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第23話 農村娘は、笑って済ませることを許さない

水路の泥は、足から離れてもしばらく冷たさが残る。


あれは不思議なもので、冷えたのは脛のはずなのに、しばらくすると胸のあたりまで妙に静かになる。たぶん、人は泥へ入ると少しだけ、自分の軽さを忘れるのだろう。土の重みというものは、口よりずっとよく効く。


喧嘩は、ひとまずその場では収まった。


収まったと言うても、仲直りしたわけではない。上流側も下流側も、腹の底ではまだ相手を疑っておる。寺の田へ向かう水筋のことも、誰も完全には飲み込んでおらぬ。ただ、少なくとも今日この場で鍬を振り上げるのはやめよう、というところまで皆の気が下りただけである。


だが、それだけでも大違いだ。


怒鳴り合いの輪が解け、年寄りが見張りの段取りを決め、若い衆が泥のついた板や桶を運び始める。女衆は水を汲み直し、家へ戻って昼の支度を始める。村の騒ぎというものは、完全には収まらずとも、暮らしの方が先に「もう動け」と言い出す。


人は、怒っておっても飯を食わねばならぬのだ。


わしは水路の脇で足を拭いながら、その様子をぼんやり眺めていた。泥の冷たさはまだ残っておる。だが、頭の方は少しばかり熱かった。


口で止められぬ喧嘩がある。


今さらのように、その当たり前が胸へ引っかかっておる。


「何をぼうっとしておる」


声が飛んできた。


農村娘である。


今日も相変わらず、愛想のよい声ではない。だがその無愛想さにも、少しだけ違いがあった。朝のように、ただ邪魔者を見る目ではない。こいつは厄介だが、完全に追い払うには少し役に立った、という目だ。


「考えておった」

と、わしは答えた。

「おぬしが、少しは見直してくれたかどうかを」

「見直してはおらぬ」

「早い」

「見方が少し変わっただけだ」

「ほう」

「それを、見直したと言うのか」

「男はだいたい都合よく言う」

「おぬしは、だいたい図々しい」


まことにその通りである。


わしは苦笑し、立ち上がった。農村娘は藁縄の束を抱えたまま、顎で少し先の畦道を示した。


「こっちへ来い」

「何じゃ」

「まだ水路の近くにおれば、また誰かに絡まれる」

「それは困る」

「困る顔をしておらぬ」

「少し面倒そうだと思うた顔はしておる」

「それだ」


農村娘は呆れたように鼻を鳴らし、先に歩き出した。


わしもその後をついていく。


水路から少し離れた畦道は、人の声が届くようで届かぬ、ちょうどよい距離にある。田はまだ植え付け前で、低く水を張ったところもあれば、土のままのところもある。風が吹くと、水面が細かく揺れ、空の色が崩れる。そういうのどかな景色の中に、さっきまでの怒声がまだ少し残っておるのだから、人の世というのはややこしい。


しばらく無言で歩いたあと、農村娘がぽつりと言った。


「おぬしは、笑って済ませることに慣れすぎておる」

「……」

「言われたばかりだろう」

「耳が痛いのう」

「痛いだけで済めばよい」

「どういう意味じゃ」

「水のことは、笑って済まぬ」


その言葉は、静かだった。


怒鳴るでもなく、責めるでもなく、ただ土へ置くように言う。そういう言い方は、かえって重い。


わしは少し考えてから答えた。

「今日、それはよう分かった」

「本当にか」

「うむ。さっきの喧嘩、最初はまた軽口で拍子を崩せると思うておった」

「見ておった。顔に出ておる」

「やはりか」

「やはりだ」

「おぬしら、皆してそればかり言うのう」

「分かりやすすぎるからだ」


これで何人目か分からぬ。だが、もう諦めておる。どうやらわしは、顔へ出る男らしい。


農村娘は畦の端で立ち止まり、水の張られた小さな田を見下ろした。


「村の者はな」

と、娘。

「笑うなとは言わぬ」

「うむ」

「笑える時は笑う方がよい。でないと、息が詰まる」

「それはそうじゃ」

「だが、笑ってごまかしてよいものと、よくないものがある」


娘はそこで、草履の先で土を軽く蹴った。


「水は、その“よくないもの”だ」


その言い方に、わしは黙った。


分かっておるつもりだった。だが、つもりでしかなかったのかもしれぬ。


村で水が争いになるのは知っておる。田に入る水が米を決めるのも知っておる。だが知っておるのと、そこに生きておるのとは違う。わしは食うために村の仕事もしたし、土に触れることもある。だが、今日みたいに「この流れが細れば、自分の家の秋が薄くなる」と思って怒る側ではない。


