日吉丸、と言うたな」

「はい」

「寺の裏手へ忍ぶのは感心せぬ」

「もっともです」

「それで済めばよいがな」


その時、男の袖口から、ほんの一瞬だけ何かが見えた。


数珠ではない。紙でもない。小さな金具のようなもの。装飾ではなく、留め具に近い。しかも寺の者が持つにしては、ずいぶん実用じみておる。旅の行李か、文箱か、あるいは道具袋につけるような類のものだ。


ああ、やはり坊主ではない。


わしは思わず口をついて出していた。


「そのお方、尾張の坊主ではありませぬな」


空気が変わった。


男の眉がぴくりと動く。娘の目が、はっきりと見開かれた。


しまった、と思うた頃には、いつも遅い。


男は声を低くした。

「何でそう思う」

「……いや、何となく」

「何となくで言うたのか」

「何となく半分、耳半分、目半分」


娘が鋭く言う。

「日吉丸」

「はい」

「喋りすぎじゃ」

「それは今、わしも思うておった」


だが言うてしまったものは戻らぬ。


わしは咳払いをひとつした。

「坊主どの――いや、坊主に見えるお方、と言うべきか。まず言葉が少し違う。尾張の者は“言い切る”より“押しつける”ように話すことが多いが、おぬしの言葉は一度引いてから置く。あと、袖の扱いが坊主のそれではない。重い物を隠して持つ者の手つきだ」

男は黙っている。

わしは勢いがついて、さらに言う。

「それに、寺の者なら寺の裏手におっても、周りの音をそこまで拾わぬ。おぬしは最初から、わしがどこに隠れておるか見当をつけておった。坊主というより、誰かを見張る者の目じゃ」


娘が、今度こそ完全に目を見開いた。


ほんの一瞬であったが、それは確かに“驚いた顔”であった。あの娘でも、そういう顔をするのかと、場違いにもわしは少し感心した。


だが、その驚きはすぐに消えた。


代わりに、もっと面倒なものが来た。


「……おぬし」

娘は低く言う。

「ほんに、余計なところばかり見よるな」

「いやあ、褒められると照れる」

「褒めておらぬ」

「承知しております」


男が息を吐いた。怒っているというより、計算を変えた顔である。見られた。しかも予想より少し多く見られている。ならばどうするか。そういう顔だ。


わしは笑顔を保ちつつ、内心でじわりと背に汗がにじむのを感じた。


これは、いよいよまずいかもしれぬ。


男がわしへ向かって言う。

「日吉丸」

「はい」

「おぬし、あまり長生きする質ではないな」

「できればしたいと思うております」

「ならば、今日見たものは忘れろ」

「どうも皆、同じことを言う」

「言われるうちが華だ」


娘がそこで口を挟んだ。

「もうよい」

男は娘を見る。

「よいのか」

「ここでこれ以上脅せば、逆に顔を覚えられる」

「すでに覚えられておる」

「なら、これ以上は益がない」


理が通っておるのがまた恐ろしい。


男はしばし娘を見、それからわしへ視線を戻した。

「運がよかったな」

「よく分かりませぬが、そういうことにしておきます」

「次はないと思え」

「肝に銘じます」


まったく、今日は肝ばかり忙しい。


男はそれ以上何も言わず、ふいと向きを変えた。僧衣の裾がひるがえり、裏手の細道を山の方へ消えていく。その足取りに迷いはない。寺に属する者ではなく、寺を“使う”者の歩き方だ。


残ったのは、娘とわしだけ。


しばし沈黙が落ちる。


境内の表からは、遠く人の声が聞こえる。炊き出しはもう終わりに近いのだろう。木椀の触れ合う音、子どもの泣き声、僧が誰かを叱る声。それらが、妙に遠い。


娘は腕を組み、わしを見た。


「おぬし、阿呆か」

「よく言われる」

「自慢げに言うな」

「自慢になるようなことは、あまり持っておらぬでな」

「それで、あれだけ口が回るのが不思議じゃ」

「口だけは身一つで持ち運べますから」

「そういうところが鬱陶しい」


ひどい言われようである。


だが、娘の声には先ほどまでの冷たさ一辺倒ではないものが混じっていた。呆れか、苛立ちか、そのどちらかだ。少なくとも、今すぐわしの喉を掻き切るつもりはなさそうである。ありがたいことだ。