その違いは、大きい。


農村娘が続けた。

「米が減れば、飯が減る」

「うむ」

「飯が減れば、家の中が荒れる」

「……」

「年寄りは黙る。子は泣く。女は隠れて食う量を減らす。男は外で機嫌を悪くする」

「そこまでか」

「そこまでだ」


娘は振り返らずに言った。


「おぬしは、その手前で笑わせる」

「悪いことか」

「悪い時もある」


ぴしゃりと返る。


「笑って、ひとまず殴り合いを止めるのはよい」

と、娘は言う。

「だが、人が本気で困っておる時に、それだけで済むと思うのは浅い」

「……」

「おぬしは、そこがまだ軽い」


軽い。


その言葉は、わしの胸の真ん中へ、ぽすりと落ちた。


おつねには、「器用そうで一番不器用」と言われた。

猫目には、「おぬしは人に化けぬ。だから時々、怖い」と言われた。

巫女には、「まだ乱世の入口に立ったばかり」と言われた。


そして今、農村娘は、わしへ「軽い」と言う。


どれも違うようで、どこか同じところを指している気がした。


わしは空を見た。春の陽は高く、風は柔らかい。だが、胸のあたりだけ少し重い。


「そうかもしれぬのう」

と、わしはようやく言った。

「かもしれぬ、ではない」

「そこまで言うか」

「言う」

「容赦がない」

「おぬしにだけはな」


その返しに、わしは思わず笑った。


農村娘はすぐにこちらを睨んだ。

「何が可笑しい」

「いや」

「またごまかす気か」

「違う」

「では何だ」

「おぬし、ほんに真っ直ぐじゃと思うて」

「それの何が可笑しい」

「可笑しいのではない。羨ましいのかもしれぬ」

「……」


今度は娘が黙る番だった。


どうやら、これは少し意外だったらしい。農村娘のような手合いは、自分が真っ直ぐだと言われても喜ばぬ。むしろ、余計なことを言うなという顔をする。


案の定、娘は不機嫌そうに言った。

「わたしは真っ直ぐなのではない」

「ほう」

「そういうふうにしか、生きられぬだけだ」

「同じではないか」

「違う」

「どこが」

「町のように、曖昧に流して済むことが少ない」


なるほど。


それは、おつねとの違いでもある。


町娘のおつねは、曖昧さを扱う。客の機嫌、売れ残り、顔を立てる言い方、変な男のあしらい。そういう“少しずつずらす”強さを持っておる。


だがこの娘は違う。村では、曖昧にずらしたところで、水は増えぬ。米は実らぬ。だから、言うべきことは言い、見るべきものは見て、嫌でも現実へ立つしかないのだろう。


「村の娘は難しいのう」

と、わしが言うと、

「町の男が軽いだけだ」

と返ってきた。

「わしは町の男ではないぞ」

「では何だ」

「風の男」

「石ころであろう」

「それはおつねにも言われた」

「ならそうなのだろう」


皆して同じことを言う。


だが不思議と腹は立たぬ。むしろ、言われるたびに、別の角度から自分の影を見るような気になる。


農村娘は少し歩き、田の端に置いてあった桶を持ち上げた。中を覗き込み、また置く。何でもない仕草だが、全部が“暮らしの中の手”である。物を持つにも、置くにも、意味がある。無駄な動きが少ない。


「おぬし」

と、娘が言った。

「うむ」

「今日、泥に入ったのは悪くなかった」

「おお」

「だが、あれで“分かったつもり”になるな」

「……」

「一度冷たい水へ足を入れたくらいで、村のことを知った顔をされても困る」

「それもそうじゃ」

「分かったならよい」

「だが、分かったこともある」

「何だ」

「人が腹を括って怒っておる時、軽口は毒にも薬にもならぬ」

娘はわずかにこちらを見た。

「ようやくか」

「ようやくじゃ」

「遅い」

「今まで、わりとそれで何とかしてきたのでな」

「それが運の尽きる時もある」

「刺される時か」

「そうだ」

「皆、同じことを言うのう」

「皆が言うなら、真に受けろ」


その通りである。


わしは苦笑して、畦の先を見た。寺の田の方角が見える。今は静かだ。水も、田も、空も、何も悪くなさそうに見える。だがさっきまであの水をめぐって、村では本気の怒りが渦巻いていた。