わしは頭をかいた。

「のう」

「何だ」

「今の男、坊主ではないのう」

「答えぬ」

「では、坊主の真似をしておる誰か、ということにしておく」

「勝手にせよ」

「おぬしも、その類か」

「答えぬ」

「では、村娘の真似をしておる娘、ということにしておく」

「……」


娘のこめかみがぴくりとした。


これは少しやりすぎたかもしれぬ。だが口が勝手に出るのだから仕方ない。たぶん、わしは死ぬまでこうなのだろう。


娘は半歩近づき、低く言った。

「日吉丸」

「はい」

「おぬし、自分が何に首を突っ込んでおるか、本当に分かっておらぬな」

「半分ほどは」

「半分では足りぬ」

「残り半分は、これから知るのではないか」

「知ろうとするなと言うておる」


わしは肩をすくめた。


知ろうとするな、と言われて素直に引き下がれるほど、世の中を上手に渡ってきたわけではない。そもそも、わしのような身軽な男は、知らぬうちに人の裏と表の境目を踏んでしまう。踏まぬように生きようと思うても、腹が減れば仕事を探し、仕事を探せば誰かの都合に触れる。都合の裏には、たいてい面倒がある。


娘はそんなわしを見て、ほんの少しだけ、疲れたような目をした。


若いくせに、そういう目をするのかと、妙な気持ちになる。


「……もう帰れ」

と娘は言うた。

「寺の裏へ来たことも、今の男を見たことも、忘れよ」

「忘れろと言う者が多い一日じゃ」

「多いのは、おぬしが見すぎるからだ」

「見えるものは仕方ない」

「目を潰すぞ」

「それは勘弁願いたい」


本気とも冗談ともつかぬ声で言うから、この娘は怖い。


わしはそれでも笑い、

「ならせめて、名くらい教えてくれてもよかろう。ここまで脅されて、相手の名も知らぬでは夢見が悪い」

と言った。


娘は少しだけ黙った。


もしかして今度こそ名を明かすか、と思うたが、そんな甘い娘ではない。


「要らぬ」

と、彼女はまた言った。

「おぬしが知る必要はない」

「ずいぶんつれない」

「知れば、おぬしがもっと余計なことをする」

「否定できぬ」

「であろう」


言い切って、娘はくるりと踵を返した。


去り際の足取りは軽い。音を立てぬように歩くことが、もう体へ染みついておるのだろう。裾がひるがえり、春の薄い陽の中へ細い影が滑っていく。


その時だった。


娘の帯の脇から、何か小さなものがぽろりと落ちた。


娘は気づかぬ。


わしは思わず一歩前へ出た。

「おい」

声をかけかけて、やめた。


娘はそのまま振り返らず、庫裏の向こうへ消えた。追えば届く距離ではある。だが、つい先ほどまで「余計なことをするな」と脅されておった相手である。ここでまた呼び止めれば、今度こそ本当に短刀が飛んでくるやもしれぬ。


わしは落ちたものを拾い上げた。


小さな布守りであった。


指先でつまめるほどの大きさ。地味な色合いだが、布は丈夫で、縫い目が細かい。寺で配る安い守りとは違う。中に何が入っているかは分からぬが、軽い。香がほんの少し移っておる。さっき娘のそばでかすかに感じた、あの乾いた香である。


「……ほう」


わしはそれを掌に乗せて眺めた。


守り、というにはあまりに質実で、飾り気がない。だが使い込まれた跡がある。大事にしておったのか、あるいは“大事にしているように見せる”必要があったのか。どちらにせよ、ただの村娘が持つには少し妙だ。


娘は名を明かさず去った。


男は坊主ではなかった。


寺の裏手では、表の炊き出しとは別の何かが動いている。


そして今、わしの手の中には、その娘が落としていった小さな布守りがある。


「いやはや……」


わしは天を仰いだ。


松の枝の隙間から、薄い青空が見える。腹は満ちた。だが、胸のあたりがどうにも落ち着かぬ。これは恋ではない。まだそこまで酔狂ではない。ただ、面倒の匂いが濃くなっただけである。


「まことに、よくない」


そう言いながら、わしは布守りをそっと懐へ入れた。


返すべきか。返さぬべきか。いや、返さねばまた面倒になる。だが返しに行けば、もっと面倒になる。


まことに困る。


困るが――少しばかり、胸が騒いでいるのもまた事実であった。

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