静かなものほど、重いことがある。


「のう」

と、農村娘が言った。

「何じゃ」

「おぬしは見ておる」

「ほう」

「口ばかりではなく、目で拾う」

「たまにはな」

「たまにではない」

「そうか」

「そうだ」


娘は腕を組んだ。


「見ておる者は、いずれ選ぶことになる」

「選ぶ?」

「何を見て、何を見ぬふりをするかだ」


その言葉は、妙にまっすぐ胸へ入った。


選ぶ。


たしかにそうかもしれぬ。見えてしまうからといって、何もかもに首を突っ込めるわけではない。わしは軽く見えるものへすぐ鼻を寄せる。だが、これから先、もし本当に村と寺と城下のあいだで、何かが動いておるのだとしたら、全部へ同じように顔を出せるはずもない。


何を見るか。

何を追うか。

何に口を出し、何を飲み込むか。


そういう選びが、たしかに要る。


だが、今のわしにはまだ、その“選び方”がよく分からぬ。


「難しいことを言うのう」

と、わしが言うと、

「簡単なことではないからな」

と娘は返した。

「だから笑って済ませるなと言うておる」


そこまで言ってから、娘はふっと目を逸らした。


「……だが」

「だが?」

「今日、泥に入ったのは、本当に悪くなかった」

「二度言うたな」

「何だ」

「褒めた」

「褒めてはおらぬ」

「二度言うた時点で、だいぶ褒めておる」

「うるさい」

「ありがたい」

「だから、そういうところだ」


また叱られた。


だが、その言い方には、朝ほどの刺の強さはなかった。少しだけ、土の上で一緒に動いた者へ向ける声になっている。


悪くない。


そう思うてしまうあたり、わしもだいぶ単純だ。


向こうで、村の年寄りが誰かを呼ぶ声がした。どうやら、見張りの段取りが固まったらしい。農村娘もそちらへ戻らねばならぬのだろう。


娘は藁縄の束を抱え直した。

「わたしは戻る」

「うむ」

「おぬしも、余計なことをするな」

「それは難しい」

「知っている」

「では、あまり期待するな」

「期待などせぬ」

「ひどい」

「だが」

娘は少しだけ言いよどんだ。

「見たものを、今度は軽く扱うな」

「……分かった」


今のは、ずいぶん重い頼み方だった。


笑うな、ではない。

口を出すな、でもない。


軽く扱うな。


それは、わしの一番悪いところを、真正面から掴んだ言葉だった。わしはつい、面倒も厄介も、人の怒りも、自分の口と身軽さで何とかなる気になってしまう。だが、そうやって軽く見たものの下には、誰かの暮らしや一年や、時には命までぶら下がっておる。


それを忘れるな、ということだろう。


農村娘はそれ以上何も言わず、村の方へ戻っていった。


陽の下を歩いていく背は、決して華やかではない。土の色をしており、村の中へ溶けるような背だ。だが、ああいう娘が村を支えておるのだろうと思うと、少しだけ景色の見え方が変わる。


わしはその背を見送ってから、ひとり畦の上へ立った。


風が吹く。水が鳴る。寺の田の方は相変わらず静かだ。


だが今は、その静けさの裏にあるものを少しだけ意識してしまう。


「見ておる者は、いずれ選ぶことになる、か」


わしはぽつりと呟いた。


腹が減れば飯を選ぶ。

寝ぐらがなければ軒下を選ぶ。

それくらいの選びなら、今までもいくらでもしてきた。


だがこれから先は、もっと別の選びになるのかもしれぬ。


寺を見るか。

村を見るか。

城下を見るか。

あるいは、まだ見えぬ“うつけ”とやらのいる方へ、足を向けるか。


今はまだ、全部がぼんやりしておる。


だが、ぼんやりしたままでも、道は少しずつ分かれていくらしい。


「まったく」

と、わしは笑った。

「飯を探しておるだけの男に、難しいことを言う娘ばかり寄ってくるのう」


そう言いながら、わしは城下の方角へ向けて歩き出した。


腹はまた、そろそろ次を欲しがっている。だが今のわしの頭には、それだけではない別の重みが残っていた。


軽口だけでは、止められぬ喧嘩がある。

笑って済ませてはならぬものがある。

そして、見てしまった者は、いつか何かを選ばねばならぬ。


どうやら、村の泥は、足だけでなく少しばかり胸にも残るらしい。

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